第二話 「匣」
第2話【匣】
「おっちゃん」の顔を見なくなってから一週間になっていた。
おっちゃんとは、私の会社が入っているビルの清掃員さんのことだ。
最初は挨拶を交わす程度だったが、おっちゃんが私を何かと構って来るようになり、そういうことが嫌いで無い私は、何時の間にかそれに答えるようになり、毎朝顔を見ないとお互いに心配し合う仲になっていた。
心配になって、他の清掃員さん達に聞くと、「私達も探していて、昨日警察に捜索願を出したのよ」と言うことであった。
「仕事が嫌になって、どっか行っちまう訳は無いし。」独り言を呟きながら、玄関ホールへと向かう。
自分でも気付いていなかったが、私の場合、仕事モードに切り替えるスイッチが、何時の間にかおっちゃんとの朝の会話となっていたのだ。
だから、ここ数日は仕事も不発である。まぁ、自分のせいでもあるのだが・・・
私が入社仕立ての頃、あんなに賑やかだったこのビルも、私たちの会社を残すのみとなりすっかり淋しくなった、と言うよりまるで空木である。
最近売り出し中の女性アーティストのポスターが、硝子の向こうの抜け殻となったオフィスのカウンターの後ろの壁にぽつんと残されている。
一階に入っていたレコード会社が何処かへ移って行った途端、ビルは言葉を失ったような静けさとなった。
最近、私はビルにも、否、総てのものに魂があると思っている。
今まであんなに騒がしく、夏ともなれば空調が入っていても入っていないほど暑い位に感じていたのが、現在は圧迫感を伴う程の冷たさである。
そんなことを考えながら、オフィスに向かおうとエレベーターの前に立つ。
エレベーターが、空きフロアーとなった上層部の階から降りて来る。
「1」の文字が光り、「チン」と言う金属音とともに、ガタッと少し音をたてながらゆっくりと扉が開く。
だが、それと同時に、何か異質な冷気が足元に漂うのを感じた。
「上の階に冷房なんか入っている筈は無いんだけどな。」
少し躊躇しながらも、中へ入り「階段で上れば良かったかな。」と考えながら、「3」という染みの付いたボタンを押す。
指先から、古い金属パネルのヒヤッとした感触が瞬時に伝わってくる。
エレベーターの上昇速度が何時もより遅く感じる・・・
「早く・・・。」何か落ち着かず、3Fに到着する前からなるべく扉の間際に立ち、いち早く外に出るべく身構える。
扉が開くと、エレベーターが揺れるのも構わず大きく踏み切って外へ飛び出し、オフィスのドアを開けた。
「おーい、悪いけどそこの原反相手さんに届けてくれないか。」部長の声が間髪を入れず飛んでくる。
「あっ、ハイ。直ぐ行って来ますよ。」
少しくすんだ紅色の原反が一本、入り口を入ってすぐの壁に立て掛けられていた。
私は、それを肩に担ぐとまたエレベーターへと乗り込んだ。
エレベーターの隅に原反を立て掛け「1」のボタンを押ず。
「あっ、しまった・・・。」さっきのことをもう忘れている・・・。
ガタンっ 何時もより大きく揺れて動き始める。
「!」上昇している・・・
1の文字が光っているのに上昇を始めた・・・。
混乱した私は片っ端からボタンを叩く。
だが、文字が一つも光らない。
冷たい汗が全身に滲んでくる。
パニックで何も出来ず、立ちすくんでいるうちに8階でエレベーターが止まった。
・・・扉が開く・・・。
オフィスの扉は全て閉ざされていて、仄暗い廊下が永遠に続いているような錯覚に陥った。
ボタンに眼を遣ると、1の文字はまだ光ったままである。
無我夢中で「閉」のボタンを連打する。
ゆっくりと扉が閉じてゆく。
小さく身震いをしてエレベーターが下降し始めた。
3Fに停止すること無く下降してゆく。
1Fに到着すると扉が開いた。
扉が開いてゆく隙間から外界の光が差し込んでくる。
明るい・・・。
目尻から頬へ温かいものが走る。それだけで無意識に涙が流れていた。
手の平にはぐっしょりと言うほど汗をかいている。
震える手で原反を引き寄せると、外へ倒れこむように出た。
ガクガクしたまま手足に力が入らない。
暫く無様に四つん這いのままだった。
今まで一度もこんなことは無かった。
「機械なんて、所詮人間が作ったもんなんだから、誤作動もある」と、気持ちを落ち着かせるために、理由付けを自分にしながら地下駐車場へ歩いていた。
だが、階段を下りる足取りが重い。
地下駐車場に、いつもよりも重く、黴臭い空気が充満している。
否、ように感じるだけだ・・・。
急いで車に乗り込み、エンジンを掛けるが、急に密閉され空気の密度が濃いような、クーラーから吐き出される空気もどろりとしたような感じがする。
いつもよりアクセルを強く踏んでいたらしく、駐車場から出るまでに数回、キュキュッとタイヤの擦れる音が聞こえた。
落ち着け・・・自分に言い聞かせながら、ゆっくりと車道に出る。
見慣れたはずの車道の両脇に居並ぶビル群が、垂直に立った棺桶のように感じる。
「こんな箱の中で正常に居られる筈も無いか。」ポツリと口をついて独り言が飛び出す。
通いなれた道のはずが、何回も道を間違えて、やっとのことで相手先へ到着した。
先方に届け終わると、丁度昼となっていた。
近所の弁当屋で昼食を購入し、少し車を走らせる。
5分位の距離にある神社の裏手の道が、丁度良い木陰を作り出しているので、他の車と共に仲間に加わり、そそくさと昼食を取ると、シートを倒して暫く惰眠を貪る。
今朝からのこともあり、すぐさま夢か現かわからない境界へと誘われる。その境界をどれ程彷徨ったころであろうか。
バンバンと運転席側の窓を叩く音で、急に現へと引き戻された。
窓を開けて周囲を見るが、誰もいない。
子供の悪戯かとも思い、外へ出て車の周りを見てみたが誰もいない。
運転席に戻ってドアを閉めた時だった。
「!」
窓ガラスに、沢山の手形が残っている・・・
大きさからして子供ではない。明らかに大人の手である。
背筋を、ゾクゾクと一筋の冷たいモノが走り抜ける。
丁度携帯が鳴り、独り座席で飛び上がった。
部長からであった。
「悪いが、用が出来たから急いで戻って来てくれ」
「はぁ、ハイ・・・」
「どうした?何時もの元気は?」
「いえ、何でもありません。急いで帰ります。」
急いで車を出す。
何も、何も考えずに安全に帰ることだけを頭に置いて。
帰ると、珍しい程大量の注文と、自社の引越しの用意でごった返していた。
「おう、早かったなぁ。お前の担当から大量注文だぞ。」
「本当っスか!?」
「だから、お前は向こうの部屋で荷造りたのむな。」
「ハイっ!」
大量に在庫が積まれた中で忙しく荷造りを始める。
「俺は、皆と新しいオフィスに行くから、お前は運送屋さんが荷物運び終わったら、ここ閉めて帰っていいぞ。」と部長の声が追いかけてきた。
「解りました。先に帰らせてもらいます。」と笑顔を送る。心中では、俺を置いて行かないでくれと思っているのに・・・。
それからは、荷造りをがむしゃらに行った。何も頭の中に入り込む余地がないように。
だが、がむしゃらにやった分早く片付いてしまった。
早く終わったにもかかわらず、とても損をした気分だ。
がらんとしたオフィスの窓辺には、隣のビルの窓硝子に反射した夕陽が射し込んでいる。俺は、そこに一人佇んでいた。
何もせずとも体が冷たい気がする。
空調は、もうとっくに切ってある。
「運送屋早く来ないかな・・・。」と、ポツリと一言発しながら椅子に腰掛けると、冷たい風が何処からともなく流れ込んで来て、頬をスッと撫でてゆく。
直ぐに、体が反応して震えが始まる。
「う、運送屋さんスか?・・・」風が何処から入って来るのか確かめようと、落ち着かないまま入り口の方に眼を遣った瞬間、突然「カタン!」と、何かが倒れる音がした。
驚きの余り、慌てて振り返ったので、椅子から滑って床に尻餅をついた。
その時だった、「そんなに驚く奴があるかよ・・・」
「?!」耳元で、確かに聞き覚えのある声がしたのだ。
「おっちゃん!?」直ぐに起き上がって周囲を見渡したが、誰も居ない。
見ると、入り口に立て掛けてあったモップが倒れていた。
そして次の瞬間、開けっ放しの入り口を、スッと青い作業着らしき影が通り過ぎるのが見えた。
俺は、急いで立ち上がると、「おっちゃんなんだろ?」と声を上げながら夢中で後を追う。
ホールに出ると、エレベーターの扉が閉まり上昇を始める。
エレベーターは8Fで止まった。
「8階・・・。」
俺は、階段で8Fを目指した。
8階の階段室に到着してドアを開ける。
オフィスの扉は総て閉ざされ、暗い廊下が続いている。
手探りで廊下の明かりのスイッチを点ける。
「おっちゃん、居るんだろ!」と声を出したとき、鼻腔を異臭が突き抜けた。
それと同時に、「バタン!」と扉の閉る音がトイレの方で聞こえた。
トイレへと足を向ける。
それにつれて臭気もどんどん強くなってくる。
手探りでトイレの照明のスイッチを探し照明を点けた。
「おっちゃん?」呼びかけるが、返事はない。
トイレの中は、嗅いだことの無い強烈な腐敗臭が充満している・・・。
見ると、3つ並んだ真ん中の個室の扉だけが閉じていた。
臭気の元も、そこからであることが判る。
「おっちゃん、おっちゃんなんだろ、おっちゃん!」ゴンゴンと扉を叩きながら声を掛け続ける。
やはり、返事は無い・・・。
その時、はっきりと、一つの答えが頭の中に浮かんだ。
「おっちゃん・・・おっちゃん・・・」いつの間にか、涙が頬を伝っている。
俺は、ゆっくりと震える手で財布からカードを取り出すと、扉の隙間に差込み、鍵を上へと押し上げた。
扉が、ギィィと重い音を立てながら内側へと開いて行く。
暗い個室の便座に腰掛けた黒い影・・・。
俺は、一歩一歩、確かめるように影へと近づいた。
影の全体像が露わとなった。
やや俯いた顔は、眼球が異常に突出し、腹だけでなく、全身が既に膨張している。
青であったろう筈の、染みだらけで、変色した作業着のボタンは、パンパンに張って飛ぶ寸前になっている。
あるべきおっちゃんの姿とはかけ離れていたが、おっちゃんであることは間違いなかった。
否、違う筈が、間違える筈が無い。
手には、しっかりと雑巾が握られたままだった。
俺は、ガクリとおっちゃんの前に跪いていた。
「おっちゃん・・・こんな所に一人で・・・」止まること無く涙が溢れ、子供の頃以来の嗚咽をしていた。
「ごめんよ、・・・おっちゃん、・・・気付くのが遅くて・・・一緒に帰ろうな・・・」声になっていなかったと思う。
俺は、ポケットから携帯を取り出し、110を押した。
「東京になんか行ったら、本当に困った時に助けてくれる人は、なかなか居ないのよ」
第2話【匣】了