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仮題 「夏草紙」  作者: 東雲之東風
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第一話 「空」

              第1話【空】


 今朝もまた背中だった。

その女性は、私が出社のため玄関のドアを開けると、何時も玄関の真ん前の階段を下りて行くところなのだ。

三ヶ月前、この十四階建てのマンションに越して来てから、一度も顔を見たことが無い。

かと言って、彼女の顔を拝むために時間を費やす気もさらさら無いが。

何時ものように「おはようございます」と声を掛けるが、私がまるで存在しないかのように声までも素通りされる。

別段、返事を期待している訳でも無いから良いのだが、隣人である以上ある程度は気を使っている心算でいる。

男としての興味を抱いているわけではないが、身長は160センチ位で括れもあり、脚もスラリとしていてスタイルは良い。

髪は背中の中程で揃えられていて黒い。

黒と言うより漆黒と言うか、常に霧を纏って湿潤しているとでも言う方が正しい。

人の趣向の問題であるから、私がどうこう言えた義理では無いのだが、何時も決まって上から下まで全身が黒で統一され、「喪」の一字を強烈に私の脳内に氾濫させる。

彼女の周囲だけは、朝にも拘わらず鴉射玉の夜をそのまま引き摺っていると言った風だ。

そのため、耳とパールのイヤリングが放つ異様なまでの白さに引き込まれる。


 ご主人とはしばしば顔を合わせる事があった。

ご主人としたが、定かでは無い。

集合ポストに氏名は無く、玄関の表札も出ていない。

だから、氏名も知らない。

ただ二人が同棲している事が唯一の確定した事実である。

彼女と同じで、こちらが挨拶をしてもやはり返事は無く、コクッと首を折る程度だった。

身長は170センチ前後。

前後としたのは、猫背気味なのでそれ位と思われるためで、中肉、黒縁の眼鏡を掛けていた。

大体グレー系の目立たない感じのスーツを着ているような気がする。

ような、としたのは、彼がそこに存在しているのかどうなのかもあやふやな程生気が無く、希薄だったからだ。

だから、私のこの記憶も曖昧であるに違いない。

ただ、切れ長の鋭く輝く手術刀メスを連想させる眼と、眼鏡の黒に対比したレンズの向こうに覗く白い、否、碧白い瞼ははっきりと記憶に残っている。

今こうして考えてみると、彼のその冷気漂う眼にばかり自分の意識が集中して、彼の全体の容が有耶無耶なのかも知れない。

そう考えてみると、隣室の住人は幻だとしてもおかしなことはまるで無いとさえ思える。


 彼女のコツコツと階段を下って行く音が、私を現実へと引き戻す。

私はエレベーターホールの方向へと向かう。

廊下を歩きながら外を眺めると、風は蝉の声に早くも焼け始め、昨日とは打って変わって雲一つ無い空が延々と広がっているのだが、何とも言えぬ悲しみを秘めた蒼色を湛えている。

そう、この色だ。

盆が近い・・・。


 エレベーターホールに着くと、すぐさま【↓】ボタンを押す。

朝であってもホールは仄暗く、その年代を物語る様に刻み込まれた天井、壁の汚れや滲み、落書きの数々が陰鬱とした雰囲気を醸し出し、そこに充満する空気さえも重々しい。

やがて、三基在る内の一基がワイヤーの少し軋んだ音を立てながら引き上げられ、7階へ到着した。

エレベーターが少し揺れながら停止しゆっくりとドアが開く。

中に乗り込むと、【1】と【閉】のボタンを素早く押す。

今時もう珍しくなった金属製のボタンは、傷だらけでザラザラとした感触で、壁のシートは無数の落書きや傷、明らかに剥された部分等もありボロボロである。

降下と共に流れ始めるこの生暖かく、黴臭い身体に纏わり付く気流にも慣れるのは難しい。

【?】何時もの黴臭さとは違う臭気が、直接脳を刺激する。

誰か生ゴミでも運んだ後であろうか。

我慢出来ない程では無いのだが、何か動物質が腐敗したような臭気が気流に含まれ漂っている。

前を見ると、各階の間を通る時、エレベーターの扉の硝子部分に自分の胸の下辺りまでの姿が、暗く、まるで遺影のように映し出される。

その遺影を眼で追いながら四階を通過した時、背後の壁に在る、棺を運ぶ際に外す蓋の四隅にある右上の螺子が外れかけ、蓋が少し開いた状態であるのが眼に入る。

その僅かに覗いた闇から、背を這い回る視線を感じるようで何度も振り返ったが、直視することが出来ない。

臭いも、気流もそこから生み出されているのではないのか・・・。

そんな筈は無いと何度も否定するが、息苦しさが増すばかりである。

エレベーターの下降も更にゆっくりと感じられる。

1階に到着した私は、扉が開くと同時に飛び出し、駐輪場へ向けて走った。

自転車の前で止まり大きく息を吸い込むと、夏の匂いが鼻から胸いっぱいに拡がる。

しかし、気分は晴れることなく暗澹とした出社となった。


 今日は何時もより更に仕事が捗らなかった。

「お疲れ様です、お先に。」隣の机にへばり付いている同僚に声をかけ席を立つ。

このところ残業で帰宅が遅くなっている。

家で待つ誰かが居る訳でもないので、それは余り問題ではない。

一年中快適な温度に保たれたオフィスを後にして一歩街へと踏み出す。

もう、とっくに夜であるが、それを感じさせないほど街は明るい。

それに、幾分陽がある時間帯より暑さはましである。

しかし、東京と言う街は、夜になってもアスファルトやコンクリートが、昼間蓄えた熱を、それらの下に覆い隠しているモノを代弁するかの如く放出し続ける。

ここ六本木も酷いものだ。が、私が六本木の夏を経験するのも今年で最後となる。

何故なら、このビルのオーナー会社が倒産し、ビルの解体が決定されたからだ。

そのため、10月でここから別の場所へオフィスが移ることになっている。

そう考えると、外に出る度に感じるこのビルやアスファルトから発せられる命無きこの熱にも薄らと愛着すら覚える自分が居た。

そう、7年だ、入社してもう7年も経っていたのだ。

疲れのせいか、この放出される熱のためでもあろうか、この7年間の良くない思い出ばかりが引き摺り出され、その一つ一つを頭で揉み消しながら駅へと歩を進め、六本木一丁目駅から電車を乗り継ぎ最寄り駅まで約四十分。

結局その時間はそれへと費やされた。


 駅から自転車で約十分の川沿いに自宅のマンションがある。

ペダルに込める力が何時もより弱々しく、何故か自分の意識に反して身体が拒絶反応を示しているように感じられる。

今日も河沿いには心地よい風が吹いている。

だが、その河の放つ臭気は、源流である私の田舎を流れている時とはまるで違う。

流れてくる間に人の穢れに染まり、何時の間にか特有臭気を含んでいるのだ。

「水も死んでいる。」

やがて、コンクリートの堤防から顔を覗かせるように徐々にマンションが姿を現す。

堤防は遥か向こうまで柳並木が続き、その向こうにマンション全体が薄らと蒼く浮かび上がる。夜空にそこだけ異空間が貼り付けられているように。

駐輪場に自転車を停めると、明るい場所を選びながら玄関ホールへと向かう。

ホールに着くと、集合ポストを開け中身を確認するが、今日も広告ばかりで重要なものは何一つ無い。総て脇のゴミ箱へ廃棄する。

今朝のエレベーターとは違うエレベーターが停止していたので、素早く【↑】ボタンを押し乗り込む。

エレベーターは、遺影を認識させるようにゆっくりと上昇してゆく。

7階に到着すると、エレベーターホールを照らす蛍光灯の一本が明滅していた。

エレベーターを降りると小走りでホールを駆け抜け、わき目も振らず廊下を早足で歩いて玄関へと急ぐ。

手に嫌な汗を感じながら鍵を開ける。

玄関ドアを開けると、勢い良く風が吹き抜けて来た。

この風があるので、私の家にはクーラーが無い。要らないのである。

玄関の明かりを点け、廊下、リビングと順々に明かりを点けてゆき、そこで服を脱ぎ散らかし浴室へ入る。

シャワーを浴び、腰にバスタオルを巻くと、本能的に冷蔵庫へと足が向かう。

冷蔵庫からビールを取り出しグビっとやる。この一口のために生きていると言っても過言では無い。

そのままテレビを点ける。

壁に眼を遣ると電波時計は既に午後十一時を回っていた。

隣室との壁に背を凭れて坐るとコンクリートが実にひんやりとしていて心地良い。

何時の間にか私はうとうととして夢か現か判らない時を過す・・・


どれ位経った頃であろうか。

バコン! 

グシャッ、ドタン!・・・

未だかつて聞いた事の無い不快な音と壁に伝わる振動で現に引き戻された。

何分に古いマンションであるから、上の階の住人が歩く音は茶飯事ではあるが、隣室からは何の音も聞こえた試が無かった。

隣は存在していないと言った方が正しい程。

直ぐにまた風とともに何時もの静寂が訪れる。

電波時計は、午前二時を示しながら私にチカチカ赤と緑の信号を送り付けてくる。

私は、その信号の催眠に誘われ、再び夢へと引き戻された。


翌日、私は昼頃に目覚めた。

久しぶりにゆっくりとした土曜日を迎える。

男の一人暮らしであるから、冷蔵庫の中身はビールのみであるため、昼食を買いに行くだけの心算が、いつの間にやら色々ぶらぶらとしだして日が暮れかけ、蜩の声を聞きつつ帰る。

マンションの玄関ホールに入るとひんやりとした川風が吹き込んで来る。

1階には1基もエレベーターが止まっておらず、【↑】ボタンを押して待っていると例のやつが真っ先に下降してきた。

蓋を見ると螺子はきっちりと締められ隙間は消滅している。

少しホッとしてエレベーターに乗り込み【7】の釦を押す。

何時ものようにゆるゆると遺影を確認させながらエレベーターは上昇してゆく。

7階へ到着しゆっくりと扉が開く。と、スルスルと足元に冷たい何かが絡みつくのを感じ視線を遣るが何も無い。

ホールに一歩出てみると、おかしなことに、7階のエレベーターホールの方が1階よりも冷たく感じられる。

バタバタという音に誘われてその方向へ視線を遣ると、床には命を終えようとしている油蝉が1匹仰向けにもがいているのが目に入る。

エレベーターホールに1箇所だけある曇り硝子の窓は、夕暮れの紫に染まっていた。

次の瞬間、スーッと足元を掬うように冷気が流れ込んで来たかと思うと、窓の外に人影が過った。

・・・人影・・・?

否、人影の筈が無い。ここは7階である・・・きっと鴉か何かが通っただけだ・・・。

急ぎ足でホールを出ると、部屋へと足を速めた。

ふと気付くと、廊下には薄らと白い霧のようなものが立ち込めていた。

一番奥の私の部屋の前辺りが吹き溜まりにでもなっているのか、白いものが濃いように見える。

その不気味さに躊躇しながら廊下を歩く。長い・・・何時もこんなに歩いていただろうか・・・。

玄関ドアの前に着き、ポケットから鍵を取り出そうとするのだが、手が小刻みに震え、なかなか引っ張り出せない。

掌にも嫌な汗が多量に滲んでいる。

やっとの思いでドアを開けると、急ぎ中へ入りドアに鍵を掛けた。

口からはふーっと自然に深い息が漏れ出る。

部屋中の電気を点け、リビングに鞄と服を脱ぎ散らかし浴室へと駆け込む。

シャワーを浴びると手足が異様に冷えているのが判る。

頭を洗ってい始めると、先程の陰を思い出し頭の中で恐ろしい想像ばかりが浮かぶ。

眼を瞑る度に訪れる一瞬一瞬の闇の中、刹那に足元から恐怖が這い上がって来る。

いくら熱いシャワーを浴びても体が温まってこない。

ずっと浴室中をきょろきょろと見回しながら何時もより早めに切り上げて出る。

もう、こうなったら飲んで忘れるしかないと体を拭くのもいい加減に、冷蔵庫からビールを取り出し、テレビを点け、坐りながら壁に凭れ掛った。

【!?】べチャットした気持ち悪い感覚が背中から全身に駆け抜ける。

壁が何時もより明らかに冷たい・・・。

壁に触れながら下方をよく見ると、結露したのか壁際の床の上に水が溜まっている。

・・・何故・・・?

開け放った窓からは煩いまでの終わり無き蝉時雨と夜風が流れ込んで来る。

タオルで壁を拭いてみるが、当然再び結露してしまう。

・・・隣室が冷却されているとしか考えられない・・・しかも、ここまで冷えているのだから尋常で無いことも確かだ・・・部屋をこんなになるまで冷して、一体何をしているのだろう・・・。

脳が掻き乱され、虚ろのままテレビ画面の映像だけが眼球から入り込んで来る。

四缶ほど空けたところでやっと眠くなり、何時の間にか寝てしまった。


次の日、私は昼頃に目覚めた。

昨晩より風が弱く、響き渡る蝉時雨に暑さが余計に強調されている。

何時ものように新聞を取りに玄関へ向かう。

すると、新聞の他に広告の裏に書かれた走り書きが入れられていた。

【風が強い日はベランダの物干し竿を縛るか外しておいて下さい。煩くて眠れません】

これで何回目だろうか。

最初に入れられていたのは、私がここへ越して来て1週間位であったと思う。

無論名前等は一切記されていない。

その時は私も「ああそうか」と思い、縛ると何かと不便なので外しておくことにした。

それ以来洗濯物を干す時以外は常に外してある。

2回目以降は外してあるにも関わらず投函されていた。

今日もそうである。

しかも、昨晩はそんなに酷い風は吹いていなかった。

以来、投函が有る度マンションの管理センターへ電話を入れ、現物をセンターへ持参することが慣わしとなっている。

今日も早速電話を入れる。

「そうですか。いや、今朝も電話が有りましてね。誰とは言えませんが、極近い部屋の住人の方からです。何時も言っているのですが、駄目なんですねぇ。すみません。」

とのことであった。

Tシャツに短パン、サンダルというダラダラとした格好で、ぷらぷらと管理センターへ向かう。

管理センターは、マンションの4号棟の並びに在り、私の部屋のある1号棟からは徒歩で約3分程かかる。

モノグサな私にとっては非常に面倒な作業なのだが、管理センターのお爺さん連中が気さくな方々なので、特に苦では無い。

「何時もすみませんねぇ」早速私を発見して管理室の外まで出てきてくれた。

最近は、少し立ち話をして帰ることになっている。

「そう言えば、お隣は何かお部屋でお仕事とかされているんですか?」

「いいえ、されてないと思いますね。断言は出来ませんが。何か嫌がらせとかされていらっしゃるんですか?」嫌がらせという言葉から、電話も、この投函物も、その送り主が隣であることはほぼ間違い無い。

「いえ、そういう訳ではないのですが。お隣との境の壁が、異様に冷たくて結露しているんです。だから壁紙に余り好くないのではと思いまして。」

「そうですか。それは確かに好くないでしょうねぇ。こちらからも一報入れておきますよ。でもねぇ、お隣さん少し変わっているでしょう?以前はよく口論をしていて、前の住人の方からも煩いから少し言ってもらえませんか?ってよく言われましてねぇ。最近は少ないみたいですけど、言ってもなかなか聞いて貰えないんですよ・・・」

「まぁ、余り気にしないで下さい。私もそんなに迷惑している訳では無いですから。」

そこに別の訪問者が現れたのが眼に入る。

私は、「それじゃあまた」と一礼をしてセンターを後にした。

1号棟の玄関ホールに着くと、集合ポストへと足を向けた。

私の氏が記されているポストに手を伸ばそうとした時、後ろから近づいた足音が横まで来て止まった。

隣のポストへ伸びる手が見える。

例のご主人であった。

「こんにちは」と声を掛けるが、やはりコクッと首を少し折っただけで無言である・・・。

そのまま私がポストから中身を取り出した時だった。

私のポストから何かが落ち、ピンっ!と小さな金属音を発して床を跳ねた。

音の跳ねた方向を見ると、金の短いチェーンの先にパールが付いたピアスが落ちていた。

よく見ると、パールの部分に何か赤黒い汚れが付着している。

私が、それを拾おうと腰を下ろして手を伸ばした瞬間、私の手より先に物凄い速さで手が伸びピアスを掴んだ。

ご主人だった・・・。

お互いの目と目が、吸い寄せられるように重なる。

私はそれと同時に動きを封じられた。

彼は私を凝視している。

その眼は何時もの落ち着き払った切れ長の眼ではなく、カッと大きく見開かれ、何かに驚嘆しているとでも言おうか、狼狽しているとでも言おうか、身体も小刻みに震えているように見える。

そして、徐に立ち上がると、エレベーターの方へと走って行ってしまった。

数秒であった筈なのだか、不気味な長さに感じる。

私は急なことに言葉も出ず、立ち上がったまま暫く茫然としていた。

部屋に戻ると、又横になったのだが、あの眼が脳裏に焼きついたまま、眼を閉じると脳裏に迫り来るように広がり、寝ることが出来ない。

結局この炎天下、近くの公園まで自転車で出掛けることとした。


マンションの脇を流れる河の少し上流にあるその大きな公園には、河へ通じた大きな池が満々と水を常に湛えている。

「洪水になりそうな時は、この公園に大量の水が流れ込み氾濫を抑えるそうですよ。」と例のお爺さん達から聞いたのを思い出しながらペダルを漕ぐ。

周囲は鬱蒼と木々に囲まれ、多くの水鳥達が生息している。

コンクリートの反響が無いためであろうか。

蝉時雨が涼しく流れてゆく。

私は自転車を停めると、池のほとりのベンチに腰掛け、何を見る訳でも無く、ただぼうっと水面を眺めていた。

池の緑の水面にさっきの眼が現れる。

水鳥と、それに続く漣に、それが掻き消されてゆく。

暫くして静まった緑の水面に再び眼が現れる。

水鳥と、それに続く漣が、再び掻き消してゆく。

どれ位それが繰り返された頃であろうか。

その漣の中からゆらゆらと、一つの疑念が広がり始めた。

深夜の音。

・・・冷却している部屋。

ピアス・・・。

それらの点の散在が、あの眼一点へと自然に集約されてゆく。

ゆらゆらと濁った水を見つめていると、次第に疑念が緑の水となり、頭の中に流れ込んではち切れんばかりとなる。

ふと気付くと、既に辺りは薄暗くなっていた。

水面を渡る風は心地良く、蜩が鳴いている。

頭痛が始まっていた。

拍動と共に疼痛が惹起される度、あの眼が脳裏へサブリミナルのように繰り返される。

ここまで来て異様な喉の渇きに気付く・・・。

喉の渇きと、眼より逃れるため、赤提灯が誘う夜の街を彷徨こととした。


今日がもう月曜日だというのに、午前3時頃にマンションに到着した。

結局、気分が悪くなっただけで、それから逃れることは出来なかった・・・。

ふらふらとした足取りで、玄関ホールへと入る。

・・・人影?・・・。

眼を凝らしてみると、前方に一人の男が両腕に大きな袋をぶら下げているのが解った。

少し距離があったので、男はこちらに気付いていない。

あのシルエット・・・。

隣の男に違いなかった。「こんな時間に買い物・・・?」

袋には何か角張った長方形のモノが入っているらしい。更に煙が袋を伝ってホールの床を這っていた。

・・・ドライアイス!?

直感的に、気付かれると命に関わる危険が迫るのを感じた。

反射的に、足が外へ向かう。

暫くして、ゆっくり足音を立てずに玄関ホールへと再び入った。

男の姿は無い。

既に酔いは醒め切ってしまっている。

エレベーターは使わず、玄関の前まで直接行ける階段を使ってゆっくりと7階まで上がる。

音を立てないように細心の注意を払って部屋へと入る。

入った途端、疲れがどうっと一気に押し寄せてきたが、私は結局一睡もできないまま朝を迎えた。


 玄関を開けると、彼女の姿はやはり無い。

誰からも見られている訳ではないが、何かに気付いていると思われるのを避けるため、平静を装ってマンションを出る。

駐輪場へと向かう途中何かに足を捕われ、転倒は回避したものの、ガクリと膝をついた。

周囲を見回すが、躓くようなものは無い。

・・・朝だぞ・・・明るいんだぞ・・・疲れているだけだ。

そう言い聞かせながら、体内に込み上げてくる諸々を必死に理性で押さえ込む。

あくまでも平静を装う。

何に?・・・何で平静を装わなければならないのか・・・。

自問自答が繰り返される。

出社したものの、仕事が全く手につかず、いつもより早く切り上げたのだが、体が発している拒絶反応とでも言おうか、色々と迷ってマンションへは十一時頃着いた。

仕事中から、「通報」の二文字だけがずっと頭の中を漂っている。

虚ろなまま意識とは逆に、体が動くに任せて玄関ホールへと向かう。

そのままポスト室へと入ると、空気が重くべったりと足元に纏わりつく感じがする。

足元には何も無い・・・あるはずが無い・・・そう思いたい・・・。

最早、足元を確認する気力さえ無い。

視覚からは別の情報が齎されている。

私のポストがある辺りが黒く霞んでいるように見える・・・。

気のせいだ・・・そうだ、もう夜中近いのだから。

足を逆戻りさせようとする意識を必死に打ち消しながら、近づいてポストを開ける。

開けた瞬間、何かが落下し、ピンっ、と音がした。

・・・あの音だ・・・。

足元にはピアスが転がっている・・・。

パールの部分が放つ青白さに視線は釘付けとなったままだ。

これに触れてはいけない・・・心がそう叫んでいる。

無視して立ち去ろうとするのだが、何故かやはり意識に反して私の手がそれへと近づいてしまう。

私は、ハンカチでそれを摘まみ上げる。

パール部分に黒く何かが付着している。

何か・・・判っているだろう・・・血の塊だ・・・。

手首に何かが絡まっているように重く感じる。

手は、小刻みに震えだしている。

震える手が、隣のポストへと伸びそれを中へ入れた・・・。

無音のまま吸い込まれるようにそれは落下した。

それから、私はどうしたのか記憶も無く、ベッドの上で明け方に目覚めた。

私は、極力思考を停止させたまま、用意をし、出社する。

帰宅するとポストへと向かう・・・。

開ける。

ピアスが落下する・・・。

ハンカチで拾い上げ、隣のポストへと投函する。

一連の作業を、思考を停止させたまま行う。

 だが、ピアスは次の日も、その次の日も、私のポストから落下し続けた・・・。

もう、限界だ・・・。正気を保っているのが精一杯となっていた。

私は、ピアスをハンカチに包み、7階へ持って上がると、隣のドアのポストへ投函していた・・・何故そうしたのかも解らない・・・。

部屋に入ると、スーツを脱ぎ浴室へと向かう。

今日も23時を過ぎている。

湯を熱めにしてシャワーを浴びる。

湯が体にベトベトと張り付くような感覚に支配される。

背に粘りつくような視線を強く感じ、何度も何度も振り返る。

洗髪のため眼を瞑ると、背を何かがぞわぞわと這う感じに襲われる。

直ぐに風呂場を飛び出す・・・。

 もう、今夜は酒どころでは済まないのが解かった。

キッチンには酒の空き缶がごろごろと山積みのままである。

全ての部屋に明かりを点け、見るわけでもなくテレビを点ける。

手で壁に触れると、やはり結露している。

その時、開いたままのベランダの窓からスーッと風が床を這って来た。

冷たい・・・。

窓のレースが風に揺れている。

戦慄が背を走り抜けてゆく。

今まで経験したことの無い感覚に頭が既にパニックになっているだけだ。

そう自分に言い聞かせながら、残っている理性で体の震えを抑えるのに必死だ。

昨夜から一睡もしていないのにまったく眠気を感じない。

壁には凭れず、テレビの前に膝を抱えて蹲る。

ただボーっとして、他人が見たら廃人も同然の様相だろう。

こんな日がいつまで続くのだろうか・・・。

もう、総てどうでもいい・・・。

 暫くすると、突然ギン!と強い耳鳴りが始まった。

そして、バシッ!という何かが弾けたような大きな音が、ベランダ側の窓の辺りでした瞬間、テレビ画面が突然砂嵐となり消えた・・・。

次の瞬間、画面いっぱいに眼が映し出された・・・。

「!!」・・・身動き一つ出来ない。

ただ、自身の眼球だけはキョロキョロと動き回り、室内の状況を脳内へ視覚情報として齎し続けている。

レースのカーテンが突然の強風に煽られて捲れてゆく。

眼球が動き、視線がそちらへと導かれる。

貌があった・・・。

視線の先に貌がある。

生命の危険を直感する視線を持った貌が、隣室とを隔てているベランダの壁から真横に突き出ていた。

カッと見開かれた狂気の眼。

隣の男だ・・・。

ただ無表情にじっと私を見つめていた。

月明かりの中異様な青白さである。

視線が重なり合った瞬間、ニタリと表情を変化させ、そのままこちらへ手摺を乗り越えて来ようと、蛇のように体を動かし始めた。

月明かりを、男が手にしている何かが反射させている。

・・・刃物。

手には刃物が握られていた。

私は、逃げようとするが、恐怖に支配されて後ろに仰け反ったまま体は動かず、声さえも出ない・・・。

男の眼は、私を捕えたまま瞬き一つしない。

私は、ただ男を見ているだけしか出来ない・・・。

「・・・もう、駄目だ。」頭の中を言葉だけが過ぎってゆく・・・。


それは、男の全身が丁度手摺に乗った瞬間のことだった。

何かが、男の身体を突き飛ばした。

・・・白い・・・手・・・。

白い手が、突然スルスルと男の背後から突き出て、男の身体を突き飛ばした。

男は、眼を剥き出さんばかりに見開き、声も無いままに落下していった。

一部始終が、スローモーション再生のようにはっきりと私の脳裏に記憶された。

男を突き飛ばした手だけが伸ばされたまま、月明かりに青白く浮かんでいる。

壁から少しだけ真っ白な横貌が見える。

長い黒髪のところに、白く・光る・・あれ、・・は・・・。

・・・次の瞬間、私は意識を失った・・・。


どれ程たった頃であろうか。

インターホンの呼び出し音と玄関の扉を叩く音で目覚めた。

ドアを開けると、面識の無い二人の男が立っていた。

「すみません。明かりが点いていたので。夜分ですが、少しお話をお聞きしたいのですが・・・。」

男は手帳を提示した。

「は、はい・・・。」応対に出た私の憔悴しきった顔を見て彼等はどう思ったのであろうか。

幽霊のようにでも見えたのであろうか。

気持ち男達が一歩引いた気がした。

 その時に何を聞かれ、何を喋ったのかだけが全く記憶に残っていない。

警察官の話では、隣の部屋の男性が刃物を握ったままマンションの庭に転落死していたこと。それに、私が寄りかかっていた壁の向こう側の部屋で、ドライアイスで冷却され、死後数日経った女性の遺体が発見されたということだった。


 その後、事件は大きく報道され、検死の結果、死因は頭部を鈍器のようなもので殴打されたことによる頭骸骨骨折と脳挫傷。また、女性は日常的に虐待を受けていたらしく、全身に及ぶ複数の痣、傷、そして、両耳とも鼓膜が破れて血栓で塞がっていたという事を知った。

これは私の推測だが、彼女は私の挨拶が聞こえていなかったのではないだろうか。

もしくは、聞こえていても顔面が腫れ上がり、こちらを向くのが嫌で、聞こえないふりをしていたのではなかろうか・・・。


 「・・・あの女性ひとは・・・。」

「おい、何ぼんやり空なんか見てるんだ。次に行くぞ。」部長の声が現実へと私を引き戻す。

「あっ、すいません・・・空が・・・空が、綺麗だったので、・・・つい。」

「何言ってるんだ。お前、そんな柄じゃないだろう。早くしろ。」部長は笑っている。


そう、この時期の空の色を見ると、いつもこの記憶が必ず呼び出されるのだ。

あの、母の言葉とともに・・・


「マンションなんか、どんな人が住んでいるかわからないのだから、気を付けなさい・・・。」

      

 第一話【空】 了

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