秘密の見世物
※少し残酷な描写がありますので苦手な方はご遠慮ください。
「よく飽きもせずに見ていられるね」
初老の男が私の頭に手を乗せて言う。
テントの中は薄暗くて顔はよく見えない。
最初の興奮はしだいに鎮静化し今ではただただ、魅入られていた。
「両腕のない氷漬けの人魚がそんなに気に入ったのかい?」
少し生臭い液体が床を湿らせている。
氷漬けの人魚から冷気が発せられているので外よりは幾分かマシだ。
「これは偽物? 」
「いや本物だよ。外国から運ぶだけでお金が沢山かかった。勿論、そのものの値段はもっとだ」
男は続けた。
「捕まえた漁師はもう一生漁に出る必要がないくらいの大金を手にしたろう」
氷漬けの人魚の両腕は切断されており、骨が剥き出しになっている。
鱗がテカテカと光っているのが嘘っぽさに磨きをかけている。
「他にも珍しい品が沢山ある。だが私はこの人魚が一番好きだ」
私は肌寒さを覚えた。
「もしかして生きてるのかな」
「さぁな、生きてやしないさ」
男は興を削がれたようで、テントから出ていった。
私はもっと近付こうと前に乗り出した。
そしてぬかるみに足をとられ、いっきに落下していった。
おかしな事に、つま先にも満たなかった水溜まりは成人用のプールのように深さを持っていた。
潮の香りが鼻につき、塩辛い水が咥内に流れこむ。
息ができず、目も開けられなかった。
浮力を失った私の身体が急速に沈んでいく。
体温は奪われ、意識が朦朧としてくる。
肺は海水に満たされていた。
ただ、一瞬閉じた目の向こうに光のようなものが見えた。
私は恐る恐る抗う瞼をこじ開ける。
そこには美しい女の顔があった。
今わの際の蒼白さがいっそう肌を白く見せていた。
髪の毛の一本一本が透けそうなぐらい細い。
視線はその青に完全にからめ捕られる。
今にも触れそうに近い唇が形を作る。
「助けて」
私が口を動かすと彼女の口も同じように動いた。
私は必死に彼女に触れようと両腕を伸ばした。
それと同時に、彼女の身体は網の牢獄に捕られ、私を残して浮上していく。
十本の指はもはや何もない水を掻いたに過ぎない。
私はまだ両腕を突き出した格好で目だけを見開いて、その光景を見ていた。
「どうした、気分でも悪いのか」
気が付くと私は、見世物小屋の入口の柱に寄りかかっていた。
通りがかった男が私に尋ねる。
「ちょっと体を冷やし過ぎただけです」
「そう? ならいいけど。顔色がすごく悪いよ」
「大丈夫です。ありがとう」
私は息をゆっくりと吐いて気分を落ち着かせた。
それを見て、男は安心したのか立ち去った。
冷汗で、脇の下がびしょ濡れになっていた。それに髪も少し濡れている。
初老の男が迷惑そうにこちらを見ていた。
「あの? 人魚はどうしました? 」
「人魚だと? なぜそれを知っている」
「氷漬けの人魚が展示されていませんでしたか? 」
「あるにはあるが、あれは見世物じゃない」
「でもさっきまで確かに」
「君はずっとその柱の所でブツブツ言っていただけだ、金を払って見る気が無いなら帰ってくれ」
「はぁ」
狐につままれたような気分で、私は見世物小屋を離れた。
しかし、気になったので裏側から回り込んでみた。
大抵はのぞき穴があって中の様子が見れるものだが、同じことを考えた輩がいたのか布でふさいであった。
私はその布を躊躇なく引っぺがし、覗き込んでみた。
そこにはよくできた、けれども偽物だといっぺんに分かる人魚の蝋人形が置いてあった。
先ほど見た人魚とは似ても似つかない粗末なものだ。
「おい悪がき、しょうのない娘だな」
すぐに見つかってしまい、私は逃げた。
男は足が悪いようで、追ってくるわけではないようだ。
不思議に思いつつも私は人であふれている屋台のある通りに戻った。
その中には、同級生の見知った顔もあった。
「ねぇ、後で見世物小屋に行かない? 」
「もう行ったよ」
「なんだ、つまらない」
美しい人魚の顔を思い出そうとするが、その輪郭さえ曖昧になる。
ただその、吸い込まれそうな瞳の青だけが、どうしても頭から離れない。
あの時はまだ、二本の両腕が確かに私に触れようとしていた。
そして私も手を伸ばした。
祭りは佳境に入ったところで、遠くで花火が打ちあがる。
視界の隅で御面屋が天を仰ぐ。
金魚売はすでに店じまいを始めていた。
「どけ、どけ」
こちらに向かって若い男が荷車を引いていくる。
先ほど体調を慮ってきた男の様だった。
人ごみの中を、かなり煩雑に進んでいくので自然に人が道を開ける。
荷車にはビニールシートと重石が載せてある。
モーゼの海割れのごとく人々の間を進んできた荷車は私の目の前にきて止まる。
「どいてくれんかぁ嬢ちゃん」
私はすっっと、横に退き、一瞬のすきにその物体を抱きかかえる。
男はとにかく急いでいるらしく、気がついてはいない。
見た目よりもそれはかなり重い。
男が荷車を使ったのもその重さのせいだろう。
中身は確認するまでもなく、二本の人の腕であった。
「さっきの男はあれだな。アガリをくすねて逃げたにちがいねぇ」
射的屋の呟きが自然と耳に入った。
規則的な提灯の火が境内を蛇のようにうねる。
平らであるはずの地面が水面のように揺れている。
私はどちらに進むべきか決めあぐねていた。
見世物小屋とは正反対の、奥まった雑木林の方がよさそうに思えた。
歩き始めるとその重みはしだいに手に馴染んできて、重い事には変わりがないが不思議と安定した。
履物で団栗を潰しながら、私は人ごみから離れていく。
雑木林といっても、たいした広さではなくすぐに人気のない通りに出てしまう。
祭りの喧騒から遠く離れたこの通りは閑散としていて、不気味なくらいに静かだった。
しばらく歩いていくとフェンスに囲まれた小さな貯水池があった。
子供が遊び場にしないよう警告の看板が立っていた。
私はフェンスを越える事ができず、ぐるりと見渡した。
ちょうど、補修されていない破れ目を見つけた。
「待て!!」
荷車の若い男が雑木林から追ってきていた。
「逃がしてくれっていったから連れ出したのに、なんでだよ」
その穴は大人が通るには少し小さすぎた。
男は半狂乱で叫び、焦点の合わないうつろな目でこちらを見ていた。
私は腕を包んでいた包帯を解く。
男は魅せられすぎたのだ。
そして結局は自分の物にしようとしていた。
何故か私はそう思った。
人魚の腕は想像以上に美しい女の細い腕だった。
初雪のような白。
水掻きの曲線美。
「返せ、それは俺のものだ」
自分の物にしたいという欲望は確かにあった。
ただ、あの悲しみに潤んだ青い瞳の事を思い出す。
私は思い切って飛び込んだ。
決して綺麗な水では無かった。
私は一匹の大きな金魚になってその薄汚れた水路を泳いだ。
フェンスを越えた男が何かを叫びながら手を伸ばしてくるが、身をかわす。
私たちは自由だった。
かつて人間だったころ、息苦しい人間の時代。
そこから解き放たれた私は自由だ。
ぐわん。
急に視界が反転し、体が宙に浮かぶ。
逃れようとする体を細い網が捉える。
「さぁ、自由な時間は終わりだよお嬢ちゃん」
初老の男が、唇をゆがませてこちらを覗き込む。
「これで後、百年は楽しめるな、まったく面倒な手順をふませるぜ」
私は小さな腕で必死に逃れようとする。
「おっと、勿体ないが腕だけは切り落とさねぇとなぁ」
私はその言葉に恐怖した。
「途中までは間違っちゃいなかった。選んだ方向が違ってたのさ。間違うようにまじないをしておいたからな」
男はそういって、私の入った容器のふ蓋を閉じた。
深海よりも深い闇が私の目の前に広がっていく。