ろばのお姫様
男子しか産まれない呪いにかかっている公爵家の2人の息子は、女の子ばかりが産まれることで有名な侯爵家の姉妹とそれぞれ結婚する。賢い姉と、そんな姉を妬んでばかりの妹。しかし、ある日妹に奇跡が起きた。娘を産んだのだ。喜びに湧く公爵家。しかし、生まれたその娘の自認は「あたしは、ろば」だった。
一度ざまあを書いてみたくて設定を考えたんですが、スッキリざまあは難易度高すぎでした。難しい〜!
「カクヨム」「なろう」同時投稿作品です。
こんにちは。ろばです。
普通のろばとして生まれたつもりだったんだけど、あたしが生まれたのはいい匂いのする干し草の上ではなく、変な香水とくぐもった蝋燭の香りに包まれたベッドの上だった。生まれたらすぐ立ち上がろうとしたよ。だってろばだもの。
だけど、まわり中がお姫様だお姫様だと大騒ぎをして、抱き上げられてあったかいお湯の中に入れられて。その間もお姫様だお姫様だって大騒ぎ。
そして、ろばの一生で味わうはずがないようなフリルとレースいっぱいの豪華な布に包まれて、温かいミルクをもらったんだ。もちろんその間も、お姫様が生まれたぞって大騒ぎしてた。
その意味がわかるまでに、そんなに長い時間は要らなかった。
何故なのかはわからないけど、まわりの人の目にはあたしは公爵家次男の奥方様が生んだ人間の女の子に見えているらしい。
そして、このノーロイ公爵家は元々「女の子が生まれない」という強固な呪いがかかっていて、もう何百年も男子しか生まれてなくて、そこに誕生したのがあたしという女の子だったから、みんなあんなに「お姫様が生まれたぞー!」って大喜びの大騒ぎだったってわけ。
ろばだけどね。
「シャルロットさま」
お庭でしゃがんで、いろんな色の小さな花々がきれいに寄せ植えられた植木鉢を眺めていたら、背後から声を掛けられた。
シャルロット・ノーロイ。それが、みんながあたしを呼ぶ名前。まだ洗礼を受けてないからミドルネームはない。
「お花をご覧でしたのね」
この人はアーネリア伯母様。あたしを生んだという、人間のおかあさまの、実のお姉さん。で、あたしのおとうさまだということになってる人間の、実のお兄さんのお嫁さん。
ノーロイ公爵家には女の子が生まれない。
だから、女の子がたくさん生まれている家系として有名な侯爵家から、2人の姉妹を、ノーロイ公爵家の2人の息子にそれぞれお嫁さんとして招き入れたんですって。
立ち上がって、アーネリア伯母様にお辞儀をして。それから、そっと木陰の背の高い枝を指差した。
赤い小さな実をつけている。
「実が気になるのですね?」
アーネリア伯母様は、小さなあたしをふわりと抱き上げて枝まで手が届くようにしてくれた。
「この樹はアイレクス。食べられませんので、おくちには入れませぬよう」
あたしはこくんと頷いて見せ、そっとその実に指先だけを近づけた。
「シャルロットさまはお花がお好きですのね」
そうよ、好き。お花は美味しそうだもの。
だけど、本当はこんな作り物みたいに植木鉢に飾り立てられたお花よりもね、
「いい匂いのお花、好き」
「あらあら。でしたら、きっとこの庭園よりもハーブ園のほうがお好みでしょうね。王宮にございますのよ」
アーネリア伯母様のことは、好き。
いつもこんな風にあたしの言葉に耳を傾けてくれるから。だけど、こんな楽しい時間はいつもそう長くは続かない。
「アーネリア様!!」
すごい剣幕で、すごい勢いで。メイドが駆け寄って来る。
「困ります! 何をなさっておいでですか!」
「赤い実が気になるご様子でしたので、お見せしていたの」
「アイレクスの実をですか!? おくちに入れでもしたらどうなさるおつもりですか!」
「そんな…、大丈夫よ」
少しだけ年配のそのメイドは、ちょっとだけ意地悪な目を伯母様に向ける。
「失礼ながらアーネリア様にはお子様がいらっしゃらないから、おわかりにならないとは存じますが」
アーネリア伯母様に抱っこされたままのあたしを奪い取るように抱き上げながら、言葉を続けた。
「2歳の子どもにそんなこと、わかるはずがありません」
やれやれ。
本当に生まれてから2年ほどしか経たない人間の子どもは、そのくらい突飛な行動を取るらしい。
だけど、あたしはろばだから。2年も経てばもう赤ちゃんじゃないの。
ものの道理も理解出来る。ろばだけどずっと人間として育てられているのだから、言葉の意味もわかるし情況も読める。
しかし、そんなことは誰にも認めてもらえないのだ。
そういう事情さえも理解できてしまったあたしは、極力人前ではおしゃべりも控え仕草も幼く振る舞うように気をつけている。
さっきみたいにおしゃべりしても驚かずに対応してくれるのは、この家の中ではアーネリア伯母様だけだった。
メイドはあたしを抱いたままガゼボまで戻り、そして時計を見てまた方向を変えた。
お茶の時間だ。
館内に戻ると、ようやく抱っこから降ろされ、あたしはひとりで歩き出す。その後を、先程のメイドを筆頭に数人のメイドがついて来る。
木の実を口にいれかねないとか騒いでいたくせに、この広いお屋敷でちゃんとひとりで目的地まで辿り着けると思ってるところがちょっと謎。
お茶会の扉の前であたしが静止すると、恭しく扉が開かれる。部屋の中では、おかあさまとおばあさまが既に席に着いていた。
2人とも豪華に華美ないでたちで、先程のアーネリア伯母様との差はろばにだってわかる。
あたしは、教えられた通りの美しいお辞儀をして、美しく席に着く。
「待っていたわ、愛しいシャルロット」
おばあさまはそうおっしゃるけど、その瞳はあたしを見ているわけじゃない。あたしが身につけているドレスや髪飾りをチェックしている。
そして、こう云うのだ。
「この髪飾りを選んだのは、誰? シャルロットにルビーは似合わないわね。宝石を着けるなら半貴石になさい。」
それは、こういう意味。
このわたくしよりも目立つ宝石をつけるなんて許さない。
「マナーのレッスンは進んでる?」
おかあさまはそうおっしゃるけど、おかあさまのフォークを持つ指の癖をご自分は直そうとはなさらない。
「3歳になるまで、もうすぐよね。楽しみね、シャルロット。来週は、王子様との顔合わせですからね。ああ、髪の艶が気になるわね。今夜からトリートメントは2種類にして」
「はい、かしこまりました」
「ドレスと髪飾りは同じ半貴石で揃えなさい。あまりカラフルじゃないほうが品がいいわ」
「はい、かしこまりました」
おかあさまとおばあさまがメイドたちに次々にと指示を出していくのを「何もわからない幼女」の顔でスルーしながらお茶をいただく。
木の実にかじりつきかねない幼子に、熱いカップで紅茶を出すなよ…と心の中でだけぼやきながらね。
「その日は、お姉様もお出ましよね? ドレスの色を確認して準備を」
「かしこまりました」
おかあさまは、ふだんのドレスはアーネリア伯母様と好みが全然違う。だから、今日みたいにまったく違う系統のドレスばかり。だけど、たくさんの人の前に出る時や今回のように王宮の中に入る時は、必ずアーネリア伯母様のドレスをチェックする。
おなじようなドレスに揃えるためだ。
兄君に嫁いだアーネリア伯母様は、公爵家嫡男の妻。将来はノーロイ公爵夫人となることが確定している。
弟君に嫁いだおかあさまは、そうじゃない。
だから、当然扱いも違う。その差はね、ろばなのに、ろばじゃなく公爵家のご令嬢として扱われているあたしにはよくわかる。
公の場に出る時はいつも意図して、おばあさまとおじいさまを中心に上手に兄君とアーネスト伯母様。下手に弟君とおかあさま。そんなふうに配置される。
おかあさまとアーネリア伯母様がおなじ色を纏うのは、おばあさまにとっては自分を主役にするシンメトリーのアクセサリー。おかあさまにとってはどちらが後の公爵家の跡取りかわからなくする、自分をアピールするトリック。
知ってる。こーゆーの、win-winってゆーの。
おばあさまとおかあさまは、血の繋がりはないのに価値観が似ていて仲がいいのだわ。だって、こんなお茶会にアーネリア伯母様を招いたことなんてないんだもの。
おふたりのそばはいつも白粉と、くぐもった蝋燭の煤の焦げる匂いがする。
あたしはアーネリア伯母様の草っぽい香りのほうが好き。
そういえば、アーネリア伯母様はハーブ園が王宮にあると仰ってた。王子様に興味はないけど、王宮に行く楽しみは出来た。
そして。
その日は朝から慌しかった。
あたしが3歳になった日。
お誕生日のお祝いなどはなく、王宮にご挨拶に向かうのだ王子様にお逢いするのだ婚約を決めるのだと、それはそれは大騒ぎ。生まれてすぐの「お姫様が生まれたぞー!」って騒ぎを思い出す。
成程。
女の子なら王族に嫁げるってことなのね。おばあさまもおかあさまも王族の一員になれると思っておいでなのね。そのための女児誕生フィーバーだったわけね。
あたしは、ろばなのにな。
念入りに磨かれ着飾らせられて完成した姿で、メイドに伴われエントランスに出ると、あたしを一目見るなりおばあさまの怒声が響いた。
「大切な席なのよ!? 紫は私が着るに決まってるじゃないの!」
どうやら、あたしのドレスが紫に近い色合いだったことが逆鱗に触れたらしい。
メイド達は皆そんなことわかってた。ただ、少し前から社交界ではパートナーや家族が似た色合わせをする「リンクコーデ」がもてはやされているのだ。メイド達は、あたしとおばあさまの色合いを合わせることで仲良しコーデを演出したつもりだったらしい。王族に嫁ぐ孫娘とおばあさまがどれだけ仲良しかをアピールするいい作戦だと思っていたのだ。
違うんだよなぁ。
おばあさまは、誰かと一緒に評価されるのは満足できないの。自分ひとりが主役じゃなきゃダメなんだよね。
なんでもくちに入れかねない幼児にだって、そんくらいわかりますことよ?
「今すぐ着替えさせなさい!」
怒鳴られたメイド達は、慌ただしくあたしを抱えあげ、階段を駆け上り、あたしから紫色のドレスを引っぺがす。
「どうしましょう?」
「もうどれでもいいわ!」
真心を無碍にされたメイド達が、焦りながら怒ってるのがわかる。
「これでいいわよ」
さっきいちばん張り切って紫のドレスをあたしに着せ付けてくれたメイドが、もうどうでもいいわ!って態度でいちばん近くにあったドレスを手に取る。
ま。適当ね。
「オレンジね!いいわ!」
「オレンジの靴を持って来て! ピーチでもいいわ。ピンクはダメよ、合わない!」
オレンジ色のドレスに合わせてメイド達が一斉に動き出す。
取り残されたあたしの頭には、紫の石の付いた髪飾りが乗せられたまま。オレンジのドレスに紫かあ。合わないなあ。ろばでもわかる。でも。この騒動の中ではあたしの髪を直してくれる余裕なんてきっと皆無。
いやいやいや、今日の主役ってあたしじゃないの?
そのとき。
音を立てずにそーっと扉が開いて、アーネリア伯母様のお顔がのぞいた。口元に人差し指を添え「しーっ」って、笑顔。
オレンジ色のドレスを見てにっこり微笑んだ後、私の頭から金属と宝石だけで作られたバレッタを外して、ちょっとだけ髪を整えてくれたあと、薄緑とオレンジの刺繍で蔦と花の模様が描かれたリボンを可愛らしく結んでくれた。リボンの先には、キラキラ光る淡い薄緑の石がゆらゆら揺れてる。その優しい色合いは、あたしの榛色のくせっ毛にとても似合う。
ありがとう!って云いたかったけど、メイド達に見つかったらきっとまた叱られるからね。
こそっと無言でお辞儀だけすると、アーネリア伯母様も同様にきれいなお辞儀をして、そのまま無言でそっとその場を去って行かれた。
公爵家長男アーニャ伯父様とアーネリア伯母様。
公爵家次男トートおとうさまとリルシスおかあさま。
おかあさまはいつもこう云うの。
「お姉様はいつだって私の欲しいものばかりをかすめ取っていくのよ」
「いままでもずっとそうだった」
「本当は私が兄君のアーニャ様に嫁ぐはずだったのに。狡いったらないわ」
「ドレスだって、本当はお姉様のほうからお色を揃えましょうと云ってくるのが筋でしょう? それを、自分が侯爵家嫡男夫人だって目立ちたいから云って来ないのよ。本当に、なんて卑怯な人なのかしら」
「でもね。さすがに子どもばかりはね。そんなお姉様でも、恵まれないものは仕方ないわよね。お気の毒」
「だから尚更、絶対にお姉様をシャルロットに近付けないで! 何をされるかわからないわ!」
オレンジ色のドレスは、ハイウェストから広がるスカートの部分が何枚も何枚も薄い淡い色の生地が薔薇の花のように重ねられていた。肌触りのよいペチコートとドロワーズも重ねられてふんわりふっくらとした子どもらしいシルエット。オレンジ色の飾りのついたピカピカの白い靴。髪には、オレンジと薄緑のリボン。
突貫工事でコーディネイト変更が完成したあたしは、おとうさまとおかあさまと一緒に馬車に乗る。
おじいさまとおばあさま、伯父様と伯母様。3台の馬車が王宮に到着すると、おかあさまがあたしの手を握ったので、ちょっとびっくりした。
手をつないだことなんて、はじめてじゃないかしら。
王宮の門をくぐった中はどこもかしこもピカピカで、お庭の樹もお花もキレイに造りこまれた偽物みたい。おかあさまが仰るように王族への輿入れが実現したら、あたしはここに住むのかしら。
偽物のお花は好きじゃないわ。
だけど、偽物のろばのあたしには、にせもの同士ぴったりなのかな。
「殿下」
お城には大きな大階段。その少し手前で、おかあさまは驚いたような声で小さく呟き、あたしと繋いでいた手を離しお辞儀をする。よくわからないまま、あたしもその横で頭を伏せた。
「はじめまして。シャルロット・ノーロイ嬢。頭をあげて顔を見せてくれるかい?」
云われた通りに顔をあげて、その声の主を見た。
王子様だ。
なんだかよくわかんないけど、それだけはわかった。この人が王子様なんだ!って。なんかね、すっごいきらきらしてた。着てる服とか髪の色とか、そういうのもあるのかもしれないけど、それ以上に。ひとめでパッとわかるくらいに存在がキラキラしてた。
えー!? ちょっと待って?
あたし、ろばよ。ろばをお嫁さんにしていいような相手じゃないでしょ、この人はー!
「シャルル殿下直々にお出迎えとは恐悦至極にございます」
おじいさまの挨拶の声が聞こえる。でも、それどころではない。キラキラがきらきらと微笑みながらあたしのほうに歩いてくるのだ。
「はやく僕の花嫁に逢いたかったんだ」
目の前まで来た王子様は、見上げるほど背が高かった。
今年で10歳を迎えると教えられてる。でも、きっとあたしとあまり変わらないんだって思っちゃってた。違った。おじいさまやおとうさまほどの背丈はないけれど、大人と並んでも肩くらいの背丈はあると思う。あたしがろばの姿だったら、きっと同じくらいの目線だったと思うんだけど、人間の3歳サイズのあたしにとっては本当に大きい。
「お手をどうぞ、シャルロット嬢」
おろおろとしている間に、王子様に手を引かれ、私はお城へとつながるの大階段へと向かう。
「階段は少し危ないね。抱き上げることを許してもらえる?」
いやいやいやいや、やめてやめて。
ふるふると小さく首を横に振ると、ふっと王子様は微笑んで、差し出された手のひらにそっと乗せていただけのあたしの手をキュッと握り直した。
「では、一緒にまいりましょう」
王子様と2人で手をつないで大階段をのぼり始める。ちょっと周りの人たちの反応を伺うと、きれいに整列していた兵士やメイドたちが目を細めているのが見えた。
不敬だと思われはしないかと心配だったんだけど、どうやら王宮の方々の目にはご自慢の可愛らしい王子様が小さな女の子の手を引く姿は微笑ましく好意的に受け入れられているようだ。
そっと視線を彷徨わせると同じようにニコニコしているおじいさまとおとうさま。心配そうに見つめている伯父様と伯母様。どこか緊張してピリピリした雰囲気のおかあさま。それから。
それから、おばあさまは少し怒っているように見えた。
大きな広間の中に入ると、真っ赤な絨毯が引かれていて、玉座に座っている方々がいた。
王様とお妃様だ。
王様は王子様と同じキラキラ光る金髪。そして青い目。絵本の中の王様がそのまま出て来たみたい。
「よく来た。其方がシャルロット・ノーロイ嬢か。この日を待ちわびたぞ」
お初にお目にかかります。ノーロイ侯爵が孫娘、シャルロットにございます。
挨拶の言葉は頭をよぎるけど、3歳を迎えたばかりの人間はこれ云っちゃいけないっぽいので、ただ無言で最敬礼のお辞儀をする。マナーの先生が教えてくれたカーテシー。それでも、人間の幼児にしては体幹がよすぎると変な反応をされたからあまりやりたくはないんだけど、王様に見せなくていつやるんだ?って思ったのよね。
「ほほう。素晴らしい」
「まあまあ、愛らしいこと」
「どうだ、シャルル。シャルロット嬢は気に入ったか?」
「はい、父上。とても好ましく思われます」
にっこりと微笑んだ王子様は、そのあとすぐにこう繋げた。
「シャルロット嬢は花がお好きだと聞いています。温室を案内してもよろしいでしょうか?」
「まあ、シャルル。幼いとはいえ公爵家のご令嬢ですよ。ふたりっきりで連れ回すのはなりません」
お妃様は口では叱るように仰ったけど直ぐに、部屋の端に控えていたメイド数人に指を差しながら指示を出した。
「そうね、侍従長とメイド。それからアーネリア。同行してちょうだい」
「いえ、それでしたら、私が!」
慌てたようにおかあさまが声をあげたけれど、王妃様がすぐにそれに応える。
「いいえ、リトシス。あなたはこの婚姻に関していくつかのお話を私たちとしてもらわなくては。ここに残ってちょうだい」
その声には、否やを挟める隙なんてなかった。
「お願い出来るわね、アーネリア」
王子様から手を引かれ、廊下に出る。王宮は広い。廊下の先すら見えない。さすがにこのまま温室までを歩かなければならないのはどうかと思われたらしく、
「抱き上げる許可をいただけないだろうか」
もう一度、王子様から問われた。
仕方がない。小さく頷くと、王子様は軽々とあたしを抱き上げた。あたしのふわふわのくせっ毛がちょうど王子様の頬に触れたらしく、王子様はくすぐったそうに目を細めた。
「柔らかい髪。良い匂いだね」
おかあさまは、はっきりした色の艶々とした髪が品が良いのだといつも仰る。あたしの髪は艶のない榛色。綿毛のようなふわふわとしたくせっ毛はおかあさまはあまりお好きではないのだけれど、どうやら王子様はそうではないらしいとわかってちょっぴりあたしはホッとした。
あたしの髪にそっと鼻先をうずめた王子様を、侍従長さんが咎めるように咳払いをして、「わかったよ」と王子様はすぐに向き直り、王宮の豪華な廊下を歩き出した。その間あたしは、抱き上げられて視界が高くなったことで見えるようになった窓の外を、ウキウキと眺めていた。
到着した温室は複数のハーブの香りで満ちていた。先程通った人工的にきれいに整えられた庭園と違い、いろんな花々が自由に咲きみだれているようだった。タイルで彩られた床には土や葉っぱがたくさん落ちていて、あたしにはそれがとても好ましく思えた。
抱っこから下ろされて、その小さな綺麗なモザイクタイルや天井から吊るされた蔓の葉を見上げると、空が見えそうなガラスの天井や窓の形がドームを描いているのがわかった。
なんて素敵。
「気に入ったみたいだね」
こくこくと頷く。
嬉しくてキョロキョロと周りを見渡すあたしのことを、王子様は特に咎めることもなく、ニコニコと傍にいてくれた。そこから少しだけ離れたところにアーネリア伯母様。そして更に遠巻きに侍従長さんと数人のメイドたちが控えてくれていた。
「ねえ、シャルロット嬢。アジアンタムとアイビー、どちらの方が好き?」
「アジアンタム」
問われてそっとあたしは、頭上のハンギングプランターから下がる蔦を指差す。
「僕も好きだよ」
「おなじだね」
「実はね、アーネリア様は僕の植物学の先生なんだ」
幾つかの葉や実を指差してその名やハーブの効能を語りかけてくれたあと、王子様はこう教えてくれた。
「だから、今日君に直接会う前にアーネリア様から君の話は聞いていてね。早く逢いたいと楽しみに思っていたんだ」
植物について教えてくれるだけでなく、王子様はあたしのことも知りたがった。
「そのリボンはお気に入り?」
「ピクニックに行ったことはある?」
「なにをして遊ぶのが好き?」
「いちばん好きな花を教えてくれる?」
「シロツメクサ」
答えると、王子様は少し意外そうな顔をした。
本物は見たことがないのだけど、きっとあたしは白詰草の原っぱがとても好きだと思う。多分、食べるけど。
「絵本で見たの」
「そうなんだね。いつか一緒に湖のそばまで遠乗りに行きたいね。丘の上にシロツメクサの野原があったと思うよ」
「おなかは空かないかな? お茶の用意をさせようね」
王子様が右手を挙げるとすぐに近寄ってきたメイドのひとりにあたしの傍にいてくれるように云って、王子様は自ら侍従長のところに向かって歩いて行き、何か話をしている。そんなことよりもあたしはどこからかこぼれ落ちた小さな実を運んでいくありさんの方が重要だったので気にしていなかった。
しばらくすると、お茶やお菓子を乗せたワゴンをメイドたちが運び入れてくる。温室の中央の丸いガーデンテーブルの上にあっという間にレースのテーブルクロスが敷かれ茶器が美しく並べられて、お茶の支度が出来上がる。
あたしの前に出されたお茶は、ミルクをたくさん入れられてほどよくぬるくなっていた。心遣いが嬉しい。
「マフィンは好きかい? ビスケットとどちらが?」
「マフィンにイクリのジャムが好き。クロテッドクリームはいらないの」
「いいね。僕も好きだよ」
会話の中で王子様は「好き」という言葉をよく仰る。それに気がついて、思わず王子様の顔をじっと見つめてしまった。
「好きだよ」
そしたら、王子様はもう一度そう仰った。
「僕は君のことがとても好きになってしまったよ。ねえ、シャルロット嬢。僕のお嫁さんになってくれるかな?」
それは、
「おとうさまとおかあさまが決めることです」
「そうか。君は嫌?」
ごめんなさい。ろばはそれには答えられません。
沈黙の時間が少しだけ流れて、ふっと王子様は微笑んで。
「そろそろ大人の話も終わった頃かもしれない。父上たちのところに戻ろうか」
再び抱き上げられて王宮の廊下を歩いて行く。来た時と同様に、その少し後ろをアーネリア様と侍従長、それからメイドたちがついてくる。
アーネリア伯母様は、そういえばずっと何も仰らない。
扉が開かれて、王子様は私を抱き上げたまま部屋に入った。そんな王子様にお妃様が少し咎めるような眉をする。
「シャルル。先程も云ったでしょう。シャルロット嬢はまだ幼いとはいえれっきとした公爵令嬢。まだ正式な婚約が結ばれてもいない令嬢に対して、そんなに馴々しくするものじゃありませんよ」
「申し訳ありません。ですが、あまりにも愛おしくて。離し難いのです」
「ほほう」
王様はおもしろそうに笑ってらっしゃる。
「父上、母上。私はシャルロット嬢をとても気に入りました。ぜひこの婚約、まとめていただきたく存じます」
おかあさまが明らかに晴れやかに勝ち誇るような顔をしたのが目に入った。
しかし、王子様はそれに反応するかのように私を抱き上げたままの手にぎゅっと力を込めた。
「つきましては」
一言一言、宣言するようにくっきりと王子様はこう仰った。
「今、すぐに、洗礼の儀を執り行いたく、願います。」
「えっ!?」
ためらうように咎めるようにうろたえた反応をしたのはおかあさまだけだった。
「そうね今日が3歳の誕生日だったのよね。本当なら最初に洗礼を行わなければいけなかったのに、私たちを優先してくださってありがとう」
「すぐに支度をさせよ」
「いいえ、もう泉に司祭を呼んでおります。このまますぐに向かいましょう」
王子様は絶対に取り上げられないようにとでも云うかのように、あたしを抱きしめる力を強くした。
「いいえ、いけませんわ」「まだ今日は支度も出来ておりません。また日を改めて」
おかあさまだけがおろおろと止めようとしているのがわかる。
そこにいるすべての人がおかあさまの反応に対応はしない。おかあさまを無視して流されて行く。
「王宮で洗礼を受けるなど畏れ多いことでございます。日を改めて、街の神殿に詣りますから、今日は、」
「いいえ、シャルロット嬢は僕の花嫁。この神殿で洗礼を受けることの何が違と仰います」
王宮の中の少し奥まった聖堂の中央に大きな泉がしつらえられており、王族の3歳の洗礼はその泉で行うのだと以前アーネリアお伯母様から聞いたことがある。きっとそこに向かうのだろう。王子様は私を抱いたままスタスタと歩き始める。
王様とお妃様は形だけはそれを咎めてはいたが、「まあまあ、シャルルったら、本当にシャルロット嬢のことを気に気に入ってしまったのね」と微笑ましげな話をしながら歩き出す。いいえ、待って待ってください。そう云いながらも流されるように戸惑うおかあさまと共にノーロイ公爵家の人たちも聖堂に向かって一斉に動き出した。
扉が開くと一面真っ白な空間だった。
大きな神殿に、豪奢で複雑な飾りが掘り込まれた振り込まれた柱が7本。その中心に噴水のように湧き出る泉があった。
おそらく先ほどお茶の準備の時に王子様が何か指示していたのがこの洗礼の手続きだったのだろう。急拵えを感じさせない正式な正装を整えた司祭や聖女が数人既に控えていた。
「ようこそ。未来の王太子妃にお逢いできると知り、我々も嬉しくお待ちしておりました」
「待ってだめやめてお願いやめさせて日を改めさせて、」
泉の水音にかき消されそうな遠くでおかあさまの声が聞こえる。
「バーバラ様!!」
おかあさまが救いを求めるようにおばあさまの名前を呼んでいる。
だけど、今日王宮に着いてからずっと不機嫌なおばあさまがその声に応える事は無い。
そうねわかってる。だってここに来てからずっと話の中心はあたしで主役はあたし。美しく着飾ったはずのとっておきの紫の装いにすら誰も目もくれない。おばあさまにとってはそれは耐えられることではないはず。
多分今はちょっとふてくされているのね。
おかあさまの慌てようから察するに、きっと洗礼を受けたらあたしにはよくないことが起こるんでしょう。だけど、ご自分の思い通りにおばあさまの引き立て役にならないあたしなんか困ってもいい気味としかおばあさまはお思いにならないんだわ。
祈りの言葉が始まった。
3歳になった誕生日に洗礼を受けるのはごくごく当たり前のこと。だから辞めさせてというおかあさまの言葉に応える人は誰もいない。逆に、王子様の御意向の邪魔をしかねない雑音を発するおかあさまは排除される方向で動いてる。
司祭の言葉に重ねる聖女たちの声が波紋のように広がる祈りの言葉がひとしきり続いた後、司祭は神に捧げる言葉を呟いた。恭しく聖女が柄杓に水を汲みあげ司祭に手渡す。捧げるように天へとかかげたその聖水にもう一度祈りの言葉を重ねたあと、司祭の両手によって柄杓はくるりとまわされた。
うつむいた頭のてっぺんにポタポタと聖水の雫をかけられるのだとアーネリア伯母様から聞かされていた。けれど、司祭の両手の動きはおおきくて。弧を描くように動かされたその柄杓はスピードを上げて。
王子様に抱っこされたままのあたしの顔面めがけて、まるで柄杓の中の聖水を投げつけるかのような勢いで、少し離れた場所から聖水が放たれたのだ。
冷たい水の感触を頭に感じた。それから、耳にも。
だけど、顔は濡れなかった。
いつの間にか駆け寄って来ていたおかあさまが、王子様から抱っこされたままのあたしの頭を抱きかかえるようにして身を挺して聖水からあたしを守っていたのだ。
おかあさまの、首筋から肩にかけて、そして腕にも伝うように。おかあさまの身体が聖水で濡れている。
「シャルロット」
名を呼ばれた。
「耳に、水が…」
あたしはそう呟いて、触れた。触れた先に、あたしの耳は無かった。
あたしを抱っこしたままの至近距離で王子様が唖然とした顔をして、あたしの顔を覗き込んでいる。
「シャルロット嬢」
名前を呼ぶ声が聞こえるのに、あたしには耳がない。王子様の顔を見上げると、あたしの顔を覗き込んで…いいえ、王子様が見つめているのは、あたしの顔ではなくあたしの頭のてっぺんだった。濡れた、あたしの髪。見えなくても、わかる。あたしの、人間の形の耳はなくなって、頭のてっぺんにロバの耳が出現しているのだ。
「…そんな…」
呆然とした顔であたしをみつめていた王子様の視線がおかあさまへと移り、更に驚いた表情で固まった。その視線を追うようにしてあたしもおかあさまを見た。
そこには。
聖水で濡れたおかあさまの姿があった。聖水に濡れた部分が茶色く染まっている。聖水に触れた部分がロバの姿に変わっているのだ。
「…どうして…おかあさま…」
「バーバラ様リトリル様、おふたりからは黒魔術の匂いがしていました」
王子様の声は震えていた。
それ以上は語れなくなってしまった王子様のその言葉を、アーネリア伯母様が引き継いだ。
「シャルル王子殿下は王となるお方として、毒と黒魔術の気配を感じ取れるように教育された方。その方から聞いていても、まさかと思っていたのよ」
泣き叫ぶようなアーネリア伯母様の声に応えたおかあさまの言葉は、
「どうしてなの、リトシス…!」
「女の子が欲しかったからよ」
冷たく、凪いでいた。
「女の子を、産むためよ」
「ノーロイ公爵家の呪いは、王家に嫁ぐことが出来ないようにするためよ!? 揺るがせてはならない神様がお決めになったことだわ」
「そうよ、人間の姿のままではノーロイ公爵家では女の子が絶対に生まれないの」
「まさか」
「だから私は」
「黒魔術の力を借りてロバになってでも女の子が欲しかった。そうすれば私は国母の母になれたのよ」
「成程」
おかあさまとアーネリア伯母様の会話に、口を挟んだのはおとうさまだった。
「人間だから女の子が生まれなかったのか」
ははっと、乾いた声でおとうさまは笑った。
「それならリトシス。最初からそう云ってくれたら、私は君ではなく、最初からロバとの間に子供を設けたのに」
おとうさまの口からこぼれ出たのは、恐ろしい言葉だった。
「なんてことおっしゃるの」
震えながら、おかあさまが応える。
「私は、あなたと私の娘に、王太子妃になって欲しかったのよ!」
あたしは。自分で自分がろばだってことをわかっていた。
だからてっきり、ろばの私をおかあさまが人間の姿に見せてるんだと思ってた。
まさか、あたしを産むためにおかあさま自身がろばになっていたなんて思いもしなかった。あたしの本当のおかあさまはおかあさまだったんだわ。
「黒魔術なんて、そんな恐ろしいことを、どうして」
「お姉様にはわからないわ」
「いつだって、お姉様は私が欲しいものは何でも手に入っていて、賢くて美しくて、いつだって褒め称えられるのはお姉様。この婚姻だって、私とお姉様おなじようにノーロイ公爵家に嫁ぐって決まったのに、嫡男との結婚はお姉様がちゃっかり奪って行って。私には何もなかったじゃないの。こうでもしないと、私には何も手に入らなかった」
「そんなことない。いつだって愛されて、たくさんの人に囲まれて可愛がられるのはあなただったじゃない。甘えるのもねだるのも、許されるのはあなたのその可愛らしさよ。生まれたときからずっとそうだったわ」
「そんなこと、」
「お父様もお母様も、あなたには苦労の少ない道ばかりを差し出したのよ。責任のない仕事、重責のない立場。嫡男夫人という立場も、そう」
アーネリア伯母様の顔は、つらそうに歪んでいる。
「この家に来てからも、バーバラ様から招かれるのも、皆に囲まれた華やかなお茶会もあなたのもので」
「だけど、賞賛されるのはいつもお姉様だったわ」
「私が持っているもので褒められたのは、ほんの少しお勉強ができたり、覚えたりするのが上手だったことだけ。あなたのように持って生まれたものではないわ」
持って生まれたもの。その言葉に、一瞬おかあさまの表情がぐにゃりと揺らいだのがわかった。
「アーニャ様の伴侶に私が選ばれたのも、そんなところが重用されただけよ。あなたのように可愛がられたり愛されたりしたからじゃない」
「…お姉様は何だって出来るじゃない」
「私が出来ることなんて! そんなこと、ほんの少し勉強すれば、誰にだって手に入ったものよ。あなたよりも私の方が褒められる所作だって、毎日毎日少しずつ繰り返し練習しているだけ。誰にだって出来るわ。繰り返してさえいれば、絶対に手に入らない特別なものではなかったはずよ」
「たったそれだけのことを、あなたはどうしてしなかったの、リトシス!?」
半分ろばの姿になっていたおかあさまがアーネリア伯母様のその言葉を聞いた瞬間、絶望に包まれた顔をしたのがわかった。目から明らかに輝きが消えた。
そして、一瞬だけあたしの額に口づけを落として、そのまま踵を返して走り出した。
誰にも止めることは出来なかった。
おかあさまは、泉の真ん中に身を投げた。
聖水の泉に全身を浸したおかあさまのその姿は、次の瞬間には1頭のロバに変わっていた。
「おかあさま」
あたしは、ろばなの。
人間として扱われ人間としていろんなことをやったけど、それでもろばにはできることとできないことがあった。人間にはとても簡単にできるごく当たり前のこと。でも私がろばである以上それはできないわって思うことが確かにあった。
おかあさまはアーネリア伯母様のように賢くなかったし所作も美しくなかったけれど、決してそれはサボっていたからでも勉強しなかったからでもなかったと思う。
一生懸命がんばってもアーネリア伯母様のようにはなれなかったし、アーネリア伯母様のように素晴らしいと認められたこともないし、がんばってもできるようにならなかったことを「やらなかったからだ」と責められることがきっとおかあさまにはたくさんあったんだと思う。
そしてそれをお姉様であるアーネリア伯母様にさえも全くわかってもらえてなかったんだということが、きっとおかあさまにとって、泉の中に身を浸すまでの絶望として突きつけられたんだろう。
努力しさえすれば誰にだって手に入るなんて、夢のような絵空事。
それ以前に、きっと努力を続けられることそのものが持って生まれた才能なのかも知れない。
「バーバラ様」
王子様の声が響いた。
「私には関係のないことです。リトシスが勝手にやったこと」
王子様は、泣いていた。
「先程も云いましたよね。あなたからは強烈な黒魔術の匂いがする。実際にロバとなる魔術をその身に宿したのはリトシス様だけでしょうが、あなたがそれを手引きしましたよね」
その時、おじいさまは静かにおばあさまの前に歩み寄られた。
「すまないね、バーバラ。私はずっとそなたが好きで、そなたが幸せならそれでいいと思っていた。そなたがやりたいようにやればいいし、欲しいものは全てそなたが手に入れれば良いと。それだけ思って生きてきた。すべてに目をつぶってきた」
「いや…いやです」
「草原のある辺境の地に移ろう。そこでロバとなったリトシスの世話をしながら、これから先の余生は生きよう」
「いやです! この華やかな王都で、民に傅かれ、華やかに身を飾り、誰よりも美しいと称えられながら生きるのが私の人生です。どうして私が田舎になど」
「もう終わりなんだ。終わったんだよ。バーバラ」
「いやです。いやです。いやです。いや」
「ならば、おまえもあの泉に身を浸すか?」
「嫌です!!」
「ならば、わかろう?」
「嫌」
「私も供に参ろう、バーバラ」
そう云いながら、おじいさまは一杓の聖水を受け取り、泣き崩れるおばあさまに飲ませる。もうそれっきり、喉を灼かれたおばあさまは人の言葉を発することはなかった。
王様の前に歩み出る。
「本日をもって私とバーバラは退き、ノーロイ公爵家家督はアーニャとアーネリアに託そうと思います」
「あいわかった」
哀しみに満ちた目をして、王様は短くそう応えた。
そして。
王子様は。
「ごめん、ごめんよ、シャルロット嬢」
泣き続けていた。
「こんなはずじゃなかったんだ。黒魔術の匂いがしていたのは、リトシス様とバーバラ様だけ。シャルロット嬢は優しい匂いしかしないから、洗礼さえ受けさせれば君を救えるのだと思っていたのに…まさか、こんな…」
もう立っていることすら出来ず。床にうずくまるように座り込み、抱き上げていたはずのあたしの身体に縋り付くように両手をまわして。聖水で濡れたあたしの髪を、両手の袖で抱きしめるように拭い続けていた。
美しい空の色の瞳いっぱいに涙の幕が掛かって、その瞳が更に大きく見える。瞬きをする度に涙が溢れて頬を伝って流れていく。
今日初めてそのお姿を見てからずっと、凛々しくて知的で格好いいと思っていた大人びた王子様が、ベソべそに泣いている今はなんだかとても可愛らしい子どもに見えて来た。
幾重にも布が重ねられたあたしのドレスの、いちばん上のひらひらをそっと持ち上げて、その布で王子様の頬を拭う。
「君は、泣かないの?」
「生まれたときから、あたしはろばだったの。知ってたの」
答えたあと、あぁ王子様が訊きたいのはそんなことじゃないんだわって思い至った。
「哀しみの表現として涙をこぼすのは、ろばには、無いの。それは、人間だけ。」
「代わりに泣いてくださって、ありがとうございます。王子様」
もう、わざと幼いふりをするのはやめて、そんな風にあたしは王子様に微笑んで見せた。きっとその笑顔は目を細めただけのとても下手くそなものだったと思うけど。
そのとき。静かに空気が揺れた。
「其方に罪は無い」
王様の静かな声があたしに降りてくる。
「哀れな娘よ。其方は何を望む?」
あたしが答えるよりも先に王子様があたしをぎゅっと抱きしめた。
「恐れながら父上、僕はこのシャルロット嬢以外伴侶には考えられません。どうかシャルロット嬢との婚約をお許しください」
王様は哀しそうな瞳を更に哀しく霞ませた。
「其方はどう思う?」
「恐れながら、あたしはろばでございます。人と比べれば、そんなに長くは生きられません」
王子様が激しくショックを受けたように固まったのがわかったけれど、ごめんなさい。それはきっと事実なの。
「娘よ」
王様はもう一度私に問いかけた。
「哀れな娘よ。其方の願いを何か1つだけ叶えよう。そしてそれをそなたへの憐れみとしよう。何でも申すがいい」
「恐れながら王様。もしも願いが叶うのならば、お許しいただきたい願いがひとつだけございます」
「いつかいつか何年か先のこと。シャルル殿下にお子が生まれましたなら、そのお子様を背に乗せ、白詰草の野原を散歩いたしたく存じます」
「シャルロット嬢」
「それがあたしの望みです。シャルル王子殿下」
「アーネリアから聞いていた以上に賢い娘であるな。まこと、惜しいこと」
ロバにしておくには惜しいって意味。わかってる。でも、違うの。逆なの。あたしが大人びて見えるのは、ロバだから、なんだよ。
「恐れながら。あたしはろばです故、こちらにいらっしゃいますシャルル殿下よりもろばの3歳は歳上かと存じます」
頭のてっぺんで、榛色の耳をピクピク動かしながら、そう答えたのだった。
おじいさまとおばあさまは、ロバの姿になったおかあさまと供に、ノーロイ侯爵領の中でもいちばん南の端の辺境の地に移り住むこととなった。そこで、おかあさまを含む数匹のロバと山羊と鶏の世話をしながら生きることとなった。
数名のメイドはついていくので生活に困ることもなく、大きな罰では無いのかもしれないが、華やかでいつだってちやほやと自分だけが主役でないと気が済まなかったおばあさまにとっては、おそらく死んでしまいたいくなるほどの屈辱の日々になるに違いない。
おとうさまは同行するのを拒んだ。静かな声でアーニャ伯父様にこう云ったらしい。
「北の塔に幽閉してほしい。そこで誰とも会わずに過ごしたい」
あたしは本当は、ろばの姿になっておかあさまについて行きたかったのだけれど、それは許されなかった。
娘を産んでから体調を崩しがちだったノーロイ公爵家次男夫人は空気のいい環境で療養することになった。かねてより田舎暮らしを切望していた公爵夫妻はこれを機に家督を長男夫妻に譲り、次男夫人と供に辺境へと移住。公爵家次男は王都に残り、兄である公爵を支えながら北の研究棟で過ごしておられる。
公にはそういうことに収まった。
あたしは、伯父様と伯母様に後見人となっていただくことで、もうしばらくの間ノーロイ公爵令嬢として生きることとなった。正式に養女にと望まれたけれど、それはお断りさせてもらうことができた。
王様に云われたのと同じように「何か望みは」と云ってもらったので、願いを叶えてもらうことができたの。
無情で無関心な男を永遠におとうさまと呼ぶこと。
哀れで愚かな半獣の女以外を決しておかあさまとは呼ばないこと。
そして、いつかはろばとして天寿をまっとうすること。
それがあたしの望み。
とはいえ、とりあえずあと数年は今のまま。
花飾りのボンネットで頭のてっぺんのろばの耳を隠して、いつか約束が叶えられる日までを過ごすことになったんだ。
「シャルロットお嬢様。シャルル王子殿下よりお迎えの馬車がお付きです」
「ただいままいります」
あたしは、シャルル王子殿下お気に入りの筆頭婚約者候補、シャルロット・ミゼリコルディア・ノーロイ公爵令嬢。3歳。
10年後にろばに還る女です。
● FIN ●
ご静読ありがとうございました
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
【登場人物】
兄 アーニャ・ノーロイ
兄だから、あににゃ。呪いにかかったのーろい公爵家嫡男。堅実派。アーネリアの頭脳を利用するために妻に選んだわけじゃなかったんだけど、ここに来てあらぬ誤解が発覚。今後の巻き返しに期待。
弟 トート・ノーロイ
弟だから、お・とーと。
姉 アーネリア
姉だから、あーね、りあ。
妹 リルシス
妹。イモオト。もじった名前も限界で断念。リトルシスターから、リルシスと命名。惜しい。
婆 バーバラ
婆だから、バーバラ。ノーロイ公爵夫人。
ノーロイ公爵。
名前はない。ただただバーバラを愛していただけの人。
ろば シャルロット
3歳でこれは大人びすぎてるなーとは思うんだけど、ろばの5歳はもう人間だと中年女性だとAI先生が仰るので、幼い王子様が恋をする相手としては5歳設定には出来なかった。しゃーなしかと。
外見は幼稚園年少さんをイメージ。
シャルロットという名がシャルルに似た響きなのは、この親達は最初からシャルル狙いだったからだと思われ。ちっ。
王子様 シャルル
10歳は小学校5年生をイメージ。
正義感と淡い恋心からとんでもない結果を初恋の相手にもたらしてしまった可哀想な少年。
多分、本当のこと云うとケモ耳にちょこっと萌えてる。けど、自分がしでかした結果なだけに、この萌えは墓場まで持っていくつもり。
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ろばをロバ表記するかろば表記するか最後まで悩んだ。ろばのほうがまろくて可愛いよね。うんうん。
一部意図してロバ表記にしてます。
シャルロットが望むようにろばに戻してもらえなかったのは、幼い王子様には罪悪感が重すぎてまだ背負いきれないこと、王子様の初恋が諦めきれないこと。それからそれ以上に大人たちにとっては、人間>ロバ なので、ロバにしちゃうのは可哀想!って価値観と思い込み。
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