春の日 心の扉が開くとき
電車の窓に映る顔は毎日同じで、ノートの罫線みたいに一日がまっすぐ過ぎていく。
友だちと笑っても、心からじゃないとわかる。胸の奥に、息の形をした隙間がひとつ残る。
その隙間をそっと埋めてくれるのが、放課後の裏庭だった。
校舎の影が長く伸び、フェンスの向こうの小さな花壇にやわらかい風が落ちてくる。
土の匂いが袖口に触れ、葉の手ざわりが指の温度を落ち着かせる。
ベンチは昼の残り熱で少し暖かくて、ここだけ現実がやわらかい場所となっている。
ここで肩の力が抜けて、家路に向かう。気づけば毎日のルールになっていた。
私だけの秘密の庭になっていた。
その日も、錆びた門を押した。
蝶番が小さく鳴り、夕方の色がほどけて足もとに流れ込む。
ベンチの手前に人影をみつけた。
長い黒髪が風にほどけては戻り、しゃがんだ指先が土をそっと崩して、つぼみの根元の固さを確かめている。
足が止まり、胸がひと拍遅れて鳴った。
ここを「私だけの場所」にしていたわがままが、急に恥ずかしくなっていく。
「ここ、よく来るの?」
思ったより近くへ届いた声に、彼女が振り向く。
驚き、それからすぐにほどける笑み。目の端で光が揺れて、こわばっていた肩がするりと下がった。
「うん。あなたも?」
うなずくだけで精一杯。喉は渇いているのに、土の匂いがやさしく満ちて、言葉の水分を奪っていくみたい。
「私は、渚っていうの」
一瞬きょとんとして、すぐに、あ、名前だと気づく。
「……綾」
教えてくれたから、名乗りを返す。
名前を言い合っただけなのに、胸の奥の糸が一段、静かに結び直される。
不思議な音が内側でかすかに鳴った気がした。
それからの放課後、自然に並ぶようになった。
花の名前がぜんぜん出てこない私に、渚が一つずつ教えてくれる。
やわらかな言い回しと、ていねいな指先。彼女が花をどれだけ好きか、すぐ伝わってくる。
語るときの仕草が、少し眩しい。高校に入ってから、こんなふうに目を輝かせて話す人は、あまり見てこなかった。小学生のころは、みんなこんな顔をしていたのに、いつの間にか上手に隠すようになったんだな、と少しだけ懐かしくなる。
「この子はね、朝より夕方のほうが色が深くなるんだよ」
横顔を盗み見てしまった。
まつ毛の影は花びらの縁より細く、爪の間についた黒い筋が、真面目さの証みたいに見えた。
土で少しだけ荒れた親指の腹が、つぼみの根元を確かめるときだけ、とても慎重に動く。
「綾は、どうしてここに来るの?」
胸の奥の鍵が、少しだけ鳴る。
言葉にすると壊れそうで、でも黙っていると苦しくなる種類の気持ち。
「ここだと、うまく息ができるの。誰にも見られてないって、ちゃんと分かるから」
ごまかすこともできたのに、渚には本当のことを言ってしまった。
吐き出した瞬間、風がベンチの背を撫で、渚が小さく頷く。
「私も。ここは避難所なんだ。普段も不満はないけど、たまに重く感じるの。ここに来て安心するの」
避難所、という言葉の温度が、体温とぴたりと合う。
その響きが胸の奥でひとつ居場所をつくって、そこに呼吸が落ち着く。
その日から、小さな約束が少しずつ増えた。
花壇の端の枯葉を二人で集めること。
雨の日はベンチの下にビニール袋を置いておくこと。
帰る前に、次に咲きそうなつぼみを一本選んで名前をつけること。
秘密は物じゃなくて、時間の重ね方に宿るのだと、そのとき初めて知った。
指先に土の匂いを残したまま、靴底に小石の音を連れて、校門を出た。
そんな他愛ない約束のひとつひとつが、ゆっくり根を張っていく。
自分の気持ちが分かったのは、風の強い夕暮れだった。
渚の髪が私の肩にふっと触れ、すぐ離れて、また触れて、また離れる。
挨拶みたいな軽さなのに、その軽さだけで呼吸が乱れる。
漫画みたいな「ドキッ」じゃない。
頬がじわじわ熱くなって、首筋まで色が昇っていくのが自分で分かる。
人って、こんなに簡単に体温が上がるんだ。
好き、ってこういうことかもしれない。
心臓は痛くない。むしろよく動いていた。
授業中の脳の重さが嘘みたいに、体の中心が明るい。
渚の笑い声の高さを覚えようとして、少しずつ失敗して、また聞いて、少しずつ近づいていく。
ただ、名前を呼ぶ瞬間だけは怖かった。
「……渚」
呼ぶたびに、意識が私のほうを向く。
その向きが、いつか反射じゃなく拒絶になるかもしれない想像が、夜に牙を剥く。
女の子を好きになるなんて考えてこなかった。
生まれてから十七年間、恋人はいなかったし、本当に恋とか愛とか分かるのかと問われたら、困る。
それでも、思ってしまう。
そこにいなくても、目が彼女を追う。
廊下の向こうでも、教室の反対側でも、花の話をしている声の方向へ自然と視線が吸い寄せられる。
たぶん、これが好きってこと。
ベッドで目を閉じると、裏庭のベンチが浮かぶ。
隣に座る自分と、いない自分。
二つの映像が交互に点滅して、眠りの手前で胸を掴む。
制服の襟に残った土の匂いまで思い出して、笑って、ため息をつく。
いつまでも一緒に座っていたいと願いながら、意識を手放した。
そんなふうに揺れていたころ、ひとつだけ、出来事があった。
放課後、裏庭に行くと、渚がいない。
いつもなら先に着いている日も多いのに、ベンチの上に影がない。
風だけがジャージの袖を引っ張る。
待つという行為は、心を静かに削る。
スマホを見て、時計を見て、また花を見る。
同じ時間を何度も撫で回すうちに、自分の気持ちの輪郭が濃くなる。
怖かった。来ない理由が私だったらどうしよう、という考えがよぎった。
土の匂いが急に冷たくなる。
気持ちに気づいて怖くなったのかな。私が何かしたのかな。
どんどん不安になる。渚が目の前からいなくなる恐怖を抱えたまま、時間だけが少しずつ進む。
まるで一分ごとに心臓を突き刺されているみたいだった。
三十分になりそうなころ、門が軋んだ。
「綾!」
駆け足で入ってきた渚が、息を切らして笑う。頬が少し赤くて、前髪に小さな土がついている。
「ごめん、生物室で片づけ長引いちゃって。待ってた?」
来てくれた。顔を見た瞬間、胸の曇りが一気に晴れる。
膝の力が抜けて、ベンチの端に手をついた。
「……うん」
短い返事の中に、安堵も、恥ずかしさも、愛おしさも、ぜんぶ混ざる。
その全部を飲み込む。渚の手首に細い土の線がついていて、指でそっと払うと、目を丸くして笑った。
世界は、ここにあった。答えはずっと、同じ場所で風に吹かれていた。
翌日、決めた。言葉は胸で育てすぎると形が崩れる。
新鮮なうちに渡す。いつもの順番で花壇を見て、ビニール袋の口を結び、ベンチに並んだ。
夕日に透け、金網の影が四角く地面へ広がる。
格子影が足元を静かに囲み、葉の隙間から落ちる光が、指の間で粉みたいに砕けた。
「渚」
決心して、ひとつ深呼吸。それから、名前を呼ぶ。
こちらを向いた瞳に光が射し、色が少し薄くなる。
「私、渚のことが好き」
言った瞬間、風の音が大きくなり、心臓の音も大きくなる。
でも逃げない。目だけを見て、返事を待つ。怖さは隣に座らせたままでいい。
ここで、関係は変わる。受け入れられても、拒絶されても。
もう、同じ場所には戻れない。うつむきかけた視線を持ち上げる。たぶん、体は少し震えていた。
驚きのあとで、渚が唇の端を上げた。
「……よかった。私だけじゃなかった」
肩の力が抜け、体の奥から静かに温かいものが広がる。
背後の方でベンチがきしんで、どこか遠くでカラスが鳴いた。
「ずっとね、綾の声を聞くと安心してた。理由を考えると怖くてやめてたけど。今は言える。私も、綾が好き」
その言葉は、花壇の土にゆっくり染みていく水みたいで、すぐには消えなかった。
音を立てずに根の方へ落ちていき、そこに留まる。
それからの放課後、手をつないで庭を一周するのが新しい習慣になった。
指と指の間に、昔はなかった温度が流れる。
沈黙が怖くなくなる。同じものを見ている安心が、沈黙の中で育つ。
名前を呼ぶたび、返ってくる声の高さが少しずつ近くなっていくのが分かる。
ベンチの木目、フェンスの錆びの形、名も知らない花の小さな傷まで、二人で分け合う。
「このつぼみ、明日には開くかな」
「開くよ。だって私たち、言えたもん」
冗談めかして言い合って、笑って、同じ方向に沈む夕陽をしばらく眺めた。
胸の真ん中が本当に軽くなる。
秘密の庭は、もう「私だけの」じゃない。
二人で守る場所になった。守るって、閉じることじゃなくて、ちゃんと開くこと。
必要なときに来て、必要なだけ息をして、また世界に戻る。
毎日は同じ形で続いていく。その中で、小さな違いが色を増やす。
黒板の粉っぽさも、体育館の冷たい床も、帰り道の自販機の光も、全部少しだけ優しく見える。
未来の話をするとき、怖さはまだいる。
でも、もう一人じゃない。私が怖がるたび、渚の指が軽く握り返してくれる。
その小さな合図があれば、どんな夜でも朝に繋がる気がする。
この庭は、避難所であり、出発点だ。
手の中の温度を確かめながら、胸の中で何度も言う。
渚、愛してる。
出会ってくれて、ありがとう。




