第七話: 盤上の来訪者
仮想世界《箱舟》。
神代 玲は、自らの玉座から、現実世界の情勢を映し出す複数のモニターを眺めていた。まるで、複雑なリアルタイムストラテジーゲームを観戦するように。
新京で起きた小さな「バグ」は、今や世界という名のサーバー全体に波紋を広げ、様々なプレイヤーたちの思惑を炙り出している。
「ディアナ。各国の動きを要約しろ」
「はい、マスター。極東自治区政府は、未だに事態をテロとして隠蔽しようと試みていますが、その実、内部は混乱の極みにあります。ユーラシア連合は、新京に潜入させた工作員たちによる情報収集を継続中。そして――」
ディアナは、一つのモニターを拡大する。
そこには、新京の国際空港へと着陸態勢に入る、巨大な輸送機の姿が映し出されていた。機体には、環太平洋合衆国の国章が描かれている。
「環太平洋合衆国より、技術調査団を名乗る部隊が、先ほど新京に到着しました」
「……調査団、か」
玲は、その言葉に微かな興味を示した。
彼らは、この現象を既存の物理法則の延長線上にある『未知の技術』と定義している。前提が間違っている以上、導き出される結論もまた、誤りだろう。
彼らがどのようなエラーを導き出すのか、観測する価値はあるかもしれない。
「その調査団の主任の名は?」
「ジュリアン・アッシュフォード。若干25歳。彼の公的な所属は国家安全保障局ですが……バックドアを通して《マザー》の深層を探ったところ、一つの秘匿ファイルに行き着きました。プロジェクト名、『カサンドラ』」
ディアナが表示したファイルには、何世代にもわたる研究者たちの名前と、一つの仮説が記されていた。
――情報と物理の境界が融解する特異点、その発生確率と、引き金となりうる『超天才』の出現予測。
その文字列を目にした瞬間、玲は数秒間、沈黙した。
彼の思考に、純粋な驚愕という名のノイズが走る。
(……予測だと? この私を? 旧世界の陳腐な論理で、この現象を予見したというのか? 一体、どのような変数と計算式を用いれば、その結論に辿り着く……?)
それは、侮蔑や怒りではなかった。
自らの盤上で、自分以外のプレイヤーが、全く異なるアプローチでありながら、驚くべき「正解」の一端に触れている。その事実に、彼は純粋な知的好奇心を刺激された。
「……予言、というわけか」
偽神は、感嘆とも呆れともつかない声で呟いた。
ようやく、この退屈な盤上に、思考を読むに値する駒が現れた。
「ディアナ。彼らの評価をレベル4に引き上げろ。もはや単なる観測対象ではない。この盤における、新たな変数だ」
「……よろしいのですか?」
「ああ。どうやらこのゲームは、私が思うよりも、ずっと面白くなりそうだ」
偽神は、自らの盤上に現れた「イレギュラー」な駒が、どのような動きを見せるのか。注意深く見つめることにした。
◆◆◆
新京国際空港の滑走路に、環太平洋合衆国の最新鋭輸送機が、地響きを立てて着陸した。
ランプが開き、現れたのは、黒一色の特殊な制服に身を包んだ一団。その先頭に立つ青年――ジュリアン・アッシュフォードは、極東自治区の湿った空気を吸い込むと、満足げに微笑んだ。
「――これが、新しい世界の空気か」
彼の呟きは、誰にも聞こえないほど小さかった。
出迎えた極東自治区の役人たちが、緊張した面持ちで駆け寄ってくる。彼らの形だけの歓迎と、隠しきれない警戒心を、ジュリアンは一瞥しただけで全て見抜き、内心で侮蔑した。
「長旅ご苦労様です、アッシュフォード主任。まずは、我が国の対策本部へ――」
「その必要はない」
ジュリアンは、役人の言葉を冷たく遮った。
「現地のプロトコルは無視させてもらう。我々は、我々のやり方で調査を進める。車両と、最低限の案内だけ用意してくれればいい」
あまりに傲慢な態度に、役人たちが色をなす。だが、ジュリアンは彼らを意にも介さず、自らの部下に指示を飛ばした。
「直ちに『聖域』――変貌したアーカイブ領域の周辺に、我々の観測機器を設置しろ。全てのデータをリアルタイムで本国へ送れ。一瞬の揺らぎも見逃すな」
彼の部下たちは、極めて練度高く、無駄のない動きで準備を始める。
ジュリアンは、輸送機のランプの上から、遥か遠くに霞んで見える、異質な光を放つ領域を見つめた。
「予言にあった『最初のラッパ』が、これほど美しいとはな」
彼の瞳には、この現象に対する恐怖や混乱は一切ない。
あるのは、長年待ち望んだ研究対象を前にした、科学者の純粋な興奮と、自らがこの謎を解き明かすのだという、絶対的な自信だけだった。
この来訪者が盤上に投じた一手が、遥か高みから、興味深い観察対象として見つめられていることに、彼はまだ気づいていなかった。