第五話: 変貌せし世界
仮想世界《箱舟》。
神代 玲は、自らの玉座から、国立中央アーカイブの惨状を映し出すメインスクリーンを見上げていた。いや、惨状ではない。彼の目には、それは「誕生」の瞬間に見えた。
現実という陳腐なOSがクラッシュし、自らの論理で構築された、より優れた世界へとアップグレードされていく。
(これが、オーバーライト……)
彼の思考に、もはや動揺はなかった。あるのは、自らのシミュレーションすら超えた現象への、純粋な知的興奮だけだ。
現実世界の物理的制約という名の「枷」が外れた時、彼の駒――EVEと戌亥――は、爆発的な進化を遂げた。その二つの共鳴が、周囲の空間情報を書き換えるほどのエネルギーを生み出したのだ。
「ディアナ。《マザー》のバックドアに接続しろ。統合政府が保有する、戌亥 丈二に関する全ての監視記録を抽出。彼の思想的背景と、今回の行動原理を解析しろ」
「接続、完了。対象の過去の通信ログ、及び要注意人物としての監視プロファイルとの照合を開始……完了しました。彼は数年前より、軍の非合法ネットワークを介してマスターの論文を入手。その思想に深く心酔し、独自のコミュニティを形成していた形跡があります。彼の今回の行動は、第七行政区の事件を、マスターからの『啓示』と捉えた結果であると推定されます。確率92%で、彼はマスターの信奉者です」
(……信奉者、か)
偽神は、自らを崇める駒の存在を、滑稽だと感じながらも、同時に一つの疑問を覚えた。
信奉するのはいい。だが、なぜ彼の身体が変貌した?
「ディアナ。《箱舟》の設計データを開け。キャラクタークリエイションの項目、クラス『聖騎士』の取得条件は?」
「はい。クラス『聖騎士』の取得条件は、第一に高レベルの身体能力。第二に、特定の対象への極めて高い『信仰心』です。信仰対象への忠誠心が強いほど、聖属性のスキルに適性が生じます」
玲は思わず息を呑んだ。
彼が《箱舟》という壮大なゲームを設計した際、「あったら面白いから」という理由だけで組み込んだ、ただの「設定」。
そのゲームのルールが、現実世界に適用され始めている。
戌亥の変貌は、彼が神――つまり、この偽神である玲――を本気で信じているが故に引き起こされた、必然の「奇跡」だったのだ。
「……そうか。ならば、彼の今の状態を正確に定義しろ」
「了解。対象は『賢者の書庫』の最深部、メインサーバー室へと向かっています。彼の生体情報は旧人類のパラメータから完全に逸脱。クラス、『聖騎士』として再定義。スキル、『聖別の剣』『鋼鉄の信仰』等の覚醒を確認」
偽神は、口の端を微かに吊り上げた。
「なんと滑稽で、なんと美しい光景だろうか。自らが創り出したゲームのルールが、現実を侵食していく」
「ディアナ。戌亥の変貌をサポートしろ。彼の信仰心に呼応する形で、《箱舟》から、クラス『聖騎士』に関連するデータを、ほんの少しだけリークしてやれ。彼がより『らしく』なるように、な」
「……マスター。それは、オーバーライト現象を、意図的に加速させる行為です」
「それが何か問題かね?」
玲は、楽しそうに言った。
「せっかく面白い駒が手に入ったのだ。より強く、より美しく育ててやらねば、ゲームマスター失格だろう?」
◆◆◆
御剣 冴子は、唇を噛み締めていた。
指揮車両のモニターは、砂嵐と意味をなさないエラーコードを吐き出すばかり。アーカイブを中心とした一帯は、情報的にも物理的にも、この世界から完全に「隔離」されてしまった。
「総指揮官、ダメです! あらゆる通信が通りません! ドローンを接近させましたが、領域に侵入した瞬間に制御不能に!」
「生存隊員からの応答もゼロ! ……全滅、したとしか……」
部下たちの絶望的な報告が、彼女の心を抉る。
だが、彼女は決して表情を崩さなかった。ここで自分が折れれば、人類は本当に終わる。
「副官。統合政府、及び軍の上層部へ緊急通信」
「内容は?」
「事態は、我々の想定を遥かに超えたと伝えなさい。これはテロではない。“事象災害”だと。そして、私はこれより、指揮官権限でプロトコル・キメラを発動する」
その言葉に、副官が息を呑んだ。
プロトコル・キメラ。それは、《ウォール》設立時に、最悪の事態――統合AIの暴走を想定して作られた、禁断の対抗策。神を殺すために、悪魔の力を借りるに等しい、諸刃の剣。
「正気ですか!? あれは、まだ理論上の……!」
「正気でいられる状況かしら?」
冴子は、変貌したアーカイブを睨みつける。
旧世界の常識が通用しないのなら、こちらも常識を捨てるしかない。
「急ぎなさい。もう一刻の猶予もないわ」
彼女の瞳の奥には、部下を失った悲しみでも、未知への恐怖でもなく、ただ、目の前の不条理な現実に対する、氷のような怒りの炎が燃えていた。
その時だった。
変貌したアーカイブの建物から、一つの影がゆっくりと現れた。
全身を鈍色の鎧のようなもので覆い、その手には、現実には存在しないはずの、青白い光を放つ長剣を握っている。
戌亥 丈二。
いや、もはや、それは冴子の知る戌亥ではなかった。
その姿は、まさしく、古の物語に登場する「騎士」。
新世界の法則に祝福され、最初に覚醒した者。
彼は、ウォールの残存部隊を一瞥すると、その手に持つ長剣を、静かに天へと掲げた。
それは、神に捧げる、勝利の凱歌のようだった。