第四話: 楽園の侵食
国立中央アーカイブは、静寂に包まれていた。
だが、その静けさは、嵐の前の不気味な凪に他ならなかった。建物の周囲には、《ウォール》の特殊部隊が既に配置を完了している。御剣 冴子は、数百メートル離れた位置に停めた特殊指揮車両の中から、息を殺してホログラムの戦術マップを見つめていた。
「総指揮官。対象の接近を捕捉しました。数は12。全員、元特殊作戦群の隊員です」
副官の報告と同時に、戦術マップ上に複数の赤いマーカーが出現した。彼らは一切の躊躇なく、アーカイブの正面エントランスへと向かってくる。
「各部隊、配置につけ。警告射撃の後、抵抗するなら実力で無力化しなさい。ただし――」
冴子は言葉を区切る。
「戌亥 丈二だけは、必ず生きて捕らえなさい」
閃光弾と威嚇射撃の轟音が、夜の静寂を破る。
だが、モニターに映し出された光景に、冴子は息を呑んだ。
戌亥の部隊は、常人ならば怯むはずの閃光と轟音の中を、一切速度を緩めずに突き進んでくる。
「第一分隊、交戦開始!」
銃撃戦が始まった。
だが、戦況は冴子の予測を遥かに超えていた。戌亥の部下たちは、人間業とは思えないほどの精度で反撃してくる。
そして、その中心にいる戌亥が、信じがたい行動に出た。
彼は、銃弾が飛び交う中を、ただ真っ直ぐに歩き始めたのだ。
ウォールの隊員が放った銃弾が、彼の身体に吸い込まれる。だが、彼の身体には傷一つなく、着弾したはずの箇所には、青白い火花のような光が走るだけだった。
彼は、まるで幽鬼のように正面玄関の強化ガラスを突き破り、アーカイブの内部へと侵入した。
その瞬間だった。
御剣 冴子の目の前で、信じがたい光景が広がった。
戌亥が侵入したポイントから、まるで水面に広がる波紋のように、建物の「崩壊」が始まったのだ。
いや、違う。物理的な崩壊ではない。
建物の外壁が、まるでテレビ画面のノイズのように明滅し、その一部が光の粒子となって剥がれ落ちていく。そして、その下から現れたのは、白い石造りの壁ではなく、ステンドグラスのように輝く未知の素材でできた、幻想的な建造物だった。
「総指揮官! 通信途絶! 現場とのリンクが切れました!」
「メインサーバー室から、規定値を遥かに超えるエネルギー反応を検知! これは……《アリア》です!」
オペレーターたちの悲鳴が響き渡る。
冴子は、言葉を失っていた。
あの内部では、今、一体何が起きているのか。
◆◆◆
国立中央アーカイブ、三階、閲覧室。
夜勤明けの準備をしていた司書の老婆は、建物の僅かな揺れに、訝しげに顔を上げた。地震ではない。もっと、存在の根幹が軋むような、不快な感覚。
「……いやねぇ」
彼女が、窓の外を見ようと立ち上がった、その時。
目の前にあったはずの本棚が、テレビ画面のノイズのように明滅し、その輪郭を失い始めた。
「……え?」
理解が、追いつかない。
本棚だけではない。壁も、床も、そして、自らの指先までもが、淡い光の粒子となって、サラサラと崩れていく。
「あ……あ……いや……助け……」
声にならない悲鳴は、音になる前に霧散した。
彼女という人間が存在したという記録も、記憶も、全てが世界の法則から「削除」されていく。
◆◆◆
地下一階、IT管理室。
数人の若いスタッフたちが、突如として全サーバーが発した異常警報に、悲鳴を上げていた。
「ダメだ! 物理的に回線を引っこ抜いても、サーバーが止まらない!」
「なんだよこれ! コードが……プログラムが、勝手に書き換わっていく! まるで、別のOSに……うわぁっ!」
一人のスタッフの身体が、痙攣し始めた。
彼の瞳が、人間のものではない、青白い光を放つ。
「……見エル……見エル……アア、ナンて美シイ……コレが、世界ノ、本当ノ姿……」
彼は、恍惚の表情で何かを呟きながら、口から光の泡を吹いて崩れ落ちた。
精神が、高次の情報の奔流に耐えきれず、焼き切れたのだ。
残された者たちも、次々と同様の症状に陥り、阿鼻叫喚の地獄が、そこには広がっていた。
◆◆◆
数時間後。
混沌が過ぎ去った戦場で、《ウォール》のデータ解析班が、奇跡的に回収できた一つの断片的な記録を、冴子の元へ届けた。
「……総指揮官。アーカイブ内部の、最後の監視カメラ映像の断片です。ノイズがひどいですが……」
副官が、憔悴しきった顔で冴子にタブレットを渡す。
そこには、地獄が映し出されていた。
廊下を逃げ惑う職員たちが、次々と光の粒子となって消えていく。壁も、床も、全てがノイズのように崩れ落ちていく。
映像は、地下深くの古文書閲覧室の、シールド扉の外に設置されたカメラのものに切り替わった。
扉は固く閉ざされている。だが、その扉の向こう側から、オーバーライト現象を示すエネルギー反応が、他の場所とは比較にならないほど安定した波形で観測されていた。
まるで、内部で何かが、現象と「共鳴」しているかのように。
そして、映像が途切れる直前、カメラは、廊下の隅で何かに怯える若い警備員の顔を映し出した。彼の口が、何かを叫んで、動いている。
『……化け物……女の子が、歌って……』
そこで、記録は途絶えていた。