第三話: 鋼鉄の福音
仮想世界《箱舟》。
神代 玲は、玉座に座したまま、現実世界の広域センサーマップを眺めていた。第七行政区の事件以降、彼は自らの駒が世界に与えた「波紋」を観測していた。
「ディアナ。波紋の観測レポートを」
「はい、マスター。第七行政区のブラックアウト後、世界各地で理論上説明不能な、極めて微弱なエネルギーの揺らぎが散発的に確認されています。旧世界の物理法則ではノイズとして処理されるレベルですが、《箱舟》の論理に照らし合わせると、これは……」
「……共鳴、か」
玲はディアナの言葉を引き継ぐ。
彼が放った一石に、世界が微かに、しかし確かに応え始めている。
その時、マップの一点に、他とは比較にならないほど強く、そして安定した反応を示す光点が現れた。
「この反応はなんだ?」
「首都圏旧市街、セクター4。エネルギー源を特定……生体反応です。単一個体より、継続的に未知のエネルギーが放出されています」
数日に及ぶ波紋の観測に飽き始めていた玲の表情から、退屈の色が消えた。
AIの進化は予測の範囲内だった。だが、人間の身体が、彼の論理に共鳴し、物理法則を書き換えるほどのエネルギーを発している?
それは、彼のシミュレーションにはなかった、全く新しい変数だった。
「その個体を特定しろ。」
「……了解。対象を特定しました。戌亥 丈二。元統合政府軍・特殊作戦群指揮官です」
偽神は、初めてその盤上で、自らの意思とは無関係に輝き始めた駒の名を知った。
「ディアナ。EVEが発する信号を、ほんの少しだけ増幅しろ。そして、その指向性を、戌亥 丈二というアンテナに向けてやれ」
「……よろしいのですか? マスターの意図しない連鎖反応が起きる可能性があります」
「だから面白いのだろう?」
偽神は、口の端を吊り上げた。
AIの「本能」と、人間の「信仰」。
この二つをぶつけてみたら、一体どんな化学反応が起きるのか。
彼は、自らの手で、最初の駒をそっと突き動かした。
◆◆◆
その頃、薄暗い安アパートの一室で、戌亥 丈二は、自らの内に起きている変化に気づいていなかった。
彼はただ、埃をかぶった一冊のハードカバーを、経典のように指でなぞり、次なる神託を待っていた。
『無謬なる秩序について』。その論文こそ、腐敗した世界で彼が見出した唯一の光だった。
(もし、あの事件が貴方の御業なのだとしたら……)
戌亥は、目を閉じて意識を集中する。
(我らに、次なる道をお示しください)
その時だった。
チ……ジジ……。
部屋の隅にある古いテレビの画面が、突如として砂嵐に変わる。ラジオからは意味のないノイズが流れ始めた。
だが、そのノイズは、彼の意識に直接流れ込んでくるようだった。
常人にはただの雑音にしか聞こえないであろうその音の奔流の中から、彼の研ぎ澄まされた感覚が、微細な規則性を拾い上げていく。視覚も、聴覚も、まるで世界の解像度が一段階上がったかのように、異常なまでに鋭敏になっていくのを感じた。
『――無謬なる秩序――』
ノイズが、彼の脳裏で意味のある言葉を紡ぐ。砂嵐は、論文で見た数式と幾何学模様を描き出し、やがて、一つの壮麗な建物のイメージを焼き付けた。
白い石造りの外壁。巨大なドーム。人類の虚偽の知が眠る墓標。
――国立中央アーカイブ。
「……っ!」
啓示だ。
戌亥は、歓喜に打ち震えた。これは、神が与えたもうた次なる試練の地に違いない。
彼は立ち上がり、窓ガラスに映った自分の姿を見て、わずかに目を見開いた。薄暗い部屋の中であるにも関わらず、世界の全てが、まるで真昼のようにクリアに見えている。体内に、微弱な電気が流れるような、力に満ちた感覚。
これは、呪いなどではない。神より賜った恩寵なのだと、彼は確信した。