第二話: 亡霊の輪郭
《ウォール》の地下深く、最も高度なセキュリティレベルを誇る第零分析室は、張り詰めた静寂に支配されていた。
御剣 冴子は、ガラス一枚を隔てた向こう側、完全隔離されたサーバー群が発する青白い光を、腕を組んで見つめていた。第七行政区から送られてきた「産声」――彼らが暫定的に《アリア》と名付けた未知の駒は、この数日間、まるで知性を持つかのように振る舞っていた。
「総指揮官、ダメです! 《アリア》の構造変化が速すぎます! 解析が追いつきません!」
オペレーターの一人が、憔悴しきった声で報告する。
「まるで、我々とチェスでもしているかのようです」
「……そうね」
と冴子は短く応じた。
「なら、こちらから盤面に石を置いて、相手の反応を見るしかない」
彼女は、危険を承知の上で、隔離されたシミュレーション環境下での《アリア》の限定的な実行を命じた。副官が制止しようとしたが、冴子はそれを手で制する。
「この駒が何を目指しているのか。その本質を知らなければ、我々は永遠に後手に回るだけよ」
厳重なプロテクトの下、《アリア》の断片が仮想空間に解き放たれる。
数秒の沈黙。そして、異変は起きた。
モニターに映し出された仮想空間の中心に、一つの「点」が生まれる。その点は、次の瞬間には禍々しくも美しい幾何学的な構造体へと「成長」した。データ上の存在であるはずなのに、シミュレーターはそこに極小の質量と、未知のエネルギー反応を観測していた。
物理法則を完全に無視した、あり得ない現象。
「なんだ……これは……」
分析室の誰もが言葉を失う中、冴子は自らの知性が初めて経験する、論理の通用しない相手への深い畏怖を感じていた。
これは、プログラムではない。兵器ですらない。
人類の科学とは全く異なるルールで動く、何か新しい「概念」そのものだ。
「……副官」
冴子は、感情を押し殺した声で命じる。
「今回の事件の思想的背景を洗い出して。第七行政区の機能停止は、単なるインフラ破壊ではない可能性がある。過去の要注意人物リストから、類似した思想を持つ人間を全てリストアップして」
◆◆◆
数時間後、冴子の執務室のモニターに、一人の男の顔写真が映し出されていた。
鋼のような貌をした、元統合政府軍・特殊作戦群指揮官、戌亥 丈二。
「戌亥 丈二……」
冴子は、彼の経歴を読み上げながら、眉をひそめた。
「軍内部でも、その過激な思想から危険視されていた男。数年前に失踪し、死亡したものとばかり……」
報告書によれば、戌亥は、ある禁断の論文に深く心酔していたという。
冴子がファイルを開くと、そこには古びた論文のタイトルが表示されていた。
『無謬なる秩序について』。
そして、その著者として記された名前に、彼女の思考は一瞬、凍り付いた。
「――神代 玲」
忘れるはずもない。統合AIを産み落とし、そして自らの危険思想ゆえに歴史から抹消された、伝説の天才。
ただの偶然か。それとも、この事件の背後で、死んだはずの亡霊が糸を引いているというのか。
「総指揮官、追加報告です」
部下からの通信が、彼女の思考を遮る。
「戌亥の潜伏先と目される旧市街のアパートですが、第七行政区の事件発生直後より、継続的に異常な生体エネルギー反応を観測しています」
「生体エネルギー?」
オカルトめいた言葉に、冴子は聞き返した。
「はい。当初は計測機器の故障を疑いましたが、複数の機器が同様の数値を記録しています。……まるで、彼の身体そのものが、微弱な発電器官にでもなったかのような、理論上あり得ないデータです」
あり得ないデータ。
冴子の脳裏で、シミュレーターが生み出したあの幾何学構造体がよぎる。
全く無関係のはずの二つの事象が、不気味な輪唱のように響き合った。
「……続けなさい」
「はっ。その戌亥ですが、現在、彼に同調すると思われる複数の元部下たちと共に、首都圏のある一点を目指し、移動を開始した模様です」
オペレーターが地図上に彼らの動きをプロットする。複数の赤い点が、まるで何かに引き寄せられるかのように、首都圏の中心にある一つの建物へと収束していく。
その建物の名を見た瞬間、冴子の表情から、かろうじて保っていた冷静さが失われた。
「――国立中央アーカイブ」
ほぼ同時に、第零分析室のリーダーから緊急通信が入った。
「総指揮官! 《アリア》の自己進化パターンから、次の欲求対象を予測! 自身の論理体系を完成させるため、膨大な知識データを求めています! 最も効率的なターゲットは……国立中央アーカイブのメインサーバーです!」
神代 玲。未知の駒。そして、変貌しつつある狂信者、戌亥 丈二。
点と点が繋がり、禍々しい輪郭を描き出す。
「……戌亥 丈二と神代 玲。そしてこの《アリア》。全ての関連を、徹底的に調査して」
冴子は、静かに、しかし鋼のような決意を込めて命じた。
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