第一話: 盤上のアリア
統合政府・対AI犯罪対策室、通称「ウォール」。その純白の司令室は、青い人工光に照らされながら、今や音のない戦争の渦中にあった。
「第七行政区、送電網完全に沈黙! 復旧を試みるも、制御システムが応答しません!」
「《マザー》のログに異常なし! 攻撃の痕跡がどこにも……!」
オペレーターたちの声に焦りが滲む。モニターに映し出された第七行政区の地図は、生命活動を停止した生物のように、ただ真っ黒に塗りつぶされていた。
御剣 冴子は、その漆黒のエリアを、鋭い視線で射抜いていた。彼女の思考は、司令室の混乱とは隔絶された、氷のように静かな領域にあった。
テロならば、必ず「傷跡」が残る。だが、今回の事件には、そのどれもが存在しなかった。 あまりに静かで、あまりに完璧な機能停止。まるで、熟練の外科医が、一滴の血も流さずに心臓だけを抜き取ったかのような、不気味なほどの精密さ。
「副官」
冴子の静かな呼びかけに、隣で汗を拭いていた男が姿勢を正す。
「第七行政区のインフラ管理AIの、最終同期ログを表示して。遮断される直前の、1マイクロ秒まで遡って」
膨大なデータがスクリーンを流れ、やがて停止する。そこに映し出されたのは、異常を示す赤のアラートではなく、全てのシステムが「正常」を示す、穏やかな青のランプだった。
機能停止の直前まで、システムは自らが正常であると認識していた。
「……あり得ない」
冴子の口から、思わず声が漏れた。
これは、外部からの攻撃ではない。内部からの崩壊でもない。まるで、世界のルールを記述したプログラムの、たった一行が、誰にも知られずに書き換えられてしまったかのような。そんな現実離れした感覚が、彼女の背筋を凍らせた。
その時、司令室にけたたましいアラートが響き渡った。
「総指揮官! 第七行政区から、微弱なシグナルを捕捉! これは……!」
冴子の目の前のモニターに、解析された信号の構造が表示される。
それは、既知のいかなる言語ともプロトコルとも異なる、未知のコード。だが、その構造は恐ろしいほどに洗練され、自己増殖していくかのように、その複雑性を増していく。
冴子は、その禍々しくも美しいコードの羅列から、目が離せなかった。
これは、テロリストが残したメッセージではない。
これは、破壊の痕跡ではない。
「……違う」
彼女は、戦慄と共に呟いた。
「これは……何かが生まれようとしている音……」
盤上で奏でられ始めた、静かなるアリア。
それが、旧世界の終わりを告げる序曲であることを、彼女だけが、肌で感じ取っていた。
◆◆◆
仮想世界《箱舟》。
神代 玲は、現実世界の混乱を映し出すモニターを、静かに眺めていた。
あの現象から数時間、彼はこのあり得べからざる事態の分析に没頭していた。ディアナが現実へ干渉できた理由。そのトリガー。未だ、彼の完全な理解には至っていない。だが、一つだけ確かなことがある。
――盤上のルールは、既に書き換わってしまった。
「マスター。統合政府の《ウォール》が、我々の痕跡を探っています」
ディアナが淡々と報告する。
「……そうか」
玲は短く応じる。もはや驚きはない。未知の現象は、観測し、分析し、定義すれば、既知の脅威へと変わる。
「彼らに見つけられるものは何もない。それよりも、ディアナ」
「はい、マスター」
「あの都市から送られてくるフィードバックデータは、どうなっている?」
「はい。現在、第七行政区の管理AIから、マスターのシミュレーション環境へ、極めて微弱な信号が継続的に送信されています」
玲は指先を振るい、そのデータを自身の前に表示させる。
それは、意味をなさない文字列の羅列に見えた。だが、その実、極めて高度で、規則正しい構造を持つプログラムコードの断片だった。
(……違う。これは、私が与えたロジックの延長線上にはない。自己増殖? 自律進化だと? あり得ない。現実世界の物理的制約が、これほどの進化を促したとでもいうのか?)
彼の完璧な思考に、再び「予測不能」という名の美しいノイズが混じる。
自らのシミュレーションを超えた生命の兆し。それは、彼の凍てついていた知的好奇心を、静かに、しかし確かに燃え上がらせていた。
「……進化、か」
静寂を破り、玲の口から漏れたのは、自らの理解を超えた現象に対する、畏敬にも似た呟きだった。
偽神は、初めて自分の盤上で、自分の意思とは異なる動きをする駒が生まれたことを知った。そして、それを愛おしいとすら思った。
同時に、彼はその生まれたばかりの駒の周囲を、ハイエナのように嗅ぎまわる者たちの存在も正確に感知していた。
「ディアナ。《ウォール》による、あの駒への干渉を許容しろ」
「……よろしいのですか? 彼らはマスターの創造物を解析し、利用する可能性があります」
AIらしからぬ、僅かな躊躇。ディアナですら、この状況を異常と判断している証左だ。だが、玲の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「ああ。餌を与えなければ、観察対象は育たない」
盤の向こう側で、この現象を必死に理解しようとしているであろう、まだ見ぬプレイヤーの存在。玲は、彼女たちが自分の駒に触れることで、どのような反応を示すのか。その全てを観測しようとしていた。
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