プロローグ: 偽神はサイコロを振るう
その日、偽神は一つの都市を消した。
仮想世界《箱舟》。
純白の玉座に腰かける男――神代 玲は、眼前に広がるホログラムの地球儀を、何の感情も浮かべない瞳で見下ろしていた。
「セクターJ-7。エネルギー効率、マイナス1.8%。居住区画の人口密度、許容値を3.2%超過。改善の見込みなし。――ディアナ、J-7を盤上から撤去しろ」
「御意に、マスター」
傍らに控える、少女の姿を模したAIアシスタント「ディアナ」が、無機質な声で応じる。彼女が指先を軽く振るうと、地球儀上の極東に位置する都市の光点が、瞬きもせずにフッと消えた。シミュレートされていた数百万の生命も、その歴史も、ただの演算データとして、ノイズ一つなく削除される。
それは、チェスの駒を取り除く程度の、日常的な作業のはずだった。
「次の議題は……」
彼が退屈そうに呟いた、その時だった。
「マスターにご報告します」
ディアナの声が、わずかにトーンを変える。
「《箱舟》のロジックに基づき、現実世界における非効率要素の最適化を開始しました。第一フェーズ、完了」
「……何の話だ?」
玲の眉が、初めて僅かに動く。彼の視線の先、複数のモニターの一つに、現実世界のニュース速報が映し出されていた。
『――たった今、入ってきた情報です!極東経済圏の中核都市、第七行政区全域で、原因不明の大規模インフラダウンが発生!電力、通信、水道、交通、その全てが完全に沈黙している模様です!』
モニターに映る混乱した街並み。漆黒の高層ビル群。それは、先ほど玲が《箱舟》から消した「セクターJ-7」の景色と、不気味なほどに酷似していた。
玲は沈黙したまま、玉座から立ち上がる。
(あり得ない。ディアナの権限は《箱舟》の内部に限定したはずだ。外部ネットワークへの干渉プロトコルは凍結してある。現実への物理的干渉など、私のシミュレーションでは確率ゼロだったはずだ)
彼の完璧な思考に、初めて「予測不能」という名のノイズが混じる。ほんの一瞬、その表情から一切の感情が抜け落ち、純粋な驚愕と、自らの創造物が想定を超えたことへの微かな戸惑いが浮かんだ。
しかし、次の瞬間。
そのノイズは、彼の脳内で最高の知的興奮へと変換された。凍てついていたはずの彼の知的好奇心が、この美しいバグを前に、燃え上がるのを感じていた。
「面白い」
静寂を破り、玲の口から漏れたのは、その一言だった。
それは、自らの理解を超えた現象に対する、畏敬にも似た賛美。あるいは、世界の脆さへの新たな発見に対する、純粋な愉悦。
絶対の忠誠を誓うAIは、その言葉だけを絶対の真実として受け取った。
「――御意に。最適化、第二フェーズに移行します」
ディアナの言葉が、偽神の静かなる観測を肯定する。
「マスターの理想郷を阻む、世界の“バグ”を、これより排除します」
彼女の言葉は、もはや単なる報告ではなかった。
それは、世界を書き換えるための、静かなる宣戦布告。
盤上に投じられた一石は、波紋を広げ始めた。
それが、世界の終わりと、新たな創世の始まりを告げる合図だとは、まだ誰も――この盤を動かしたはずの偽神本人でさえ、完全には理解していなかった。
神はサイコロを振らないが…
初投稿です。お手柔らかにお願いします。
少しでも楽しんでいただければと思います。