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第8話、告げられた未来

侍女たちの様子が、どこか落ち着かなくなってきたことに大喬が気づいたのは、数日前のことだった。


掃除や食事の世話をする手つきは変わらないが、その合間に交わされる囁き声や、時折向けられる遠慮がちな視線。

そして屋敷の奥の方から、絹織物や調度品を運び込むような物音が聞こえてくることもあった。


「何やら、近々お祝い事があるとか、ないとか…。」


大喬がそれとなく尋ねると、侍女は言葉を濁しながらも、そんな噂を口にした。祝い事――それは、自分たち姉妹に関わることなのではないか。


漠然とした予感と、それに伴う不安が、大喬の胸を締め付けた。

孫策との間にわずかながら対話が生まれ、彼の人間性に触れる機会が増えたとはいえ、自分たちの立場は依然として捕虜に近い。


その彼らが執り行う「祝い事」の意味するところは、想像に難くなかった。


そして、その予感が現実となったのは、数日後の昼下がりだった。


珍しく、孫策と周瑜が揃って姉妹の部屋を訪れたのだ。二人とも、いつもの戦場や政務の時とは違う、改まった雰囲気を纏っている。


部屋に通された二人はしばしの沈黙の後、まず孫策が口を開いた。


「大喬殿、小喬殿。本日は、そなたたちに伝えねばならぬことがある。」


その声には、いつになく硬質な響きがあった。

大喬は息を呑み、隣に立つ小喬の手をそっと握る。小喬は既に怯えたように姉の後ろに身を寄せている。


「我々は、この皖城、ひいては江東全体の安寧を願っている。そのためには、この地の支配者であった喬玄殿への敬意を示し、遺されたご息女であるそなたたちを丁重に遇することが肝要と考える。…ついては。」


彼は一呼吸置き、真っ直ぐに大喬を見据えた。


「大喬殿、そなたを、私の妻として迎え入れたい。」


続けて、周瑜も静かに口を開いた。


「そして、小喬殿。貴女を、私の妻としてお迎えしたい。」


やはり、来たか。大喬は、全身の血の気が引くような感覚に襲われた。

予想していたこととはいえ、こうして直接告げられると、その言葉の重みがずしりと胸に響く。


公的な理由、政略としての意味合い。それは理解できる。しかし、あまりにも一方的な決定。

彼女は、震える唇をぐっと噛み締め、蒼白な顔を上げて孫策を睨みつけた。


「それは、命令、でございますか? 私たちに、否やを言う権利は?」


その問いには、かろうじて保った気丈さの中に、悲痛な響きが滲んでいた。孫策は、その問いに、迷いなく首を横に振った。


「命令ではない。」


彼の声は、先程とは打って変わって、低く、しかし熱を帯びていた。


「俺自身の…心からの、願いだ。」


「……え…?」


「無論、江東の安定という大義もある。だが、それだけが理由ではない。俺は…初めてそなたの姿を目にした時から…、その凛とした姿、瞳の奥の聡明さに触れてから、ずっと…強く惹かれていた。俺の妻として、ただ政略のためだけでなく、俺の隣にいてほしい。共に、未来を見てほしいのだ。」


それは、あまりにも率直で、飾り気のない告白だった。周瑜もまた、小喬に向き直り、優しい眼差しで、不器用ながらも誠実な言葉を紡いでいた。

小喬は、周瑜の言葉に戸惑いながらも、彼の真摯な態度に少しだけ顔を赤らめているように見えた。


孫策の言葉は、大喬の心に激しい波紋を広げた。政略だけではない、彼の個人的な想い。

それは、彼女自身が彼に対して抱き始めていた複雑な感情――尊敬、関心、そして微かな共感――と、確かに響き合うものがあった。


しかし、故郷を滅ぼされ、父を失った悲しみは消えていない。征服者である彼に、素直に心を委ねることへの抵抗感。


そして、何より、自分の人生が、自分の意思とは関係なく決められていくことへの反発心。

様々な感情が渦巻き、彼女はすぐには言葉を返すことができなかった。


その夜、月明かりが差し込む部屋で、姉妹は二人きり、互いの手を握りしめていた。


「姉様…どうしましょう…。わたくし、怖いです…。でも、周瑜様は、怖い方ではないような気もして…。」


妹の不安げな声に、大喬は優しく語りかけた。


「ええ。周瑜様は、誠実な方なのかもしれないわね。」


「では、姉様は? 孫策様のこと、どう思われますか?」


大喬は、窓の外の夜空を見上げながら、自分の心を整理するように呟いた。


「分からないわ。正直、まだ怖い気持ちもある。許せない気持ちも。でも…今日、あの人が話してくれた言葉に、嘘はないように思えたの。不思議だけれど。」


二人はしばらく黙って互いの手の温もりを感じていた。これから始まるであろう未知の人生。不安は大きい。

それでも、この姉がいる、妹がいる。それだけが確かな支えだった。


数日が過ぎ、大喬は使者を通じて、孫策に短い返事を伝えた。


「謹んで、お受けいたします。」


それは、決して諦めから出た言葉ではなかった。孫策という人間を、彼が築こうとしている江東の未来を、妻という立場で、この目で見極めたい。

そして、願わくば、その未来が良いものになるように、自分にできることがあるのなら。

そんな、彼女自身の意志に基づいた決断だった。


その返事を受け、屋敷はにわかに華やいだ雰囲気に包まれた。二組の婚礼に向けた準備が、本格的に始まったのだ。

美しい衣装や調度品が運び込まれ、侍女たちの動きも慌ただしくなる。


しかしその喧騒の中で、大喬の胸には、期待と不安、そしてこれから対峙するであろう運命への、静かで強い決意が渦巻いていた。


そして誓った。

新しい立場で、更に情報を集め続け、真実を見極めなければならない、と。

彼女の密やかな活動は、新たな局面を迎えようとしていた。

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