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第5話、知への渇望

数日後、再び孫策が大喬と小喬の部屋を訪れた。


時刻は、やはり陽が少し傾きかけた頃。

彼の服装は例によって土埃にまみれ、額には汗が光っている。


おそらく、例の作業から直接ここへ足を運んだのだろう。彼は部屋に入ると、半ば習慣的に、大喬からの辛辣な言葉を予期して、わずかに身構えるような気配を見せた。


しかし、今日は違った。


大喬は卓に向かって静かに書を読んでいたが、彼が入ってきても、顔を上げて一瞥しただけですぐに視線を書物に戻した。

以前のような、あからさまな敵意や侮蔑の表情はない。


部屋には、気まずいような、それでいて以前とは質の違う静寂が流れた。小喬は、姉と孫策の間の奇妙な空気に、少し戸惑っている様子だ。


孫策はその静寂にむしろ落ち着かない気分になった。

いつもなら今頃は彼女の棘のある言葉が飛んできているはずだ。彼は戸惑いを隠すように、わざと咳払いをした。


「何か、変わったことでもあったか?」


その問いに、大喬はゆっくりと顔を上げた。

彼女の瞳には以前のような燃える憎しみはなく、何かを探るような、真剣な色が浮かんでいた。


「いいえ、別に。ただ、先日、侍女から妙な噂を耳にいたしました。」


「…噂?」


「はい。なんでも、この城の復興作業に、貴方様ご自身が、兵や民に混じって汗を流しておられるとか。まさかとは思いますが…それは、真のことなのですか?」


彼女の声は責める調子ではなく、純粋な問いかけだった。


孫策は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に近い顔に戻った。

彼は、彼女の問いに直接答える代わりに、窓の外へ視線を向けた。


「誰が何をしていようと、結果が全てだ。幸い、城壁の修復も、民の住居の再建も、思ったより順調に進んでいる。この分なら、冬が来る前には、ある程度の目処が立つだろう。」


その口調には、隠しきれない達成感のようなものが滲んでいた。彼は、大喬に向き直ると、続けた。


「噂の真偽など、どうでもよかろう。」


「いいえ、よくありません。」


彼女は、きっぱりと言った。


「もしそれが真実なら…なぜ、私が貴方を罵倒した時、何もおっしゃらなかったのです? なぜ、泥まみれの理由を、一言も?」


今度の問いには、わずかな震えと、彼女自身の困惑が滲んでいた。

孫策はその問いに、少しだけ寂しげな、あるいは自嘲するような笑みを浮かべたように見えた。


「言う必要が、どこにある?」


「え…?」


「俺は、お前の故郷を奪った征服者だ。お前の父や、多くの者たちの命を奪った男だ。お前にとって、俺は憎むべき仇のはずだ。お前に恨まれ、罵倒されるのは、当然のことだろう。」


彼は、淡々と言い切った。


「……!」


その言葉は、大喬の胸に深く突き刺さった。彼は、自分の立場を、その結果として受ける憎しみさえも、全て受け入れている。

その潔さ、あるいは孤独さが、大喬にはひどく…眩しく感じられた。


この人は、ただの破壊者でも、傲慢なだけの覇王でもない。

大きなものを背負い、それでも前へ進もうとしている。それに比べて自分は…?


故郷を失った悲しみにただ沈み、目の前の現実から目を背け、無知ゆえにこの人を誤解し、傷つける言葉を投げつけていただけではないか。


(恥ずかしい…! 私は、何も知らなかった。知ろうともしなかった。だから、間違えたのだ。情報が足りなかったから。そう、知らなければ。この人のこと、この城のこと、これから江東がどうなっていくのか。ただ閉じこもって悲しんでいるだけでは、また同じ過ちを繰り返す。私は、知らなければならない。)


強い決意が、彼女の中で形になった。それは悲しみを乗り越えるための、自分自身を奮い立たせるための、そして、もしかしたら、この眩しいと感じた男を正しく理解するための、第一歩だった。


孫策は何か言いたげに自分を見つめる大喬の視線に気づいたが、それ以上は何も言わず、短く別れの言葉を告げて部屋を出て行った。


彼が去った後、大喬はしばらくの間、じっと考え込んでいた。そして意を決したように、控えていた侍女(先日、真相を教えてくれた侍女)を呼び寄せた。


「少し、頼みたいことがあります。」


「は、はい、何なりと。」


「この屋敷の中や、外の兵たちの間で、どのような話がされているか。特に、孫策様のこと、軍のこと、この城の復興のことについて、耳にしたことを、些細なことでも構わないから、私に教えてほしいのです。分かりますね?」


侍女は主の真剣な眼差しに少し驚いたが、すぐにその意図を察したように、深く頷いた。


「かしこまりました。この私にお任せください」


これはまだほんの始まりに過ぎない。

大喬は、自分の軟禁という状況の中で、侍女を通じて、まずは噂話や人々の会話から、情報を集め始めた。


それは、後の彼女の密やかな活動の、ささやかな第一歩だった。

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