第3話、泥まみれの訪問者
大喬と小喬は、屋敷の奥まった一室に軟禁されることになった。
窓の外からは、復旧作業に駆り出される民の声や、兵士たちの怒声が時折聞こえてくる。
贅沢は許されないまでも、食事や身の回りの世話はなされ、危害を加えられる様子はない。
だが、それはそれで、飼い殺しにされているようで、大喬のプライドを苛んだ。
いつまでこんな状況が続くのか。孫策という男は、一体何を考えているのか。
そんな生活が始まって数日後の昼下がり。予告もなく部屋の扉が叩かれ、そして孫策が入ってきた。
供も連れず、たった一人で。そして、彼の姿に大喬は目を疑った。
前回見た時の、戦勝の将としての威厳ある姿とはまるで違う。高価な衣や硬い鎧ではなく、動きやすいのだろう、簡素な麻の衣服。
さらに、その服は肩や膝が土で汚れ、袖口は泥で黒ずんでいる。
額には玉の汗が光り、普段整えられているであろう髪も、数筋が顔にかかっていた。まるで、野良仕事でもしてきたかのようだ。
これが、江東を席巻する「小覇王」の姿なのか? 不快感と、それ以上に理解できない戸惑いが大喬の胸に広がった。
「変わりないか。」
飾り気のない問いかけ。
彼は部屋の中を見回し、卓の上に置かれたままの、ほとんど手付かずの食事に気づく。
「ええ、ご覧の通り。生かしていただいているだけでも、感謝せねばならぬのでしょうね、征服者様には。」
皮肉たっぷりに返す。孫策は特に表情を変えず、大喬に歩み寄った。
間近で見ると、彼の腕や首筋にも泥が跳ねているのがわかる。
「それにしても…よくもそのような汚れたお姿で、婦女子の部屋に立ち入れたものですね。小覇王ともあろうお方が。私たちを、それほどまでに侮辱なさりたいのですか? それとも、それが貴方なりの戦勝の誇示で?」
言葉は、自分でも驚くほど辛辣になった。
この男の、掴みどころのない態度にいらついていたのかもしれない。
孫策は、彼女の燃えるような瞳をじっと見つめた。何か言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言わず、ふっと息をつくと、踵を返した。
「…何か不自由があれば、遠慮なく兵に申し伝えよ。」
それだけ言い残し、彼は部屋を出て行った。
残されたのは、困惑する大喬と、ただならぬ雰囲気に怯える小喬、そして部屋に微かに残る土の匂いだけだった。
この奇妙な訪問は、一度では終わらなかった。
三日に一度、あるいは五日に一度、孫策はふらりと現れた。
そして、そのたびに、彼は程度の差こそあれ、必ず泥や汗にまみれていた。時には、手に新しい傷を作っていることさえあった。
大喬の罵倒は続いた。
「本日はまた一段と泥まみれで。どちらの溝に落ちていらしたのです?」
「将たるもの、もう少し身なりに気を配られては? それでは兵の士気にも関わりますわ。」
「貴方様は、戦だけでなく、泥遊びもお好きなのですね。」
孫策は、ほとんど反論しなかった。
時折、面倒くさそうに「…口が多い女だ。」と呟いたり、あるいは、大喬の言葉とは全く関係なく「城壁の修復が思ったより進まん。」「民の食糧の手配を急がねば…。」などと、独り言のように呟くこともあった。
大喬は、その言葉を、自分の境遇を忘れさせるための偽善か、あるいは単なる自慢話としか受け取れなかった。
だが、彼の口から語られる復興の具体的な話や、時折見せる真剣な眼差しに、心の片隅で、ほんの僅かな疑問が芽生え始めていたのも事実だった。
なぜこの男は、こんなことをしているのだろう?
憎い敵であるはずなのに、その行動が理解できない。
その疑問が、彼女をさらに苛立たせた。