第1話、運命の琴の音
初めまして。まのゆいかです。初投稿作品です。
至らない点も多いかと思いますが、楽しんで読んでいただけましたら幸いです。
その日、孫策はやり場のない苛立ちを抱えていた。父・孫堅は江東の虎と称される猛将であり、息子にかける期待もまた大きい。
今日も今日とて、軍略のこと、処世のこと、目上の者への態度… 孫堅自身の豪放さとは裏腹に、孫策に対しては細やかな(そして少々口うるさい)指導が入る。
周囲の宿将たちも父に輪をかけて「若君はもっと慎重に」「血気にはやりなさるな」と諫言してくる。
「俺の武勇も、考えも、父上や皆にはまだ子供の戯れにしか見えんのか…!」
若さゆえの自信と、それを認められない焦燥感。息が詰まるような思いで彼は半ば衝動的に屋敷を飛び出した。
供も最小限に留め、目立たぬよう普段着に近い姿で馬を駆る。目指す先などない、ただこの鬱屈した気分を風に飛ばしてしまいたかった。
城下の喧騒を抜け、少し落ち着いた屋敷が立ち並ぶ一角に差し掛かった時、ふと、どこからか清らかな琴の音が聞こえてきた。
それは戦場の喧騒や屋敷での堅苦しい議論とは全く異質な、澄んだ音色だった。
争いも野心もそこにはない。ただただ美しい旋律が穏やかに流れている。
「…なんだ?」
苛立っていた心が不思議と凪いでいくのを感じる。彼は馬を降り、供の者を手で制して、音のする方へと足を向けた。
音はひときわ立派な門構えの屋敷から漏れ聞こえてくるようだ。高い塀に囲まれているが、ちょうど庭が見える位置に少し開いた門の隙間があった。
そっと覗き込むと手入れの行き届いた庭園が広がっていた。季節の花が咲き、小さな池には魚が泳いでいる。
そしてその庭の一角、木陰に置かれた席で、一人の少女が琴を奏でていた。
年はまだ十代半ばほどだろうか。淡い色の衣をまとい、黒く艶やかな髪を緩やかに結い上げている。
伏せられた長い睫毛、真剣な面持ちで弦を爪弾く白い指先。その姿はまるで絵画のように美しかった。
孫策は息を呑んだ。戦場で数多の生死を見、父や猛者たちの背中を見て育った彼にとって、それは初めて見る種類の「美」だった。
少女の奏でる琴の音はまだ少し拙い部分もあるのかもしれない。だが、一音一音に込められた純粋さ、ひたむきさが、彼の荒んだ心に深く染み入るようだった。
誰だろうか。この屋敷の娘か。何という名だろうか。
知りたい、という思いが湧き上がる。しかし、同時に、この静謐な空間を壊してはならない、という気持ちも強く感じた。
彼はしばらくの間、ただ黙ってその光景に見入っていた。少女が琴の練習に集中している間、彼女が彼に気づくことはない。
やがて、屋敷の中から別の女性の声が少女を呼ぶのが聞こえ、少女は琴を置くと少し名残惜しそうに庭を後にした。
孫策は、彼女の姿が見えなくなってもしばらくその場を動けなかった。先程までの苛立ちはどこかへ消え、代わりに胸を満たすのは、甘く切ないような、初めての感情だった。
名も知らぬ少女の姿と、琴の音色。それが強烈な印象となって、若き孫策の心に深く刻み込まれた。
「……行くぞ。」
彼は小さく呟くと、踵を返し、再び馬上の人となった。来た時とは違う、何か温かいものを胸に抱いて。