第九話
「松岡知ってるか? 上条可奈!」
俺が初めてその名前を知ったのは入学して僅か3日目の事だった。
「誰?」
「今話題になってるメチャクチャ可愛い子だよ! まあ、松岡には女の子は間に合ってるか!」
「まだ学校が始まって3日なのに、そんなに話題になるなんて凄く綺麗な子なんだろうね」
中学生の頃でもそんなのはよくある話だった。だけど、こんなに早く話題になるのは余程突出した容姿なのかもしれない。
「俺もさっき見に行ったけど3組の教室は人が凄かったな。でも、その意味が分かるほど可愛いかったよ。あれはもう芸術の域だ」
「それは見てみたいね」
そこまで言われると、クラスでもその話題が凄かったのもあって、どんな人なのか気になってくる。
さてと……。
休み時間になるとさっきの話が気になってしょうがなく、足が3組の教室へと向かっていた。幸い3組には知り合いがいる。特に用事はないけど教科書を忘れたふりをして借りに行こう。
「あ、松岡君久しぶりだね! 元気だった?」
3組の教室の前で、同じ中学だった女の子に声をかけられた。
「久しぶりだね山瀬さん。また同じ学校だね」
会話をしている中でも教室の中が気になってしまう。
あれが……。
一目見た瞬間言葉がでなかった……まるで今流行りのAIで作られた美女がそのまま飛び出して来たような容姿に、皆が騒いでいた意味がよく分かった。
おとなしそうな雰囲気の子で、周りには女子が集まっていて話を聞いている。時折見せる笑顔は自然に出たものじゃないような気がしたけど、それでも周りにため息をつかせるには充分な程に魅力的なものだった。
日に日に彼女の名は一年生だけに留まらず2年、3年へと広まっていった。4月もまだ終わってないのにもかかわらず、今やこの西宮高校で名前を知らない人はいない程、彼女は有名になっていた。
今では朝から校門で待ち伏せする人も少なくない。さっき偶然にも登校する彼女に出会した。
注目されるのに慣れていないのか、顔を伏せて歩いていた彼女は恥ずかしそうに早足で生徒の間を縫うように歩いてすぐに見えなくなってしまった。
「松岡君って上条さんと話した事ある?」
休み時間に女の子達に囲まれた俺はそんな事を訊かれた。
「話してないよ。どうして?」
「なんかこの前うちのクラスの男子達が上条さんと話したいって盛り上がってたから」
「そうなんだ。知らなかったよ」
「最近先輩達も上条さんの事を知って見に来てるんだって!」
「まあ、あんなに可愛いかったらほっとかないよねー」
「凄い人気だね」
実を言うと俺も学校を歩いていると無意識に彼女を探している時があった。まだ顔しか見てないのにも関わらず、すでに俺の中で彼女は気になる存在になっていた。
「それでね、上条さん蒲中にいたらしいんだけど誰も覚えてないんだって。それで同じ中学から来た人が卒アル見たら全くの別人だったって言ってたよ。メガネかけてて髪型も全然違うって!」
「じゃあ高校生デビューって感じかぁー」
「同じクラスに居たって子も話した記憶がないくらい存在感がなかったらしいよ」
それを聞いた瞬間俺の胸がチクッと痛む。
「だからかぁ、上条さんて少し暗いよね。あんまり話してる所見た事ないし」
「でもさぁ〜 あの笑顔が可愛い過ぎて女の私でもキュンキュンしちゃうよ〜」
「ほんと見惚れちゃうよね〜」
上条さんと話してみたい。段々と俺の中にそんな欲求が生まれていた。でも、クラスが違うしどうしようか悩む。そんな時、思いがけない事が起こった。生徒会の人から誘いが来たのだ。そして俺と上条さんを誘いたいって話を聞いた瞬間迷わず頷いていた。
これで上条さんと話す事ができる!
話す機会を得た俺は嬉しい気持ちを抑えて放課後に彼女に会いに行った。
ちょうど教室から出た彼女を発見すると、少し緊張しながらも呼び止める事にした。
「あの、上条さん……」
すると彼女のサラサラで綺麗な髪が揺れ、小さな顔が俺を向いた。
目が合うと心臓がドクンと鳴り出し、その優しそうな大きな瞳に吸い込まれそうになってしまう。
初めての感覚だった。中学生の頃から沢山の女子と話してきた。周りから見れば俺は女たらしに見えるだろう。そんな俺でも上条さんを前にしてなかなか次の言葉が出てこないくらい緊張していた。
「突然ごめん。僕、1組の松岡っていうんだ。宜しくね」
何とか心を落ち着かせ話をしていると彼女の事がもっと知りたくなっていた。今までそんな人に会った事がなかった。だから生徒会に入ってくれるって聞いた時は心から嬉しくて思わずらしくないほど大きな声を上げてしまった。
その後の生徒会室で隣に座る彼女の横顔が綺麗でつい何度も見てしまう。会議の話が頭に入らない程俺は浮き足立っているのが分かった。
そして帰りに公園に誘うことに成功し、ベンチに座ると何を話そうか考える。ふと、彼女に視線を移すとブランコで遊ぶ親子をじっと見ていた。
その表情は儚く見えた……何を考えているのか読めないその表情を写真にしたら芸術になるほど美しいだろう。
そのうち悲しげな表情に変わると無意識に彼女へ話しかけていた。
「上条さんて片親?」
すると彼女は驚いた表情で俺を見る。何で知ってるの? そんな顔だった。
彼女は学校で見せる笑顔とは裏腹に苦しんでいるように思えた……悲しみの原因は何なのか分からないけど、その悲しみを消してあげたいと心から思った。
だけど、俺はそんな事ができる男なのか……クラスメイトには偽りの自分を演じて心では本音を言う。そんな奴に人を救おうなんておこがましい……心の奥からそんな声が聞こえた気がした。
今までそれで生きてきた俺はそれでいいと思っていた。何でも協力してくれて頼りになる良い人。それが中学生の頃に作り上げた俺だ。
でも、彼女にそれで接したくない自分がいた。本音で向き合いたい、本当の俺を知ってほしい。だけど、彼女は受け入れてくれるだろうか……今の俺だからこうして生徒会に入ってくれたり公園にも来てくれたのかな……怖い、どうしたらいいか分からない。
今日は彼女をあの場所に誘う。俺が唯一心が休まる空間と心許せる奴らがいる場所だ。
彼女の声を早く聞きたい、あの優しい瞳を早く見たい。3組の教室に向かう足の速さが増していく。俺は彼女がどうしようもないくらい好きになっていた。