089 もう一通の手紙
馬車が御者の掛け声とともに停止すると、ゼーラーン家の門が静かに開けられた。コンラッドとエディシュは疲れを滲ませながら、互いに顔を見合わせた。
ふたりが馬車を降り屋敷に戻ると、応接室でヒューゴ叔父と母・オーレリアが談笑しながらお茶を飲んでいる。香っていたのは、先ほどバトーダ家でも出されたシトロネラの香りのするお茶だった。エディシュは思わず拳を握り締めた。
「いやあ、エディシュもとうとうお嫁入りか。あの小さかったエディシュがねぇ……」
ヒューゴは目頭を押さえ、感慨深げに微笑んだ。早くに父・ブルーノを亡くしたエディシュにとって、ヒューゴは何かと気にかけてくれる存在だった。
にこやかに朗報を待っていたヒューゴだったが、二人の浮かない表情を見て、すっと立ち上がった。テーブルに置かれたティーカップが、小さく震えて音を立てる。
「エディシュ……まさか、お前……」
「ごめんなさい、叔父様!」
エディシュは目をつぶり、叱責に備えた。せっかく探してくれた縁談とはわかっていたが、どうしても我慢ができなかった。
「コンラッド! お前がついていながら、どういうことだ!」
「叔父上、事情がありまして……」
「事情? どんな事情があれば、あの縁談が潰れるというのだ。エディシュの幸せを思えばこそ、セントフェルドの片田舎まで足を運んだというのに。だいたい義姉上が甘やかすから……」
その瞬間、オーレリアの表情が一変した。いつもは穏やかな彼女からは想像もできない鋭い眼差しが、ヒューゴに向けられた。
「ヒューゴ。私がいつ、子どもたちを甘やかしたと?」
「い、いや……」
ヒューゴの額に汗がにじんだ。よりによって、一番触れてはいけない部分に、触れてしまったのだと気がついたのだ。
「うちの子供たちは、侍女や侍従がいないと着替えもできない、そのへんの甘ったれとは違います」
本来、高い家柄の者なら、多くの使用人に囲まれて暮らすのが普通だ。しかしこの家では、たとえ戦場に一人取り残されても生き延びられるようにと、幼い頃から自立を教えてきた。
――それが、代々武門の家系であるゼーラーン家の伝統だった。
「私は、夫の死後、子どもたちがゼーラーンの名に恥じぬよう、文武両道の教育をしてきました。男も女も関係ありません。アルドリック陛下にお仕えするにふさわしい人間に育てるために」
オーレリアは、静かだが一切の反論を許さない声で語った。
「し、しかしこのままではエディシュが……」
「嫁に行かないなら、行かないで結構!」
その言葉に、エディシュは思わず目を見開いた。結婚しない人生なんて、考えたことすらなかったのだ。
「お母様、何もお嫁に行かないとは……」
「行きたいなら、自分でお相手を見つけなさい」
「え?」
エディシュは耳を疑った。
「あなたの好きになさい。他人を頼らず、自分の良さを受け入れてくれる相手を見つけなさい。世界は広いのです。必ず、あなたをきちんと認めてくれる人がいます」
「お母様……」
エディシュは混乱していた。まさか、自分で結婚相手を探せと言われるなんて――想像もしていなかった。
「さあ、ヒューゴ。あなたも、もうお帰りになって。縁談のことは、本人に任せますので」
オーレリアの気迫に押され、ヒューゴは逃げるように馬車へ乗り込んだ。彼が去るのを見送った後、オーレリアはそっと二人の手を取った。
「さあ、あなたたちも、お茶にしましょう」
「……お母様、あの、私……」
「なあに?」
「しばらく、シトロネラのお茶は飲みたくない」
「わかったわ。じゃあ、りんご草のお茶にしましょうね」
オーレリアは、りんご草のお茶を入れ、焼き菓子を摘んだが、二人には何も聞こうとしなかった。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴り、やがて執事が現れた。コンラッドに、フェルディナンド商会経由で手紙が届いているという。
配達人の男は、どうしても本人に直接渡したいとのことだった。応対に出たコンラッドが見たのは、つばの大きな帽子を深く被った黒ずくめの男だった。手紙を受け取ると、男は「確かに」とだけ言って、すぐに姿を消した。
顔を思い出そうとしても、コンラッドの記憶に残ったのは「ひょろりとした大柄な男」という印象だけだった。
手元の手紙を見ると差出人は――ディランだった。
コンラッドは急いで部屋に戻り、ナイフで封を切った。中には私信と別紙の報告書が入っていた。
報告書の内容は、ほとんどがドナルに関するものだった。城外の館で魔道符が製造されていたこと、それらがフォローゼルへ流されていたこと、仲介者の名、そしてドナルの目的――知りたかったことが、ほぼすべて記されていた。
報告書を読み終え、コンラッドは安堵の息をついた。無事にドナルの館を出られたのだ。今は、それだけで十分だった。
だが、私信を読み進めるうちに、その顔が曇っていった。
コンラッドは手紙を封筒に戻し、懐にしまうと、母に宮殿へ行くことを告げに向かった。
「お兄ちゃん、手紙は誰から?」
「ディランからだ。向こうでの役目は終わったんだけど、しばらく帰らないって」
「え? 何で?」
「詳しいことは、また知らせるって」
「ふーん」
エディシュはそっと懐に手を伸ばし、隙をついて手紙を奪い取った。
「こら、エディシュ。やめなさい! はしたない」
普段ならこんなことはしない彼女だったが、兄が何かを隠している気がしてならなかった。
手紙に目を通しながら、ある一文で目を留めた。
『顔合わせがうまくいかなくても、気にするな』
「……何これ……」
「エディシュ、返しなさい!」
読むそばから怒りが湧いてきた。
「“うまくいかなくても”って……! どういうつもり? 最初から失敗するって分かってたの? ていうか、そもそもあんたのせいでしょうが!」
エディシュの怒りは限界を越えた。手紙を床に叩きつけ、足で踏みつける。
「やめなさい! エディシュ、それは……」
慌てて駆け寄ったコンラッドが、ようやく手紙を拾い上げる。封筒には靴の跡がついていたが、中身は無事だった。
(……報告書も入っているのに)
呆れたように息をついた兄をよそに、エディシュはツンと横を向いた。




