088 顔合わせ
その日、エディシュは馬車に座る自分が自分でないような気がしていた。朝からただ流されるように、ドレスを着せられ、髪を結われ、化粧を施された。そして今は、馬車の座席で所在なさげに身を預けている。
「お兄ちゃん。無理して来なくてよかったのに。私一人で大丈夫よ」
馬車の向かい側には、礼服姿のコンラッドが座っている。普段よりもきちんとした身なりだが、その顔には疲れがにじんでいた。
「そういうわけにもいかないよ。ずいぶん待たせてしまったからね。今日くらいは、兄としての役目を果たさせてくれ」
コンラッドは先日、皇帝の補佐官ジーンのもとで武官に任命されたばかりだった。名目は武官でも、実際はほぼ書類と報告書の山を処理する助手のようなものだ。エル・カルド侵攻の報に加え、フォローゼルからの書簡がもたらされたことで、宮廷内は騒然としていた。
ただ、フォローゼルが一時撤退し、ウィラードの無事が確認されたことで、帝都にはわずかな安堵が広がっていた。バシリウス王子からの書簡には、短くこう記されていた。
『いつでも来られる』
それを見たアルドリックは、笑いながら書簡を机に放り投げた。
「やってくれるねぇ」
その一件以来、『中央』では議論が続いており、コンラッドはその渦中から抜け出して、エディシュの顔合わせに付き添うこととなった。こんな緊迫した時であっても、縁談は進められるのだ。
今回の顔合わせの相手は、サントフェルドの地方領主・バトーダ家の養子で、年齢はエディシュの一つ上だという。それ以外の情報は聞かなかった。
「これ以上の縁談はない」——叔父にそう言われたエディシュは、腹を括ってこの場に臨んでいた。
◇ ◇
バトーダ家に到着すると、ふくよかで上品な年配の女性——バトーダ夫人が自ら出迎えた。
「お待ちしておりましたのよ、ゼーラーンのお嬢様」
コンラッドは片膝をつき、挨拶と遅れたことへの詫びを述べた。バトーダ夫人はにこやかにそれを受け入れた。
「よろしいのよ、そのようなこと。お二人とも、陛下の信頼が厚いとお聞きしておりますもの」
その言葉に、コンラッドとエディシュはほっと胸をなで下ろす。これほど穏やかな人物なら、姑としてもうまくやっていけるかもしれない。
夫人に案内され、二人は長い廊下を歩く。その途中で、夫人はこう付け加えた。
「できれば建国祭までにお式を挙げたいですわね。あの時期は町が騒がしくなりますから」
夫人の少し険のある声音が気になったが、それよりも『建国祭』という言葉にエディシュは懐かしい記憶を呼び起こされた。
建国祭――賑やかな屋台、溢れ返る人々、窓から舞い降りる花吹雪、そして目玉の剣闘会。かつては、自分も出場したいと母を困らせたものだったが、辺境にいた間にすっかり忘れていた。
◇ ◇
そのまま二人が通されたのは、中庭に面した明るい応接室だった。花が飾られ、窓からは美しい庭の緑がのぞいている。その部屋の一角に、すでに養子の青年が座っていた。
一目見た感想は——「平凡」だった。だがエディシュはすぐに頭を振った。平凡で何が悪い。自分のような娘を受け入れてくれるなら、それだけで十分だ。
たしかに自分の好みの「おじさま」ではない。だが、そんなことを言っていたら、とうに適齢期を過ぎた自分はどうなる。この人を受け入れ、愛する。それが今の自分にできる務めなのだ。
エディシュが精一杯の笑顔を見せ、手を差し出すと、その息子は手を取り挨拶をした。
「ラルゴです」
「エディシュ・ゼーラーンです」
差し出した手を握った彼の手は、柔らかかった。剣を握ったことがない手だ。自分の方がよほど硬く、男のような手をしている。少し、気後れした。
シトロネラの香るお茶と焼き菓子が運ばれてくると、バトーダ夫人は途端に饒舌になり、ラルゴがどれほど優秀で温厚か、家がいかに裕福かを延々と語り始めた。
その間、ラルゴはほとんど喋らず、時折上目遣いにエディシュを見るだけだった。その視線に、エディシュは奇妙な既視感を覚えた。
(……この感じ、どこかで)
夫人の話が途切れる気配はなく、たまりかねてコンラッドが口を挟んだ。
「少し、ラルゴ君と話をしてもよろしいでしょうか?」
夫人はハッとして口を押さえた。
「まあ、私ったら。そうですわね、若い方同士でお話しなさいませ」
コンラッドはラルゴに向き直り、穏やかに問いかけた。
「ラルゴ君。私はエディシュの兄のコンラッド・ゼーラーンです。ご存知の通り、私たちは早くに父を亡くしました。貴家のお力にはあまりなれないかもしれませんが、それでも構いませんか?」
ラルゴはようやく口を開いた。
「もちろんです。私たちには広大な農地がございますし、セントフェルド王家との繋がりもあります。むしろ私たちが、ゼーラーン家をお支えできればと……」
やわらかく、理想的な返答だった。いい人だ。普通の人だ。何の問題もないはずだった。
だが――エディシュの胸に広がる違和感は、消えなかった。
「そういえば、君はエゼルウートで誰に師事してたんだい? 失礼だけど、見覚えがなくてね」
帝都エゼルウートには、十二歳になる帝国中の有力者の子弟が、学問や武芸を学ぶために集まる習慣があった。年齢が近ければ、見かけたことくらいはあるはずだった。
「あ、その……先生は……」
夫人の目つきが鋭くなる。ラルゴは口ごもり、バトーダ夫人が代わって答えた。
「この子は親の方針で、帝都ではなく地元で教育を受けましたの」
「そうでしたか。それは失礼しました」
だがラルゴの視線は、どこか落ち着きなく彷徨っていた。エディシュは、その感じに覚えがあった。
(どこかで……この人に、会ったことがある)
記憶を必死にたどる。
――そして思い出した。あの時の、あの男の子を。
エディシュは、すっくと立ち上がるとラルゴを指差した。
「お兄ちゃん。……こいつディランに手紙を渡そうとした奴だ」
「え?」
驚くコンラッドの横で、ラルゴの顔がみるみる赤くなる。
「あんた……子供の頃、ディランに手紙を渡してくれって、あたしにしつこく押し付けてきた、あの男の子よね」
エディシュに脳裡に、少女の頃の記憶が、まざまざと甦っていった。
いくら嫌だと断っても、手紙を渡してくれとしつこい男の子。ディランは男だと言っても、それでもいいとしつこい男の子。自分で渡せと言っても、嫌われるのが嫌だとしつこい男の子。あまりに腹が立ったので、その手紙を手に、その子の親にチクリに行ったあの日。いつの間にかいなくなっていた男の子。
エディシュの中で、封じたはずの怒りが込み上がってきた。
「何で? ……何で、あんたがここにいるの?」
「何でって……そりゃあ、あの時の女の子が結婚相手を探してるって聞いて……あの子もきれいだったなって……」
「きれい」という言葉が、これほど嬉しくないとは思わなかった。これほど虚しく響くとは――
エディシュはラルゴに詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。
「この縁談――断る!」
驚きの声を上げるラルゴの横で、バトーダ夫人の顔色が一変した。
「な、何ですって!? 断るですって? こちらが下手に出ていれば調子に乗って……! 行き遅れの娘をもらってやろうというのに!」
怒りをあらわにする夫人は、ラルゴに言い放った。
「ラルゴ! だからこの娘はやめろと言ったのよ。他の相手にしなさい! うちには嫁のなり手なんていくらでもいるんだから!」
「……は、はい」
ラルゴは逆らいもせず、うなだれた。エディシュとコンラッドは、黙ってその場を後にした。
◇ ◇
馬車での帰り道、コンラッドの疲労は一段と増して見えた。エディシュもまた、呆然と馬車に揺られていた。外の景色も目に入らず、ただ馬車の天井を眺めている。
「……お兄ちゃん。ごめん」
「いや、いいよ。あの人たちと親戚にならずに済んだと思えば……」
「叔父様に怒られる……」
「私が、叔父上の所へ謝りに行くから」
エディシュは、自分が謝る立場なのかとふと思った。だが世間的には、そうなのだろう。
それでも――胸の奥に、ほっとしている自分がいることに気がついた。




