084 隊商
チルケの町外れ。冷たさを残した春風が、空になった木桶をカラカラと転がしていた。馬のいななきが時折響く静かな一角に、その隊商宿は建っていた。赤褐色の煉瓦で積まれた三階建ての建物は、昼の日差しにあたたかく映え、町の中でもひときわ目を引く立派な造りだった。
ユーリが玄関の呼び鈴を鳴らすと、屈強な男が扉を開けた。どうやら顔馴染みのようで、すぐに中へと通された。
館は中庭式で、石畳の中央には旅の神の小さな祠が鎮座している。中庭の片隅には、幌をかけた荷馬車が十台ばかり並び、その脇では商人や従者たちが談笑していた。
そのざわめきの中を縫うように歩きながら、ユーリは一人の男に声をかけた。小太りで口ひげを蓄えた、いかにも商売人といった風貌の中年男だった。
「ドナートさん。この度は、ディルムラートへの同行を許可していただき、ありがとうございます。こちらのお二人は、我が商会主の客人です。くれぐれも、ご丁重に。……そしてこちらは、私どもフェルディナンド商会の見習い候補です。道中、勉強させていただければと」
中庭では、それまでの賑やかさが一瞬にして消え、エル・カルド人の若者と東国人の若い女性に、すべての視線が集まった。
貴族や名士が隊商に加わること自体は、さほど珍しくない。ただし、彼らは大抵、従者や荷物を大勢引き連れてくるものだ。しかし、今回の“客人”はたった二人。従者に見える少年ひとりを連れているだけである。
客人に慣れた彼らであっても、この二人には注目せざるを得なかった。中庭のあちこちから、ざわめきが聞こえてくる。
『エル・カルド人……』
『魔道……』
どこからともなく聞こえてくる声に、ユーシャスは不思議そうに辺りを見回した。ドナートはユーリにそっと耳打ちした。
「ユーリさん。エル・カルド人なんて大丈夫かい? 変な術とか使ったりしないだろうね」
するとユーリは、わざと大きな声で笑い飛ばした。
「ドナートさん、まさかエル・カルド人が魔道を使うなんて、本気で思ってるんじゃないでしょうね? この方だって、そんなもの使えるはずがありませんよ」
そして、ドナートの耳元でささやいた。
「あの方は、先ほど町で暴れていた連中を、たった一人で捕らえてくれましたよ」
ドナートは目を見開き、ディランを見た。宝石のような孔雀色の瞳に、雪のような白い肌。長い黒髪に彩られたその顔は、剣士というには美し過ぎた。
「い、いや。そうですか。それは……申し訳ない」
ドナートは卑屈な笑みを浮かべ、頭を下げた。
「私は彼女の護衛だ。ディルムラートまで世話になる」
「これはこれは、護衛の方が増えるとは心強い」
「私が守るのは彼女だけだ。隊商の守りはそちらでやってくれ」
突き放すような口ぶりに、ドナートは肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。そして、ユーシャスへと視線を移す。小柄な東国人の娘は、素直で御しやすそうに見えた。ドナートは、にやけた顔で、ユーシャスの顎に手をかけた。
「これはまた、かわいらしい。フェルディナンド商会の新しい売り子かな?」
「ドナートさん! その方は……」
ユーリが声を上げた瞬間、無機質な音とともにドナートは首筋に冷たい物を感じた。ディランの剣が、ドナートの首に当てられていた。
「その手を離せ」
静かだが有無を言わせぬ一言に、ドナートは慌てて手を引き、飛び退いた。
「ドナートさん。この方は、当商会の客人です」
「そうでした……これは、失礼を」
ドナートの態度は、“客人”に対する非礼というより、“東国人”を軽んじたものであった。
布地を売る商人の中には、東国から仕入れた絹を売るために、東国人を店先に立たせる者がいる。そういった東国人の大半は、言葉をまともに話すこともなく、素性もはっきりしない者たちである。布地を扱うドナートにとって、“東国人”というのはそういう人々であった。
ユーシャスは、ドナートの顔を見て笑みを浮かべた。ドナートの行動の意味を理解しているのかいないのか、それはあいまいな笑顔であった。
「ディルムラートまで、お世話になります。わからないことばかりですので、いろいろ教えていただけると助かります」
ドナートは、ユーシャスが機嫌を損ねた様子のないことに安堵し、彼女の話す共通語に驚いた。
「いや、これは見事な共通語ですな」
事実、その発音は美しく、言葉遣いにも品があった。
「私ども以外に、今回こちらの商人たちが、一緒に隊商を組みます。こちらがイラーリオ商会、こちらがウリッセ商会」
ドナートの紹介で、それぞれの商人が挨拶をした。どちらも、極力関わり合いにならないよう努めているように見えた。
紹介が終わると、ユーリは中庭に用意した馬車へと案内した。四角い木箱を荷台に載せたような馬車は、中に椅子代わりの木の板が左右に据えられており、馬車の前後と窓には革製の帳がかけられている簡素なものであった。
豪華な馬車を避けたのは、盗賊から目をつけられないようにとの配慮であった。その横には、身体の大きな男が一人立っている。ユーリは男の肩に手を置き、振り向かせた。
「サムエルです。フェルディナンド商会の御者です。話すことはできませんが、こちらの言うことはちゃんとわかっています。お二人の荷物は、すでにサムエルが部屋へ運んでいます」
サムエルは、波打った黒髪を丸く後ろでまとめ、日に焼けた優しい笑顔を見せた。身体は大きく立派だが、武器は帯びていなかった。
商人にとって、口が利けない者は重宝される。秘密が漏れないという意味で、彼ら以上の存在はいない。
サムエルはマルコを見ると、ぽんぽんと頭を軽く叩いた。マルコは、子供扱いされたのが気に入らないのか、少し口をとがらせた。
その後、ユーリは泊まる部屋へと案内した。今日は、この隊商宿に泊まり、明日の朝に発つとのことである。
部屋は三階で、中には立派な暖炉や文机、天蓋のついた寝台と使用人用の寝台があり、続き部屋には洗面や木の風呂桶もあった。隊商宿の中でも、裕福な商人や貴賓が泊まるための部屋である。マルコはきょろきょろと部屋中を見て回った。
「すごい部屋ですね。僕が辺境に来た時は大部屋でしたよ。サムエルさんは、どこに泊まるんですか?」
マルコは、箱のような使用人用の寝台を見つけ、飛び乗った。
「サムエルは、他の使用人たちと一緒の二階の大部屋です。お前は、ちゃんとお二人のお世話をするんですよ。そのために、一緒の部屋にいるんですからね」
「はい、ユーリさん」
ユーリは、そっとマルコの耳元に手を当て、ささやいた。
「いいですか、お二人の寝台は必ず距離を開けて、衝立を置きなさい。何ならお前の寝台を間に置きなさい。それから、洗濯は必ず女中に頼むのですよ。それから……」
ユーリは、娘を持つ父親として、マルコに覚え切れないほどの注意を授けた。
その後、隊商宿について一通りの説明をすると、ユーリは、その日のうちにクラーリク村へと帰って行った。
翌朝、春の風に乗るように、隊商はディルムラートへと旅立った。




