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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十三章 侵攻の爪痕
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082 老女の記憶

 シルヴァとウィラードが城内に戻り、第五聖家の邸宅へ向かっていたときだった。扉を叩こうと手を上げると、中から女の叫び声が響いた。


「どうして……どうして私ばかり、こんな目にあうの! 返して……あの子を返して!」


 ミアータ夫人の声だった。


 シルヴァは扉を叩く手を止めた。やがて誰かが中から出てくる気配がして、二人はとっさに植え込みの陰に身を隠した。


 顔を覆いながら走り去るミアータ夫人の姿が見えなくなったところで、シルヴァはようやく扉を叩いた。応じたのは灰色の服を着た中年の女中だった。二人の顔を見た彼女は驚き、すぐに奥へ引っ込むと、間もなく案内に戻ってきた。


 屋敷の中は、乾いた草花の香りに満ちていた。天井からは束ねられた薬草が所狭しと吊り下げられ、部屋の中央ではグレインネが頬杖をついて座っていた。


 彼女はいつものような活気を見せず、どこか疲れた顔をしていた。シルヴァとウィラードの姿に気づくと、立ち上がって椅子を勧める。


「さっきのは……ミアータ夫人か? 何があったんだ?」


 シルヴァの問いに、グレインネは小さく首を振り、目を閉じた。


「あんたたちが知ることじゃない。若い人は、知らなくていいことだ」


 そう言うと、ふいと背を向けた。グレインネがこうなると、もう何も話さない。きっと、アルトのことに関係しているのだろう。シルヴァはそれ以上聞かなかった。


 やがて、グレインネは奥から飲み物を運んできた。シルヴァには温かい葡萄酒、ウィラードには柑橘と蜂蜜を溶かした湯を。


「婆ちゃんに会いに来たんだが……調子はどうだ?」


「相変わらずさ。もう孫娘が誰かわからなくなってる。でも、あんたのことは気に入ってたから、覚えてるかもしれないよ。会ってくかい?」


 シルヴァがウィラードを見やると、ウィラードは静かに頷いた。


「変なこと口走るかもしれないけど……そのへんは、勘弁しておくれよ」


 グレインネは二人を廊下へ導き、奥の部屋へと案内した。春の陽光がガラス窓を通して、柔らかく床を照らしている。


 寝台の上に、ひとりの老女が横たわっていた。第五聖家の〈アレスル(選ばれし者)〉、ファーラ。


 夜着のまま、白髪は乱れ、天井をぼんやりと見つめている。枕元には抜け落ちた髪が絡まり、寝具には古びた布のように皮膚の剥落が散っていた。昔を知る者には、あまりに痛々しい姿だった。


 かつてファーラは、流行病の拡大時には自ら先頭に立ち、救護の指揮を執った〈アレスル〉だった。その姿は今、ここにはなかった。


 日によっては意識がはっきりし、グレインネに指示を出すこともあるという。だがほとんどの時間、彼女は無言のまま、様々な時の狭間を漂っていた。


 部屋に漂う薬草と匂い消しの花の香りが、アルトの寝室と重なり、ウィラードの胸に重くのしかかった。


 ファーラが視線をこちらに向ける。そして、シルヴァを見て、首をかしげた。


「……おや、アッシュ。どうしたんだい。さっき、ミアータの声が聞こえたよ」


 シルヴァは眉を寄せる。


「婆ちゃん。俺の爺さんなら、とっくに死んだよ。看取ったのは婆ちゃんだったろ? 俺はシルヴァだ」


 アッシュ。それは、第六聖家の前〈アレスル〉、シルヴァの祖父の名だった。彼もまた、流行病で亡くなっている。


 ファーラは、首をかしげたまま続けた。


「シルヴァ? あの子なら、木にくくりつけられてるさ。誰かの膝から離れたがらなかったって。バカな子だね。……興味を持つと見境がないんだから」


 困惑するシルヴァを見て、グレインネが小声で囁いた。


「昔のことは、よく覚えてるんだけどね。最近のことは、ほとんど抜け落ちてる」


 シルヴァは、ゆっくりとうつむいた。これでも、彼女は今なお第五聖家の〈アレスル(選ばれし者)〉であり続けている。


 どれほど老いても、どれほど判断が曖昧になっても、〈アレスル〉は終生その地位にある。代理がどれほど働こうと、それはあくまで“代理”でしかない。


 その不文の掟は、シルヴァ自身にも、ドナルにも、等しく課せられている。〈アレスル〉の座を奪うものは――ただ、死だけであった。


 シルヴァはファーラの枕元に近づくと、顔を寄せて目を合わせた。


「婆ちゃん。ひとつ、教えてくれ。……聖剣が、抜けたり抜けなかったりすることって、あるのか?」


 ファーラは、興味なさげに顔を背け、答えた。


「なんだい、それは? そんなことあるわけないだろ。剣が抜ければ〈アレスル〉、抜けなければ違う。それだけさ」


 言い終えてから、またふと顔を戻した。


「……ねえ、ミアータは何を言ってたんだい?」


「母さん、その話は後に――」


「『あの子を返して』って、叫んでたぜ」


 シルヴァの言葉に、グレインネが鋭く顔を上げた。ファーラは気にも留めず口を開いた。


「……ミアータは、まだそんなことを言ってるのかい」


 ファーラは表情も変えずに言葉を継いだ。


「あの子は、自分で選んだんだよ。どちらを残すか、自分で……」


 沈黙が落ちた。シルヴァもウィラードも、言葉の意味を測りかねていた。


「結果が思い通りにならなかったからって、他人を責めるのは、お門違いってもんさ」


「婆ちゃん……それって、アルトのことか?」


「やめな、母さん。シルヴァ、もう帰っておくれ」


 グレインネが止めようとするも、ファーラは続けた。


「七聖家の女なら、わかっているはずだ。ずっと、私たちはそうしてきたんだから」


「母さん、お願いだから黙って!」


 グレインネは慌てて二人の背中を押し、廊下へと出した。


「今日聞いたことは、全部忘れておくれ」


 その言葉と共に、扉が閉じられた。


 二人は、まるで追い出されるように邸宅を後にした。


「……何だったんだ、あれは……」


 シルヴァがぽつりと呟いた。


 自宅に戻ると、年配の使用人がマイソール卿からの伝言を携えてやって来た。


「旦那様は、第一聖家へ向かわれました。ウィラード殿下には、しばらくこちらでお過ごしくださいとのことです」


「わかったよ」


 シルヴァはウィラードを振り返る。


「ミアータ夫人のあの様子じゃ、仕方ない。せめて、クラウスが戻るまで、うちにいたらどうだ?」


「……ありがとう。そうするよ」


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