072 辺境の村
早朝、辺境の村クラーリクのはずれにある一軒家の呼び鈴が鳴らされた。まだ二階の寝床にあった少年は、ぶつぶつ言いながら起き出し、服を着ると階段を下りた。
こんな時間に来る客人など、ロクな客でないことは、十一年という短い人生経験ながら、わかったつもりでいた。嫌々ドアを開けると、そこには見覚えのある美しい青年が、不機嫌そうな表情で立っていた。
孔雀色の瞳、白い肌、乱れた長い黒髪、そして血まみれのマント。朝靄の中に立つその姿は、知らない人が見たら、地獄から蘇った亡霊のように思うかもしれない。
嫌な予感は当たった。このまま扉を閉めてしまいたかったが、そんなことをすれば怒られるのが目に見えていたので、少年は我慢した。
「うわ! ディラン様、血まみれじゃないですか!」
「マルコ、声が大きい。追われている。ユーリはいるか?」
「はい、ただいま!」
マルコは急いで主人の部屋に飛び込んだ。主人も身支度を終えたところのようであった。
「ユーリさん、大変です。ディラン様が血まみれです。追われています」
慌てて「マントが……」と、言い直そうとしたが、すでに主人は階段を転びそうになりながら、駆け下りていた。ユーリが外へ飛び出すと、ディランが『フェルディナンド商会 出張所』と書かれた立て看板に繋がれた馬から、誰かを降ろそうとしているのが見えた。
「うわ! 東国人だ! 女の子だ!」
「これ、マルコ! 失礼ですよ」
ユーリはディランに近づき、謝罪した。
「申し訳ありません。ディラン様、お怪我は?」
「怪我はない。それより、中へ入れてくれ」
ディランは、羊の毛皮にくるまれた東国人の娘を片腕に抱え、家に入ると板張りの玄関にそっと降ろした。その様子に、ユーリも目を見張った。
(おやおや。珍しい)
マルコに注意をしたものの、ユーリもまた驚きを隠せなかった。この人が女性を連れている事も、その女性が東国人である事も。
「マルコ。馬を裏に連れて行っておくれ」
「わかりました。ユーリさん」
マルコが裏にある馬屋へ馬を連れて行くのを見届けると、ユーリは玄関に『本日休業』の札を掛けて家に入った。部屋の奥のかまどに火を入れると、東国人の娘にその前に置かれた椅子を勧めた。
ユーシャスは疲れた様子で椅子に座り、すぐにウトウトし始めた。ユーリはテーブルの椅子をディランに勧め、小さな声で尋ねた。
「もしかして、お一人ですか? お供の方もなしで? あの吟遊詩人の少年は、ご一緒じゃないのですか?」
「トーマなら、コンラッドたちと一緒に帝都へ行かせた」
「そうですか。追われていらっしゃるのは、あのお嬢様で?」
「ああ。今のところ、追ってきている感じはないが」
「誰に追われていらっしゃるので?」
「わからんが、まともな連中でないのは確かだな」
あの連中がまた追ってくるかと思い、一晩中剣を握りしめていたが、その気配すら無かった。一度に仲間を失い、追うのを諦めたか。
「いろいろ事情がおありのようで。とりあえず、朝食にいたしましょうか」
ユーリが鍋を火にかけていると、マルコが家に戻ってきた。
「馬に水と餌をやってきました。ディラン様、鞍と鐙が見当たりませんでしたけど、どこかに落としてきたんですか?」
「あんな物、どうやって落とすんだ。二人で乗るのに置いてきた」
マルコは、まじまじとディランを見つめた。鞍も鐙もなしで馬に乗るなど、文明人のすることとは思えない。
「ユーリさん。今日はお店はお休みですか?」
ユーリはうなずき、マルコに使いを頼んだ。
「ゾーラ婆さんに、今日は下働きに来なくていいって伝えておくれ。それから、パンを買ってきてくれないか? いつも通り、二人分を三日分でいい」
今日は、三日に一度の村でパンが焼かれる日であった。村ではその日に皆、三日分のパンを買うのだった。
マルコはガックリと肩を落とし、背負い袋を手に出て行った。下働きの婆さんを断るということは、今日は自分がその分働かなければならないと悟ったのだった。やはり、非常識な時間の客人は、ロクでもない客だった。
ユーリはそそくさと朝食の準備を始めた。鍋の上でスープの具材を切ろうとしていると、ディランが後ろに立った。
「ユーリ。エル・カルドの状況は、どうなっている。何か知らせは来ているか?」
「はい。昨日、使いの者が参りまして、フォローゼルは昨日の朝、エル・カルドを出立したと聞きました」
「ローダインの援軍が来る前に出たか」
という事はやはり少規模での進軍に違いない。元より、エル・カルドの占拠が目的ではないのだろう。
「何かを運び出したようですが、詳しいことはまだ分かりません。エル・カルドに大きな被害はなかったようですが」
ディランは眉をひそめた。何かを渡すだけならば、ドナルの城外の館で渡せばいい。それをわざわざ人目のある場所で運び出したということは、どういうことだろうか……。とはいえ、自分のできる事はここまでだ。後は、コンラッドに任せるしかないだろう。
「後で手紙を頼みたい」
「承知しました。エゼルウートですか?」
ユーリは、鍋の上で具材を切りながら話を続けた。今日、一日分のスープを作るのだ。
「ああ、一通は帝都のコンラッド宛、もう一通はエル・カルドのマイソール卿宛だ」
「かしこまりました」
「それから、もう一つ。あの娘を手元に置きたい。何か方法はないか?」
「どういうことでしょうか?」
「あの娘は、この間までフォローゼルにいた」
「……まさか、例の……」
フォローゼルの第一王子が、東国人の女性を側に置いていたことは、ユーリの耳にも届いていた。商人たちの情報は、国の放った間諜よりも正確で早いこともしばしばあった。有力者たちが、商人との繋がりを重視する所以である。また間諜自体も、商人の協力により潜入することはよくあった。
「あのようなお嬢さんが……」
「本人は、ただの使節団の一員で、ラサリット人が珍しいから連れ回されただけだと言っていたが」
ユーリは思わず、鍋に野菜を落としそうになった。
「ラサリット! それはまた……」
「ラサリットを知っているのか?」
「そりゃあ! 商人の間では『ラサリットの悪船』は有名ですから」
「『ラサリットの悪船』?」
「ええ、ラサリットから大陸へ向かう船は、二回に一回は沈むそうで。もちろん、海流の関係で操船が難しいのと、荒れやすい海域のせいもあるのでしょうが、そもそも彼らの船が遠洋に向いていないようです」
ユーリは話を続けた。
「ラサリットには珍しい物があると言って、時々商売を目論む者もいるのですが……」
「商売?」
「はい。しかし、行って帰ってきた者はいないと言われるくらい謎の国でして。あのお嬢さん、言葉は理解されていますか?」
「私が話をする限り、共通語に支障は無い。私の母より、よほど流暢だ」
ユーリは驚いてディランの顔を見た。この人が自分の母親の話を口にするなど、今まで聞いたこともなかった。
「ラサリットは、東の大国の影響を強く受けているそうです。ただ、その大国もなかなか興亡が激しいようで……。ラサリットとしては新たな交流関係を探っているのかもしれませんね」
ユーリはくつくつと泡立つ鍋を見つめ、塩を一匙加えた。
「――そうなると、私どもにとっても商売のいい機会になります。あのお嬢さんの身元もお引き受けできると思いますよ」
「そうか、なら――」
「ただし、追手までは私どものような商人では、如何ともし難いのです。エゼルウートにお連れするというのは、どうでしょう?」
もちろん、それは真っ先に考えた。このまま彼女をエゼルウートへ連れて行けば、ジーンがうまく話を聞き出すだろう。だが、彼女がどれほど大陸の政治に通じているかは分からない。いきなりフォローゼルと敵対している場所に連れて来られたと知れば、不審に思うかもしれない。
それに、エゼルウートへ連れて行くことには、他の懸念もあった。彼女はバシリウス王子の側にいた。連れていけば、どんな騒ぎになるかは想像がついた。
「……やはり、フェルディナンド商会に頼みたい」
「では、その追手を何とかして下さい。私どもがあのお嬢さんをお引き受けするのは、それからです。それに、東国との取引きともなれば、商会主の判断も必要です。あのお嬢さんを連れて、ちょっとディルムラートまで行ってきていただけませんか?」
「ディルムラート? 私がか?」
ディルムラートは、大陸の南端にある商業自治州の港町である。古くから数多の商人が拠点を置いてきた。ただし、この辺境からは、〝ちょっと〟とというような距離ではない。大きな山を越える必要もある。
「追手とやらの相手を、他の誰がするというのです? 私どもでは無理ですよ」
ユーリは一口味見をすると、満足そうに鍋を降ろした。
「それに、たまには商会主に顔を見せてやってくださいよ。帝都では、一緒に机を並べた仲なのでしょう?」
”商会主”といわれて、ディランの顔が曇った。
「あいつと机を並べた記憶はないな。あいつの取り巻き連中を殴り倒したことはあるが……。わかった。追手はディルムラートへ着くまでに何とかする」
『お前たち二人は〈聖剣の儀〉が終わったらアルドリック陛下の所へ来るようにと、直々のお達しだ』
一瞬、ゼーラーン将軍の言葉が脳裏を過ぎったが、元より予定は狂っている。何よりアルドリックの用事というのは、たいていロクでもないものであった。
ディランは羊皮紙の張られた窓辺に寄り、文机に向かって手紙を書き始めた。それを見て、ユーリはほっと息をついた。ディランが手紙を書いている間、ユーリは朝食の支度を続けた。
スープの温かい匂いと燻製肉の油の音が部屋に満ちた。
塩漬け肉と野菜のスープ、燻製肉と目玉焼き、酢漬けの野菜、そして最後に蜂蜜漬けの木の実。それぞれを四人分の器に盛り付ける。料理がテーブルに並ぶ頃、マルコが背中にパンを担いで戻ってきた。焼きたてのパンを一人分ずつ皿に乗せ、テーブルへと置いていった。




