070 襲撃者
森の奥へ進むほど、空気が変わっていく。
湿った土と古い樹皮の匂いが濃くなり、音が少しずつ遠のいていった。
やがて、馬車が通れるほどの広い道に出る。
――使節団が通るなら、きっとここだ。
だが、ディランには理解できなかった。
なぜ彼らは、わざわざ森を抜けるなどという危険を選んだのか。少し北へ行けば、整備された街道があるというのに。
東へ進むにつれ、風の匂いが変わった。
雨上がりの湿った空気に、研ぎたての刃のような鉄の匂いが混じる。
……戦場の残り香。
ディランは手綱を引き、息を詰めた。
ふたりは馬を降り、ディランはユーシャスに目で合図する。
「様子を見てくる。ここを動かないでくれ」
ユーシャスはこくりと頷き、天鵞絨のように柔らかな馬の鼻面を撫でた。
恐れている様子はない。むしろ、その温もりに心を落ち着けているようだった。
ディランは森道を慎重に進んだ。
茂みの奥、半ば泥に沈んだ馬車がいくつも見える。
足を踏み出すたび、濡れた落ち葉が低く鳴った。
風は止まり、木々は息を潜めている。
まるで森そのものが、何かを隠しているようだった。
その静けさの重みに、ディランの呼吸が浅くなる。
やがて、湿った木々の間から腐臭が立ちのぼった。
形容しがたい匂いが、喉の奥を刺す。ディランは思わず鼻と口を覆った。
息を止めても、腐臭は肌の下まで入り込んでくるようだった。
壊れた馬車のそばには、東国人の死体がいくつも転がっていた。
ほとんどは一太刀で仕留められている。だが、一人だけ――全身に傷を負い、刃こぼれした剣を握ったまま息絶えていた。
……一人で抗ったのだろう。
だが、敵の死体はない。
馬車の荷台には高価な品が残されていた。
盗賊ではない。
ディランは踵を返し、足早にユーシャスのもとへ戻った。
「使節団は何人いた?」
「私を除いて八人です。他にフォローゼルで雇った案内人が一人、護衛が四人、御者が四人です」
ディランは目を伏せ、首を振る。
死体は八。すべて東国人。案内人も護衛も、あるいは襲撃者の一味だったのかもしれない。
ユーシャスは手綱を放し、駆け出そうとした。
その肩を、ディランが反射的に掴む。
「見ない方がいい。このまま行く」
低い声に、ユーシャスは息を呑む。
だが次の瞬間、彼女はその手を振りほどき、草地にマントを落として駆け出した。
「ごめんなさい!」
虚を突かれた。
剣を握ったこともなさそうな娘に出し抜かれるとは。
ディランは舌打ちし、馬を木に繋いで追う。
茂みにたどり着いたユーシャスは、呆然と立ち尽くしていた。
泣き叫ぶでもなく、ただ静かに死者たちのそばへひざまずく。
一人ひとりに言葉をかけ、目を閉じていく。
ディランにとってはただの死体でも、彼女にとっては仲間だった。
年老いた武人の亡骸の手を取ると、ユーシャスは何かを語りかけた。
その響きは柔らかく、しかし意味はわからない。
東国の言葉は、共通語とはまるで異なる音の体系を持っている。
やがて彼女は立ち上がり、両手を交差させた。
唇が震える。
けれど、祈りは止まらなかった。
口元から不思議な言葉が流れ出す。
手を広げ、ぱんと音を立てて打つと――風が吹き抜けた。
血の匂いが一瞬にして消え、森の空気が澄んでいく。
場そのものが清められたように感じ、ディランは目を細めた。
……静かすぎた。
鳥の声も、虫の羽音もない。
森が怯えている。
そんな錯覚が、ディランの背筋を撫でた。
ユーシャスが振り返り、深く頭を下げる。
「仲間を見つけてくださって、ありがとうございました」
「せっかくの儀式を、台無しにするようだが……」
ディランの指が剣の柄へ滑る。
空気がこわばる。
森が息を止めた。
「しゃがめ!」
閃光のように剣が走った。
ユーシャスの頭上をかすめ、背後の男が悲鳴を上げて崩れ落ちる。
影が横切る。さらにもう一人が飛び込んできた。
「その娘だ!」
声が森に響いた。
ディランは斬撃で迎え撃つが、相手は身を翻してかわす。剣士ではない。鼻をつく薬品の臭い――。
男が投げた小刀をディランが弾くと、そいつは再びユーシャスへ飛びかかった。
剣の柄を背に叩き込み、膝裏に刃を突き立てる。悲鳴が上がる。
「ディラン!」
振り返ると、別の男が白い布を持って迫っていた。
嗅ぎ薬か――。
ディランは一閃し、布ごと男の手を斬り裂いた。赤く染まった布が、指とともに落ちる。
それでも男は怯まず、左手の短刀を構えた。
だが、もう限界だった。
ディランは一瞬で間を詰め、胸を貫く。
血の匂いが再び森を満たした。
――あと一人。
一瞬、森が静まった。
ディランは息を吐き、刃を払う。
そのとき、逃げようとした男の喉に小刀が突き刺さる。
どこから放たれたのか、見えなかった。
湿った風が、血の匂いを押し流していく。
木々がざわめきを取り戻し、遠くで鳥の羽音がかすかに響いた。
ディランは剣を収め、ユーシャスの腕をつかむ。
「行くぞ」
ふたりは走り出した。敵の数は不明。このままでは不利だ。
馬のもとへ戻り、手綱を掴んで飛び乗る。
ユーシャスを引き上げると、森を全速で駆け抜けた。
――あの男たちは、彼女を“攫う”つもりだった。
殺す気はない。つまり、彼女の国の追手ではない。
フォローゼル……やはり、あの国の誰か。
やがて馬が疲れを見せ、ディランは手綱を引いた。
追手の気配はない。
森の奥では、まだ何かが軋むような音を立てていた。
風が遅れて吹き抜け、枝葉を揺らす。
その音を聞いた瞬間、ディランはようやく、自分が息を詰めていたことに気づいた。
胸の奥で、遅れて鼓動が打ち鳴らされる。
ユーシャスは青ざめ、四つん這いのまま肩を震わせていた。
馬の耳がピンと立つ。
森はまだざわめいている。
日が傾き、木々の影が長く伸びていた。
このままでは歩くのも難しい。だが夜を迎える前に、隠れ場所を見つけねばならない。
ディランは長剣を外し、鞘の革紐を締め直す。
血に染まったマントを馬に掛け、黒髪を前に払って背を向けた。
「急ぐから、おぶさってくれ」
ユーシャスは驚き、首を振る。
「いえ、自分で歩けますから」
「それだと遅くなる」
ディランは半ば強引に彼女を背負い、鞘を腰にあてがって支えた。
首に回された手を押さえ、無言で歩き出す。
ユーシャスはしばらく身を固くしていたが、やがて静かに身を預けた。
自分の足では、この速さで進めないと悟ったのだ。
森の景色が流れていく。
頬が、汗に濡れたうなじに触れる。
どこへ向かっているのか、もうわからない。
けれど――
彼女はただ、その背に身を委ねた。
森の奥で、風がもう一度、彼らの後を追った。




