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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十一章 仲間を探して
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070 襲撃者

 森の奥へ進むほど、空気が変わっていく。

 湿った土と古い樹皮の匂いが濃くなり、音が少しずつ遠のいていった。


 やがて、馬車が通れるほどの広い道に出る。

 ――使節団が通るなら、きっとここだ。


 だが、ディランには理解できなかった。

 なぜ彼らは、わざわざ森を抜けるなどという危険を選んだのか。少し北へ行けば、整備された街道があるというのに。


 東へ進むにつれ、風の匂いが変わった。

 雨上がりの湿った空気に、研ぎたての刃のような鉄の匂いが混じる。


 ……戦場の残り香。

 ディランは手綱を引き、息を詰めた。


 ふたりは馬を降り、ディランはユーシャスに目で合図する。


「様子を見てくる。ここを動かないでくれ」


 ユーシャスはこくりと頷き、天鵞絨(ビロード)のように柔らかな馬の鼻面を撫でた。

 恐れている様子はない。むしろ、その温もりに心を落ち着けているようだった。


 ディランは森道を慎重に進んだ。

 茂みの奥、半ば泥に沈んだ馬車がいくつも見える。


 足を踏み出すたび、濡れた落ち葉が低く鳴った。

 風は止まり、木々は息を潜めている。


 まるで森そのものが、何かを隠しているようだった。

 その静けさの重みに、ディランの呼吸が浅くなる。


 やがて、湿った木々の間から腐臭が立ちのぼった。

 形容しがたい匂いが、喉の奥を刺す。ディランは思わず鼻と口を覆った。

 息を止めても、腐臭は肌の下まで入り込んでくるようだった。


 壊れた馬車のそばには、東国人の死体がいくつも転がっていた。

 ほとんどは一太刀で仕留められている。だが、一人だけ――全身に傷を負い、刃こぼれした剣を握ったまま息絶えていた。


 ……一人で抗ったのだろう。

 だが、敵の死体はない。


 馬車の荷台には高価な品が残されていた。

 盗賊ではない。


 ディランは踵を返し、足早にユーシャスのもとへ戻った。


「使節団は何人いた?」


「私を除いて八人です。他にフォローゼルで雇った案内人が一人、護衛が四人、御者が四人です」


 ディランは目を伏せ、首を振る。

 死体は八。すべて東国人。案内人も護衛も、あるいは襲撃者の一味だったのかもしれない。


 ユーシャスは手綱を放し、駆け出そうとした。

 その肩を、ディランが反射的に掴む。


「見ない方がいい。このまま行く」


 低い声に、ユーシャスは息を呑む。

 だが次の瞬間、彼女はその手を振りほどき、草地にマントを落として駆け出した。


「ごめんなさい!」


 虚を突かれた。

 剣を握ったこともなさそうな娘に出し抜かれるとは。

 ディランは舌打ちし、馬を木に繋いで追う。


 茂みにたどり着いたユーシャスは、呆然と立ち尽くしていた。

 泣き叫ぶでもなく、ただ静かに死者たちのそばへひざまずく。

 一人ひとりに言葉をかけ、目を閉じていく。


 ディランにとってはただの死体でも、彼女にとっては仲間だった。


 年老いた武人の亡骸の手を取ると、ユーシャスは何かを語りかけた。

 その響きは柔らかく、しかし意味はわからない。

 東国の言葉は、共通語(コムナ・リンガ)とはまるで異なる音の体系を持っている。


 やがて彼女は立ち上がり、両手を交差させた。

 唇が震える。

 けれど、祈りは止まらなかった。

 口元から不思議な言葉が流れ出す。

 手を広げ、ぱんと音を立てて打つと――風が吹き抜けた。


 血の匂いが一瞬にして消え、森の空気が澄んでいく。

 場そのものが清められたように感じ、ディランは目を細めた。


 ……静かすぎた。

 鳥の声も、虫の羽音もない。


 森が怯えている。

 そんな錯覚が、ディランの背筋を撫でた。


 ユーシャスが振り返り、深く頭を下げる。


「仲間を見つけてくださって、ありがとうございました」


「せっかくの儀式を、台無しにするようだが……」


 ディランの指が剣の(つか)へ滑る。

 空気がこわばる。

 森が息を止めた。


「しゃがめ!」


 閃光のように剣が走った。

 ユーシャスの頭上をかすめ、背後の男が悲鳴を上げて崩れ落ちる。


 影が横切る。さらにもう一人が飛び込んできた。


「その娘だ!」


 声が森に響いた。

 ディランは斬撃で迎え撃つが、相手は身を翻してかわす。剣士ではない。鼻をつく薬品の臭い――。


 男が投げた小刀をディランが弾くと、そいつは再びユーシャスへ飛びかかった。

 剣の(つか)を背に叩き込み、膝裏に刃を突き立てる。悲鳴が上がる。


「ディラン!」


 振り返ると、別の男が白い布を持って迫っていた。

 嗅ぎ薬か――。


 ディランは一閃し、布ごと男の手を斬り裂いた。赤く染まった布が、指とともに落ちる。


 それでも男は怯まず、左手の短刀を構えた。

 だが、もう限界だった。

 ディランは一瞬で間を詰め、胸を貫く。


 血の匂いが再び森を満たした。


 ――あと一人。


 一瞬、森が静まった。

 ディランは息を吐き、刃を払う。


 そのとき、逃げようとした男の喉に小刀が突き刺さる。

 どこから放たれたのか、見えなかった。


 湿った風が、血の匂いを押し流していく。

 木々がざわめきを取り戻し、遠くで鳥の羽音がかすかに響いた。


 ディランは剣を収め、ユーシャスの腕をつかむ。


「行くぞ」


 ふたりは走り出した。敵の数は不明。このままでは不利だ。


 馬のもとへ戻り、手綱を掴んで飛び乗る。

 ユーシャスを引き上げると、森を全速で駆け抜けた。


 ――あの男たちは、彼女を“攫う”つもりだった。

 殺す気はない。つまり、彼女の国の追手ではない。

 フォローゼル……やはり、あの国の誰か。


 やがて馬が疲れを見せ、ディランは手綱を引いた。

 追手の気配はない。


 森の奥では、まだ何かが軋むような音を立てていた。

 風が遅れて吹き抜け、枝葉を揺らす。


 その音を聞いた瞬間、ディランはようやく、自分が息を詰めていたことに気づいた。

 胸の奥で、遅れて鼓動が打ち鳴らされる。


 ユーシャスは青ざめ、四つん這いのまま肩を震わせていた。


 馬の耳がピンと立つ。

 森はまだざわめいている。

 日が傾き、木々の影が長く伸びていた。


 このままでは歩くのも難しい。だが夜を迎える前に、隠れ場所を見つけねばならない。


 ディランは長剣を外し、鞘の革紐を締め直す。

 血に染まったマントを馬に掛け、黒髪を前に払って背を向けた。


「急ぐから、おぶさってくれ」


 ユーシャスは驚き、首を振る。


「いえ、自分で歩けますから」


「それだと遅くなる」


 ディランは半ば強引に彼女を背負い、鞘を腰にあてがって支えた。

 首に回された手を押さえ、無言で歩き出す。


 ユーシャスはしばらく身を固くしていたが、やがて静かに身を預けた。

 自分の足では、この速さで進めないと悟ったのだ。


 森の景色が流れていく。

 頬が、汗に濡れたうなじに触れる。

 どこへ向かっているのか、もうわからない。


 けれど――


 彼女はただ、その背に身を委ねた。

 森の奥で、風がもう一度、彼らの後を追った。



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