069 嵐の後
ディランとユーシャスは、ドナルの館を抜け出し、彼女の仲間の行方を探すため、使節団が襲撃されたという森を目指していた。
やがて森の縁が見えはじめ、ふたりはそこで一度、馬を休ませることにした。
ここまでの道のりも決して近くはなかった。だがユーシャスは、昨日この道を襲撃のただ中から命からがら逃れてきたのだ。
春の嵐が去ったばかりの森は、どこか息を潜めていた。折れた枝があちこちに散らばり、草地にはまだ雨の名残が光る。濡れた土の匂いに満ちる中、ディランは大岩が並ぶ水場のそばを選び、馬を止めた。
たてがみを掴んで軽やかに馬を降りると、近くの木に手綱を繋ぐ。鞍も鐙もない裸馬だが、この馬は手綱一本でよく従った。
東国の娘――ユーシャスは、馬に乗ったことがないと言っていた。それでも、わずかな時間で馬の揺れに身を合わせるようになっていたのは、持ち前の器用さか、あるいは生き延びるための本能か。
ディランは馬上の彼女を片腕で抱き上げ、もう片方の手で馬の背にかけていた毛布を剥ぎ取ると、大岩の上に敷き、そこへ座らせた。
「ありがとうございます。……ディラン様?」
娘は遠慮がちに声をかけてきた。
ディランは、馬が水を飲むのを確かめながら、体に結びつけていた革袋を外し、岩の上に置いた。そして彼女の隣に腰を下ろし、革袋の口を開ける。
「ディランでいい。ユーシャス、だったな?」
「はい。……でも、あの館を出てきて良かったのでしょうか? 皆さま、あなたを頼りにされていたようですが……」
言葉の端々はたどたどしいが、心はまっすぐ伝わる。
ディランは思わず眉を上げた。
「おそらく、あそこは大丈夫だ。――それに、私がいると、彼らは自分で考えなくなる。それが一番危険だ」
ユーシャスはリスのように小さく首をかしげた。その仕草に、わずかな安堵と警戒が混ざって見えた。
ディランは袋の中身を取り出す。焼いた鳥肉と酢漬け野菜をパンに挟んだもの、干した果物――どうやら館の者が昼食用に用意してくれたらしい。香ばしい匂いが、湿った空気の中にやわらかく漂った。
「怪我をされた方もいらっしゃったようですが……何かあったのですか?」
「フォローゼルが、エル・カルドへ侵攻した。知らなかったのか?」
ユーシャスは、目を大きく見開いて首を振った。その反応に、偽りはなかった。
枝葉の隙間からこぼれる光が、彼女の髪を照らした。東国の娘らしからぬ、淡い暁色。雨上がりの森の光を受けて、まるで春霞の中に炎が宿るようだった。
ディランはパンを一つ彼女に手渡し、自分もかじった。噛みしめると、鳥肉と野菜に染み込んだ蜂蜜の甘みが舌に広がり、疲れた体に静かに沁みていく。
「フォローゼルを出る時、兵の動きはどうだった? 集まっていた様子は?」
「いえ……国の中も宮廷の中も、特に変わりはありませんでした」
彼女の手がわずかに震え、パンの端を押し潰した。
震える声に、恐れよりも伝えたいという意志を感じた。
「あの……あの方たちの所へ、戻ってください。仲間は、自分で捜します」
「何を言っている。仲間の所まで送ると約束した。それに、今ここがどこかもわからぬだろう?」
ユーシャスは顔を伏せ、沈黙した。
木の枝で、小鳥がひと声鳴いた。
「なら、仲間が見つかるまで、同行する」
この娘を放すわけにはいかなかった。彼女はつい先日まで――フォローゼルの第一王子、バシリウスの傍らにいた女だ。
聞くべきことは、山ほどある。
「確認しておきたい。馬車を襲ったのは、盗賊か?」
ユーシャスは静かに首を振った。
「……貴女を狙ったのか?」
彼女の唇がわずかに震え、両手が膝の上で固く結ばれた。
「話したくなければ、無理にとは言わないが」
「そういうわけではありません。ただ、共通語で上手くお話できるか……」
「ゆっくりでいい。状況を知らねば、次の手も打てん」
ためらいながら、彼女は言葉を選び始めた。
「私は、国で神殿の巫女をしておりました。権力争いに巻き込まれ……ほとぼりが冷めるまで国外に出るよう命じられたのです。還俗して、使節団に同行し……ここまで来ました」
ディランはパンを食べ終えると、両手を払う。
それを見て、ユーシャスは慌てて食べ始めた。
その小さな仕草に、長い緊張がほどけていく気配があった。
「では、襲ってきたのは貴女の国の者か?」
「それしか……思い当たりません。姿は見ませんでしたが、共通語を話していました。大陸で誰かを雇ったのかもしれません」
ディランは無言で頷いた。
この娘は怯えながらも、冷静に状況を読んでいる。
「フォローゼルでは、何もなかったのか?」
「宮廷には、私をよく思わない方もいました。……けれど側室のお話をお断りしましたので、フォローゼルを出てしまえば、もう関係ないかと」
「側室の話が――貴女に?」
ディランは思わず、娘の顔を見返した。巫女の清らかさを湛えた面差しには、欲と策略が入り混じる宮廷など、あまりに不釣り合いだった。
あの穏やかな瞳に、後宮の嫉妬と駆け引きの影が映ることを思うだけで、どこか胸の奥がざらついた。
だが、あの男――バシリウスが、彼女を側に置いていたという噂は事実だ。
「……あれは王妃様がおひとりで進めようとなさった話で……バシリウス様は、その……まるでご興味をお持ちではありませんでした」
ユーシャスは静かに笑みを浮かべ、こぼれた野菜を丁寧に拾っては口に運んだ。その手元を、ディランはしばらく黙って見つめていた。
あの男は、使節団の襲撃を知っているのだろうか。
この娘が今、ここにいると知ったら――どう動く。
胸の奥で、波紋のような感情が広がっていった。
「……お水を、少しいただけますか?」
「ああ、すまない。気づかなかった」
ディランは革の水袋を差し出した。ユーシャスは両手でそれを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。その音を聞くだけで、ディランの喉も渇きを覚える。娘から水袋を受け取り、そのまま口を寄せた。冷たい水が喉を滑る音だけが、静けさを破った。
「そろそろ行こう」
「はい。……どちらへ?」
「森で馬車が通れる道は限られている。まずは東へ向かう」
ユーシャスは立ち上がり、敷いていた毛布を畳んでディランに渡した。
ディランはそれを馬の背にかけ、木から手綱を外す。たてがみを掴んで軽やかに馬に跨がると、娘の体を抱き上げ、自分の前に座らせた。
森を吹き抜ける風が、枝葉を鳴らした。春の嵐の名残――不穏なざわめき。
木々の囁きが、人の気配を呑み込んでいく。
馬上の娘が、くしゅんと小さくくしゃみをした。
東国の上衣にフォローゼルの長衣、素足にサンダル。その身なりは、冷たい風にはあまりに薄い。
ディランは肩のマントを外し、そっと彼女の背にかけた。その上から静かに腕を回す。
馬が鼻を鳴らす。
その音に驚いた小鳥が、羽音を立てて飛び去った。
「ありがとうございます」
ユーシャスは、馬から落ちまいとディランの腕をそっと掴んだ。
そのぬくもりを抱きながら、ふたりは使節団の痕跡を求めて、森の奥へと進んでいく。
あとに残ったのは、木々のざわめきだけだった。




