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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十章 外へ!
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068 花の残り香

 フォローゼル軍は、もはや姿を隠す必要を感じていなかった。

 途中、ボドラーク砦のローダイン軍と遭遇したが、バシリウスは“狂犬”の名をそのまま体現し、血煙の中で敵を斬り伏せた。


 彼らはただ、国境を目指して進んだ。血と鉄と汗の匂いを風が攫い、兵たちの列の影が夕焼けの中で長く伸びていく。

 やがて荒地にたどり着くと、フォローゼル軍は堂々と天幕を張った。帰還の途上であるにもかかわらず、その陣は戦場さながらに整然としていた。


 夜が落ちる。

 篝火がいくつも焚かれ、橙の光が鎧に滲み、火の粉が風に踊った。

 夜気が鉄の匂いを薄め、遠くで馬の嘶きがひとつ響いた。


 そのとき、陣の入口からひとりの兵が駆け込んだ。息を切らせ、マヌエルの前で膝をつく。

 報告を聞いた瞬間、マヌエルの表情が険しく歪んだ。

 あってはならない――。


 マヌエルの本能が兵士の話を拒む。

 握り締めた掌に汗が滲んだ。

 体の奥に、冷たく固いものが音もなく沈んでいく。


「何? エル・カルドでバシリウス様から褒美を遣わされた者だと?」


 彼は鋭い眼差しで兵を見下ろす。

 疑念が胸を刺す。


「あの者は寝台から起き上がることも出来ぬ身だ。ここまで来られる筈がなかろう」

「しかし……現に、そこに……」


 導かれるままに進んだマヌエルの視界に、衛兵たちに囲まれる若い男の姿が浮かんだ。

 だが、それはあの病に沈む少年とは似ても似つかぬ。唯一の共通は、あの薄茶の髪。だが今、篝火に照らされたその髪は艶を帯び、光を宿していた。まるで別の命を吹き込まれたように。


「お前は誰だ。なぜ、あやつを騙る」

「騙ってはおりません。私は私自身です」


「どうした、マヌエル」


 低い声が闇を裂いた。

 天幕の帷が開き、バシリウスが姿を現す。篝火の光に背を受け、その影は地を這う獣のように揺れた。白い息が夜気に紛れ、たちまち闇に溶ける。

 兵士たちは息を呑んで、その姿を見守った。


「バシリウス様、こやつが――あの寝たきりの少年だと申しておりまして」

「ほう?」


 バシリウスは一歩前へ出た。

 橙色に揺らめく白い死に装束に裸足。

 火の粉が頬を掠めても、男は瞬きひとつしなかった。その静けさが、むしろ不気味だった。


「褒美を頂けると、言われました」


 マヌエルの手が、自然と剣の柄へ伸びる。


「褒美は何を望む」


 バシリウスは興味深げに唇を歪め、手でマヌエルを制した。

 男の肌は血色を保ち、瞳には確かな焦点が宿る。病床の面影など、どこにもない。

 ――もしあの少年が健やかに育っていたなら、この姿であったかもしれぬ。

 マヌエルの胸に、言い知れぬざわめきが生まれた。


 男は膝をつかず、まっすぐにバシリウスを見返した。


「私を連れて行っては、いただけないでしょうか」

「……お前を連れて行って、何か良いことでもあるのか」


 マヌエルの声は冷たく響いた。


「お役に立てるようになりたいと思っています」

「バシリウス様の役に立つというのは、戦に出て戦うということだ」

「では、そのように」


 男は一切のためらいもなく答えた。その声音には、もはや死を恐れる気配すらなかった。


「マヌエル。こやつに着る物と履く物をやれ」

「しかし……」

「よい。お主、名は何と言う」

「アルトと申します」

「ならば――ここではアルネーブと名乗れ」


 アルネーブは衛兵に連れられ、闇の中へと消えていった。

 残されたマヌエルはなお主の前にひざまずき、眉を寄せる。


「よろしかったのですか? あのような得体の知れぬ者を……」


「マヌエル。王都へ戻ればすぐ次の戦だ。今度は目眩ましではない。本物の血が流れる戦だ。駒など、いくらあっても構わぬ」


 その言葉に、マヌエルはわずかに息を詰めた。


「……今回の出兵、議会の承認無しで行ってよかったのでしょうか」

「そんな物を通していたら、密偵どもに嗅ぎつけられて終わりだ」

「国王陛下は、お怒りになられるのでは」


「あんな死にかけの人間に、何ができる」


 バシリウスは鼻で笑い、天幕の奥へと消えていった。

「ローダインがエル・カルドに手を取られている間に、すべて終わらせる」


 篝火の炎がその背にゆらめき、笑声だけが夜に溶けていった。


 主が去ったあと、マヌエルはその場に立ち尽くした。

 胸の奥に、微かに花の香りが残っていた――それは確かに、エル・カルドのあの部屋の香り。


 (あの男……外見は違えど、あの香りは……)


 ――いや、あり得ない。

 そう思いながらも、皮膚が、髪がざわめきを止めない。

 眉を寄せ、静かに息を吐く。

 夜風が彼の外套を揺らした。


 やがて、マヌエルは香りを振り払うように踵を返し、主の後を追った。



これで第一部は終わりです。

第二部は現在書いております。

2025年の春から夏くらいには掲載を始められると思います。

再開時には活動報告でお知らせしますので、それまでお待ちください。

引き続き読んでいただけますと幸いです。

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