068 花の残り香
フォローゼル軍は、もはや姿を隠す必要を感じていなかった。
途中、ボドラーク砦のローダイン軍と遭遇したが、バシリウスは“狂犬”の名をそのまま体現し、血煙の中で敵を斬り伏せた。
彼らはただ、国境を目指して進んだ。血と鉄と汗の匂いを風が攫い、兵たちの列の影が夕焼けの中で長く伸びていく。
やがて荒地にたどり着くと、フォローゼル軍は堂々と天幕を張った。帰還の途上であるにもかかわらず、その陣は戦場さながらに整然としていた。
夜が落ちる。
篝火がいくつも焚かれ、橙の光が鎧に滲み、火の粉が風に踊った。
夜気が鉄の匂いを薄め、遠くで馬の嘶きがひとつ響いた。
そのとき、陣の入口からひとりの兵が駆け込んだ。息を切らせ、マヌエルの前で膝をつく。
報告を聞いた瞬間、マヌエルの表情が険しく歪んだ。
あってはならない――。
マヌエルの本能が兵士の話を拒む。
握り締めた掌に汗が滲んだ。
体の奥に、冷たく固いものが音もなく沈んでいく。
「何? エル・カルドでバシリウス様から褒美を遣わされた者だと?」
彼は鋭い眼差しで兵を見下ろす。
疑念が胸を刺す。
「あの者は寝台から起き上がることも出来ぬ身だ。ここまで来られる筈がなかろう」
「しかし……現に、そこに……」
導かれるままに進んだマヌエルの視界に、衛兵たちに囲まれる若い男の姿が浮かんだ。
だが、それはあの病に沈む少年とは似ても似つかぬ。唯一の共通は、あの薄茶の髪。だが今、篝火に照らされたその髪は艶を帯び、光を宿していた。まるで別の命を吹き込まれたように。
「お前は誰だ。なぜ、あやつを騙る」
「騙ってはおりません。私は私自身です」
「どうした、マヌエル」
低い声が闇を裂いた。
天幕の帷が開き、バシリウスが姿を現す。篝火の光に背を受け、その影は地を這う獣のように揺れた。白い息が夜気に紛れ、たちまち闇に溶ける。
兵士たちは息を呑んで、その姿を見守った。
「バシリウス様、こやつが――あの寝たきりの少年だと申しておりまして」
「ほう?」
バシリウスは一歩前へ出た。
橙色に揺らめく白い死に装束に裸足。
火の粉が頬を掠めても、男は瞬きひとつしなかった。その静けさが、むしろ不気味だった。
「褒美を頂けると、言われました」
マヌエルの手が、自然と剣の柄へ伸びる。
「褒美は何を望む」
バシリウスは興味深げに唇を歪め、手でマヌエルを制した。
男の肌は血色を保ち、瞳には確かな焦点が宿る。病床の面影など、どこにもない。
――もしあの少年が健やかに育っていたなら、この姿であったかもしれぬ。
マヌエルの胸に、言い知れぬざわめきが生まれた。
男は膝をつかず、まっすぐにバシリウスを見返した。
「私を連れて行っては、いただけないでしょうか」
「……お前を連れて行って、何か良いことでもあるのか」
マヌエルの声は冷たく響いた。
「お役に立てるようになりたいと思っています」
「バシリウス様の役に立つというのは、戦に出て戦うということだ」
「では、そのように」
男は一切のためらいもなく答えた。その声音には、もはや死を恐れる気配すらなかった。
「マヌエル。こやつに着る物と履く物をやれ」
「しかし……」
「よい。お主、名は何と言う」
「アルトと申します」
「ならば――ここではアルネーブと名乗れ」
アルネーブは衛兵に連れられ、闇の中へと消えていった。
残されたマヌエルはなお主の前にひざまずき、眉を寄せる。
「よろしかったのですか? あのような得体の知れぬ者を……」
「マヌエル。王都へ戻ればすぐ次の戦だ。今度は目眩ましではない。本物の血が流れる戦だ。駒など、いくらあっても構わぬ」
その言葉に、マヌエルはわずかに息を詰めた。
「……今回の出兵、議会の承認無しで行ってよかったのでしょうか」
「そんな物を通していたら、密偵どもに嗅ぎつけられて終わりだ」
「国王陛下は、お怒りになられるのでは」
「あんな死にかけの人間に、何ができる」
バシリウスは鼻で笑い、天幕の奥へと消えていった。
「ローダインがエル・カルドに手を取られている間に、すべて終わらせる」
篝火の炎がその背にゆらめき、笑声だけが夜に溶けていった。
主が去ったあと、マヌエルはその場に立ち尽くした。
胸の奥に、微かに花の香りが残っていた――それは確かに、エル・カルドのあの部屋の香り。
(あの男……外見は違えど、あの香りは……)
――いや、あり得ない。
そう思いながらも、皮膚が、髪がざわめきを止めない。
眉を寄せ、静かに息を吐く。
夜風が彼の外套を揺らした。
やがて、マヌエルは香りを振り払うように踵を返し、主の後を追った。
これで第一部は終わりです。
第二部は現在書いております。
2025年の春から夏くらいには掲載を始められると思います。
再開時には活動報告でお知らせしますので、それまでお待ちください。
引き続き読んでいただけますと幸いです。




