067 再びエル・カルドへ
シルヴァとウィラードがエル・カルドへ辿り着いたのは、夕暮れが地平を染め始めた頃だった。
西陽は砦の石壁を赤銅に染め、風には焚き火と鉄の匂いが混ざる。町の外ではローダインの軍勢が幾重にも野営し、旗が風に鳴っていた。まだ到着して間もないのだろう。
彼らはウィラードの姿を見つけるなり歓声を上げ、無事を喜んだ。猟師のような粗衣はフォローゼルの目を欺くための変装と察したらしく、誰も怪しむ者はいなかった。
町に足を踏み入れると、不気味な静寂が広がっていた。通りに人影はなく、扉は固く閉ざされている。遠くで犬が一度だけ吠え、すぐに黙った。煙突から細い煙が上っていなければ、まるで息を潜めて滅びを待つ廃墟のようだった。
シルヴァが門番に声をかける。
「七聖家が一つ、第六聖家シルヴァンドール。帰国した。開門!」
錆びた鎖の音が響き、ゆっくりと跳ね橋が降りる。夕光の向こう、橋の袂にマイソール卿が立っていた。杖を支えに、疲れを隠そうともしない姿で。
「親父」
シルヴァは馬の手綱を引き、橋を渡りきると父の前に立った。
次の瞬間、マイソール卿の杖が肩に、背に、容赦なく打ちつけられる。
「何が親父じゃ、このバカ息子が! どこへ行っておった!」
「痛い、痛いって」
叩かれながらも、シルヴァの頬はどこか嬉しげに緩んでいた。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、父の怒声でさえ懐かしく響く。
その痛みさえ、帰ってきた証のように思えた。やがて、マイソール卿の顔に微かな緩みが差す。
「さっさと家で風呂に入れ」
吐き捨てるように言いながら背を向ける父の背中が、妙に小さく見えた。
ほんの少し離れていただけなのに、年月の重みがそこに刻まれていた。
「親父」
「何じゃ」
「……背が縮んだか?」
シルヴァの軽口に、マイソール卿は振り返って睨みつけた。
息子がいなくなってから、どれほど心をすり減らしてきたか。この馬鹿者は何も知らぬ――それでも、胸の奥で安堵が静かに溶けていくのを止められなかった。
「マイソール卿」
背後からウィラードが静かに声をかけた。マイソール卿ははっとして姿勢を正す。
「これは、ウィラード殿下。お見苦しい所をお見せしまして」
息子の帰還に気を取られ、殿下の存在を忘れていた自分に気づき、顔を赤らめる。
「シルヴァには、たくさん世話になりました。彼がいなければ、僕はもう命がなかったと思います。本当に、感謝しています」
「殿下、そのような……」
「おお、ウィル。じゃあまた後でな。とりあえず風呂入ってくるわ」
シルヴァの軽口に、マイソール卿の眉がぴくりと動く。
「お前、殿下に何という物の言いようを……!」
「マイソール卿。僕がシルヴァにお願いしたんです。殿下と呼ばないでくれって」
「殿下?」
「ですから……叱らないでください。お願いします」
その声には、かつての少年の響きはなかった。
流刑の地から戻ったウィラードの瞳は、光を宿しながらも奥底に冷えた鋼を抱いていた。
その静けさが、マイソール卿の息をわずかに止める。
「……ウィラード殿下。第一聖家に戻られる前に、少しお話をよろしいでしょうか」
――第六聖家の邸宅。
二人は身を清め、暖炉の灯る居間に腰を下ろした。炎がぱちりと弾け、誰かの足音が遠ざかる。使用人が第一聖家へ走り、殿下の帰還を密やかに伝える。
衣服も慎重に運ばれ、誰の目にも触れぬよう整えられた。
「帰る途中、クラウスに会って、アルトの具合が悪いって聞いた」
「そうか。クラウス殿に……それは良かった。だが、ミアータの様子は見ていられんほどでな。今、殿下と顔を合わせたらどうなるか……」
「でも、会わないわけにもいきません。僕も、アルトに会いたいです」
「もし、何かありましたら、いつでも家へお越しください」
「ありがとう。そうさせてもらいます」
短い言葉の奥に、長年の信頼が滲んでいた。
やがてマイソール卿は再び職務の顔に戻る。
「本来なら殿下のご帰還で七聖家の会合を開くところですが……ローダイン援軍との協議がありまして。殿下の帰還の報せは私から皆に伝えましょう」
「わかりました。お願いします」
ウィラードは深く頭を下げ、第一聖家の邸へと向かった。
そこは、変わらぬ花の香りの漂う場所――ただし、その香の奥には、静かな終焉の匂いが潜んでいた。
ミアータ夫人は寝台の傍らで膝をつき、アルトの手を握っていた。
ウィラードの帰還を告げられても、夫人は顔を上げただけで声を発しない。
そのとき、アルトの瞼が微かに震え、細い手が空を探るように伸びた。
「ウィル……おかえり。……無事で……よかった」
ウィラードはその手を包み、何度もうなずく。
「心配かけてごめん」
「……ウィル……最後にお願いが……あるんだけど」
「最後とか言わないで」
「クラリッツァを……弾いて」
「クラリッツァを?」
使用人が走り去り、ほどなくクラリッツァが運ばれてきた。
ウィラードは弦に触れ、硬くなった指先で感触を確かめる。調律の音が響くと、ミアータ夫人の肩が小さく震えた。
「何を弾いたらいい?」
「……いつもの……子守歌。あれ、好きなんだ」
アルトは母の手を探すように伸ばし、夫人はその手をしっかり握り返す。
「母様……知ってた? ウィルが……毎晩、窓辺で……弾いてくれてたの……」
夫人は小さくうなずいた。
ウィラードはクラリッツァを抱え直し、音を紡ぐ。柔らかく、懐かしい旋律。
その音は、まるで時を巻き戻すように部屋を満たしていった。
アルトはもう一度、もう一度と願い、ウィラードは無言で弾き続けた。
やがて音は消え、残ったのは花の香と、一筋の涙の匂いだけだった。
誰も息をしなかった。
時間だけが音の止んだ空間に取り残される。
その沈黙を破ったのは、使用人の囁きだった。
顔を上げると、アルトは穏やかに目を閉じていた。
――二度と、開くことはなかった。
ミアータ夫人は声もなく、動かぬ息子を抱きしめた。
ウィラードは促され、自室へ戻る。足音だけが、冷たい廊下に響いた。
アルトはいつも隣の部屋にいた。
異国の地で泣いてばかりいた自分のそばに、静かに寄り添ってくれた。
寂しくないようにと、クラウスから共通語を学び、言葉の壁を越えてくれた。
体は弱くとも、笑顔は強く、誰よりも優しかった。
やがて歩くことすら難しくなり、十五の年に聖剣の儀を受けた。
もし彼が〈アレスル〉になっていれば、ウィラードはローダインへ戻っていただろう。
だが剣は彼を選ばなかった。
それでもアルトは変わらず、ウィラードのそばにいた。
――剣を握りたかった。戦場を駆けたかった。
その夢を、ウィラードは決して忘れない。
彼は寝台に身を投げ、長い旅と悲しみの果てに、深い眠りへと沈んだ。
その瞬間、彼の体から黒い霧が立ちのぼり、ゆらりと壁を抜けてアルトの寝台の下へと流れていく。
音の消えた部屋に、影だけが、まだ息をしていた。




