066 再会 二人の行方⑫
湿気を孕んだ風が、嵐の匂いを運びながら馬車の幌を叩いた。
森の中は、昼なお薄暗い。
厚い雲と枝葉が陽を呑み込み、あたりはすでに夕闇のような色をしている。
重い空気に鉄の匂いが混じり、風の低いうなりが遠くの空でくぐもって響いた。
「悪いな。乗せてもらって助かったよ」
シルヴァとウィラードは、二頭立ての馬車に揺られていた。
幌の奥には乾いた藁の匂いと獣の体温がこもり、息を吸うたび、ぬるい空気が喉の奥にまとわりつく。
荷台は積荷でぎっしりと埋め尽くされ、二人はその狭間に身を小さくして腰を下ろしていた。
シルヴァは幌の端を少し持ち上げ、外の御者に声をかける。
御者は年配の商人で、エル・カルド周辺を巡って商いをしているという。
途中でフォローゼルの軍勢を見かけ、慌てて森に迂回したところ、ぬかるみに車輪を取られてしまったらしい。
「いや、こっちこそ助かったよ。馬車が動けなくなってね。崖から人影が見えた時は、神様かと思ったよ。嵐になりそうで焦ったんだ」
男はのんびりした口調で言いながらも、手綱を握る指には乾いた泥がこびりつき、節が浮き出ている。
生活の重みが刻まれたその指が、わずかに震えていた。
「ねえ、シルヴァ。もっと早く行けないの?」
ウィラードは荷台の隅で膝を抱え、じっと靴の泥を見つめていた。
ぬかるみに車輪が噛むたび、馬車は軋み、揺れ、前に出ようとしては止まる。
気づけば、爪が白くなるほど拳を握り締めていた。
歩いた方が速い。
そう思ってしまうたび、胸が痛んだ。
フォローゼルがエル・カルドへ侵攻しているかもしれない。その想像が、血の気を冷たくする。
「ウィル。馬ってのはな、全力で走れる距離なんてたかが知れてる。まどろっこしいかもしれないけど、この速度がいちばん確実なんだ。それに今は風が悪い。無茶は禁物だ」
風の唸りが幌を叩き、外の空が低く鳴る。
シルヴァは幌の隙間から雲の様子を確かめ、短く息を吐いた。
「それから俺たちは、今エル・カルドへ戻ってるわけじゃない」
「帰らないの?」
「まずゾルノーの宿場だ。あそこはローダインへの早馬が通る中継地だ。何かあったなら伝令が来ているはずだし、何も知らずに戻るのは危険すぎる」
その言葉に、ウィラードは再び膝を抱え込む。
胸の奥で渦巻く不安が、形を持たぬまま膨らんでいく。
理由もなく、ただ「急がねばならない」という焦りだけが残った。
商人がちらりと振り返り、ウィラードの顔を見た。
「あの子、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」
「ああ、変な夢を見るらしくてな。あんまり眠れてないんだ」
シルヴァが低い声で答えると、商人は気の毒そうに眉を寄せた。
「そうかい、かわいそうに……。ところであんたたち、猟師か何かかい?」
「……そう見えるか?」
シルヴァは苦笑し、毛皮の裏打ちの服を見下ろした。
流刑地で借りた粗末な防寒着が、確かに山の猟師の装いに見えなくもない。
やがて風が荒れ、空が鳴った。
嵐は思いのほか早く追いついてきた。
その夜、彼らは嵐に巻き込まれた。
だが商人は夜営の心得を持っていた。
馬を馬車から離し、森の奥の枝葉の下へ繋ぐ。
激しい風雨と、落ちてくる枝が幌を叩きつけた。
雨音が遠ざかり、世界が濡れた闇に沈む。
三人は狭い馬車の中で膝を抱え、息を殺して夜をやり過ごした。
雨音の向こうで馬が鼻を鳴らす。
それだけが、確かな生の証のようだった。
やがて夜明け。
靄の中で馬の鼻息が白く散り、裂けた雲の向こうから朝日が昇る。
外へ出ると、土の匂いが森に満ち、濡れた枝葉が朝光を散らした。
森じゅうが息づくように輝いている。
昼近く、ゾルノーの宿場に着く。
もう少し先に進むという商人に、シルヴァは礼を言い、もしエル・カルドに来ることがあれば訪ねてほしいと伝えた。
嵐の名残を吹き払うように、喧噪が街道を満たしていた。
石畳の街道は雨に濡れ、白い光を返している。
蹄が打つたびに高く澄んだ音が響き、靴音と怒号とが混じって遠くへ散った。
焼いた肉と油の匂いが立ちこめ、湿った風がそれをかすめて流していく。
宿場は人でごった返していた。
フォローゼルの軍が昨日、エル・カルドへ侵攻したという報が飛び交い、誰もが落ち着きを失っている。
宿は満室で、相部屋すら取れない。
二人には金もない。
宿場の入口で硬くなったパンをかじりながら途方に暮れていると、石畳を叩く蹄の音が近づいてきた。
ローダインの紋章をつけた早馬——伝令だ。
その騎乗者の姿を見た瞬間、ウィラードの胸が跳ねた。
喉の奥で息が詰まり、言葉が出ない。
ただ空気が震え、胸の奥が熱くなる。
——あれは。
馬が近づいてくるのを、時が止まったかのように立ち尽くす。
「クラウス……!」
叫ぶより早く、足が動いていた。
「殿下!」
クラウスも気づき、手綱を引いて馬を止める。
濡れた石畳に水飛沫が散り、雨上がりの匂いが強く立つ。
彼は馬上から滑るように降り、ウィラードの手を掴むと、その場に膝をついた。
「ウィラード様、ご無事で……!」
声が震え、胸の奥から絞り出すように響く。
目尻には涙が滲み、嗚咽をこらえるように唇が震えていた。
馬の足には泥が跳ね、蹄に千切れた草がこびりついている。
「クラウス、無事だったか」
シルヴァも駆け寄る。
「シルヴァ様、本当にありがとうございます。よく殿下を……!」
「エル・カルドはどうなった。みんなは……?」
「フォローゼルは撤退しました。マイソール卿も皆ご無事です」
「撤退? もうか……?」
「はい。あまりに急で、皆困惑しております」
「そりゃそうだ。急に攻めてきて、急に帰られたら訳がわからん」
クラウスは言いづらそうに目を伏せた。
雨上がりの風が、馬のたてがみを揺らして通り過ぎる。
「……ただ、アルト様が急に具合を悪くされまして。今、ミアータ夫人が付き添っておられます」
「……そうか。アルトが……」
沈黙が落ちた。
街道の水たまりに空が映り、雲が流れる。
シルヴァの頬に翳りが落ち、ウィラードは俯いたまま唇を噛む。
胸の奥で安堵がほどけるのと同時に、冷たいものが沈んでいく。
「それで、お前はどこへ行くつもりだった?」
「フォローゼルの書状をアルドリック陛下に届けるよう命を受けました」
クラウスが肩から下げた鞄を叩く。
封蝋にはフォローゼル第一王子の印。その赤が、午後の光を受けて鈍く光った。
「フォローゼルの……書状だと?」
クラウスは短くうなずく。
「はい。ですから、このまますぐ帝都へ。お二人はエル・カルドへ戻られるのでしょう?」
「ああ。だが、一文無しでな」
「馬をご用意します。ご安心を」
「助かる。……ありがとうよ、クラウス」
クラウスはそっと目頭を押さえた。
「いえ。陛下に、殿下のご無事を報告できます。それに——ディランの言った通りでした」
「……あいつ、何か言ったのか?」
「シルヴァ様が一緒なら大丈夫だと。殿下をちゃんと見てくれる、と」
「……本当にそんなことを言ったのか?」
「ええ、間違いなく」
シルヴァは一瞬、信じられないという顔をしてから、ふっと笑った。
その笑みは、わずかに照れを帯びていた。
「ただ、本人がドナル卿の屋敷に行ったまま戻らなくて……」
「問題ない。あいつがドナルに遅れを取るはずがない。いずれひょっこり戻るさ」
「ですね」
クラウスは頷き、馬屋へ二人を案内した。
短い休息の後、彼は再び馬に跨る。
「それでは私はこれで。殿下、もうしばらくご辛抱を。シルヴァ様、殿下をよろしくお願いします」
「おう。気をつけて行けよ。無理するな」
クラウスは手を振り、石畳を駆けていった。
蹄が光る石を叩き、風が砂と水滴を巻き上げる。
陽の光が街道を白く染め、遠くで鳥が鳴いた。
「よし。じゃあ、俺たちもエル・カルドへ帰るか」
シルヴァの声に、ウィラードは静かに頷いた。
皆が無事だと聞いて、胸の奥の糸がようやく緩む。
——アルトの、青ざめた顔。
森の匂いも、石畳を打つ蹄の音も、遠くのざわめきも、何も届かなかった。




