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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十章 外へ!
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066 再会 二人の行方⑫

 湿気を孕んだ風が、嵐の匂いを運びながら馬車の幌を叩いた。

   森の中は、昼なお薄暗い。

 厚い雲と枝葉が陽を呑み込み、あたりはすでに夕闇のような色をしている。

 重い空気に鉄の匂いが混じり、風の低いうなりが遠くの空でくぐもって響いた。


「悪いな。乗せてもらって助かったよ」


 シルヴァとウィラードは、二頭立ての馬車に揺られていた。

 幌の奥には乾いた藁の匂いと獣の体温がこもり、息を吸うたび、ぬるい空気が喉の奥にまとわりつく。

 荷台は積荷でぎっしりと埋め尽くされ、二人はその狭間に身を小さくして腰を下ろしていた。


 シルヴァは幌の端を少し持ち上げ、外の御者に声をかける。

 御者は年配の商人で、エル・カルド周辺を巡って商いをしているという。

 途中でフォローゼルの軍勢を見かけ、慌てて森に迂回したところ、ぬかるみに車輪を取られてしまったらしい。


「いや、こっちこそ助かったよ。馬車が動けなくなってね。崖から人影が見えた時は、神様かと思ったよ。嵐になりそうで焦ったんだ」


 男はのんびりした口調で言いながらも、手綱を握る指には乾いた泥がこびりつき、節が浮き出ている。

 生活の重みが刻まれたその指が、わずかに震えていた。


「ねえ、シルヴァ。もっと早く行けないの?」


 ウィラードは荷台の隅で膝を抱え、じっと靴の泥を見つめていた。

 ぬかるみに車輪が噛むたび、馬車は軋み、揺れ、前に出ようとしては止まる。

 気づけば、爪が白くなるほど拳を握り締めていた。


 歩いた方が速い。

 そう思ってしまうたび、胸が痛んだ。

 フォローゼルがエル・カルドへ侵攻しているかもしれない。その想像が、血の気を冷たくする。


「ウィル。馬ってのはな、全力で走れる距離なんてたかが知れてる。まどろっこしいかもしれないけど、この速度がいちばん確実なんだ。それに今は風が悪い。無茶は禁物だ」


 風の唸りが幌を叩き、外の空が低く鳴る。

 シルヴァは幌の隙間から雲の様子を確かめ、短く息を吐いた。


「それから俺たちは、今エル・カルドへ戻ってるわけじゃない」


「帰らないの?」


「まずゾルノーの宿場だ。あそこはローダインへの早馬が通る中継地だ。何かあったなら伝令が来ているはずだし、何も知らずに戻るのは危険すぎる」


 その言葉に、ウィラードは再び膝を抱え込む。

 胸の奥で渦巻く不安が、形を持たぬまま膨らんでいく。

 理由もなく、ただ「急がねばならない」という焦りだけが残った。


 商人がちらりと振り返り、ウィラードの顔を見た。


「あの子、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」


「ああ、変な夢を見るらしくてな。あんまり眠れてないんだ」


 シルヴァが低い声で答えると、商人は気の毒そうに眉を寄せた。


「そうかい、かわいそうに……。ところであんたたち、猟師か何かかい?」


「……そう見えるか?」


 シルヴァは苦笑し、毛皮の裏打ちの服を見下ろした。

 流刑地で借りた粗末な防寒着が、確かに山の猟師の装いに見えなくもない。


 やがて風が荒れ、空が鳴った。

 嵐は思いのほか早く追いついてきた。


 その夜、彼らは嵐に巻き込まれた。

 だが商人は夜営の心得を持っていた。

 馬を馬車から離し、森の奥の枝葉の下へ繋ぐ。

 激しい風雨と、落ちてくる枝が幌を叩きつけた。

 雨音が遠ざかり、世界が濡れた闇に沈む。


 三人は狭い馬車の中で膝を抱え、息を殺して夜をやり過ごした。

 雨音の向こうで馬が鼻を鳴らす。

 それだけが、確かな生の証のようだった。


 やがて夜明け。

 靄の中で馬の鼻息が白く散り、裂けた雲の向こうから朝日が昇る。

 外へ出ると、土の匂いが森に満ち、濡れた枝葉が朝光を散らした。

 森じゅうが息づくように輝いている。


 昼近く、ゾルノーの宿場に着く。

 もう少し先に進むという商人に、シルヴァは礼を言い、もしエル・カルドに来ることがあれば訪ねてほしいと伝えた。


 嵐の名残を吹き払うように、喧噪が街道を満たしていた。

 石畳の街道は雨に濡れ、白い光を返している。

 蹄が打つたびに高く澄んだ音が響き、靴音と怒号とが混じって遠くへ散った。

 焼いた肉と油の匂いが立ちこめ、湿った風がそれをかすめて流していく。


 宿場は人でごった返していた。

 フォローゼルの軍が昨日、エル・カルドへ侵攻したという報が飛び交い、誰もが落ち着きを失っている。


 宿は満室で、相部屋すら取れない。

 二人には金もない。


 宿場の入口で硬くなったパンをかじりながら途方に暮れていると、石畳を叩く蹄の音が近づいてきた。

 ローダインの紋章をつけた早馬——伝令だ。


 その騎乗者の姿を見た瞬間、ウィラードの胸が跳ねた。

 喉の奥で息が詰まり、言葉が出ない。

 ただ空気が震え、胸の奥が熱くなる。


 ——あれは。


 馬が近づいてくるのを、時が止まったかのように立ち尽くす。


「クラウス……!」


 叫ぶより早く、足が動いていた。


「殿下!」


 クラウスも気づき、手綱を引いて馬を止める。

 濡れた石畳に水飛沫が散り、雨上がりの匂いが強く立つ。

 彼は馬上から滑るように降り、ウィラードの手を掴むと、その場に膝をついた。


「ウィラード様、ご無事で……!」


 声が震え、胸の奥から絞り出すように響く。

 目尻には涙が滲み、嗚咽をこらえるように唇が震えていた。

 馬の足には泥が跳ね、蹄に千切れた草がこびりついている。


「クラウス、無事だったか」


 シルヴァも駆け寄る。


「シルヴァ様、本当にありがとうございます。よく殿下を……!」


「エル・カルドはどうなった。みんなは……?」


「フォローゼルは撤退しました。マイソール卿も皆ご無事です」


「撤退? もうか……?」


「はい。あまりに急で、皆困惑しております」


「そりゃそうだ。急に攻めてきて、急に帰られたら訳がわからん」


 クラウスは言いづらそうに目を伏せた。

 雨上がりの風が、馬のたてがみを揺らして通り過ぎる。


「……ただ、アルト様が急に具合を悪くされまして。今、ミアータ夫人が付き添っておられます」


「……そうか。アルトが……」


 沈黙が落ちた。

 街道の水たまりに空が映り、雲が流れる。

 シルヴァの頬に翳りが落ち、ウィラードは俯いたまま唇を噛む。

 胸の奥で安堵がほどけるのと同時に、冷たいものが沈んでいく。


「それで、お前はどこへ行くつもりだった?」


「フォローゼルの書状をアルドリック陛下に届けるよう命を受けました」


 クラウスが肩から下げた鞄を叩く。

 封蝋にはフォローゼル第一王子の印。その赤が、午後の光を受けて鈍く光った。


「フォローゼルの……書状だと?」


 クラウスは短くうなずく。


「はい。ですから、このまますぐ帝都へ。お二人はエル・カルドへ戻られるのでしょう?」


「ああ。だが、一文無しでな」


「馬をご用意します。ご安心を」


「助かる。……ありがとうよ、クラウス」


 クラウスはそっと目頭を押さえた。


「いえ。陛下に、殿下のご無事を報告できます。それに——ディランの言った通りでした」


「……あいつ、何か言ったのか?」


「シルヴァ様が一緒なら大丈夫だと。殿下をちゃんと見てくれる、と」


「……本当にそんなことを言ったのか?」


「ええ、間違いなく」


 シルヴァは一瞬、信じられないという顔をしてから、ふっと笑った。

 その笑みは、わずかに照れを帯びていた。


「ただ、本人がドナル卿の屋敷に行ったまま戻らなくて……」


「問題ない。あいつがドナルに遅れを取るはずがない。いずれひょっこり戻るさ」


「ですね」


 クラウスは頷き、馬屋へ二人を案内した。

 短い休息の後、彼は再び馬に跨る。


「それでは私はこれで。殿下、もうしばらくご辛抱を。シルヴァ様、殿下をよろしくお願いします」


「おう。気をつけて行けよ。無理するな」


 クラウスは手を振り、石畳を駆けていった。

 蹄が光る石を叩き、風が砂と水滴を巻き上げる。

 陽の光が街道を白く染め、遠くで鳥が鳴いた。


「よし。じゃあ、俺たちもエル・カルドへ帰るか」


 シルヴァの声に、ウィラードは静かに頷いた。

 皆が無事だと聞いて、胸の奥の糸がようやく緩む。


 ——アルトの、青ざめた顔。


 森の匂いも、石畳を打つ蹄の音も、遠くのざわめきも、何も届かなかった。



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