065 光差す 城外の館⑫
娘は力なく椅子に腰を下ろし、両の肩を落とした。
背の奥から、静かに沈み込むような疲労が広がっていく。
――怒らせてしまったかもしれない。
心の奥が、針で刺すようにじくじくと痛む。いたたまれなさと申し訳なさが絡みつき、息を吸うのも苦しい。穴があったら入りたい――そんな気分だった。
(どうしよう)
せっかく親切にしてもらったのに。
入ってはいけない場所へ足を踏み入れただけでなく、食事も、風呂も、洗濯まで世話になっている。これではまるで甘えてばかりの子供だ。
何か、せめてひとつでも自分にできることを――その焦りが胸を締めつける。
助けを求めるように、娘は部屋を見渡した。
暖炉の炎が石壁を淡く照らし、橙の光がゆらゆらと息づいている。
その熱が空気を揺らし、静けさがいっそう深く感じられた。
ふと、壁に掛けられた麻布の書に目が止まる。
「これは……」
小さく息を呑み、椅子を離れた。
近づくほどに、その文字が目に馴染んでいく。
記憶の底が微かに震えた。
――『神歌』。
神に捧げる祈りの歌。意味を知ることを許されず、ただ心と身体で覚え、舞と共に神前で歌い継がれてきた、巫女たちの証。
けれど、今は遠い異国。二度と見ることはないと思っていた“故郷の祈り”が、ここにあった。
胸が震え、唇がひとりでに動く。
細く、かすかに――けれど確かに声が漏れた。
静寂が息を潜める。世界が止まったように。
その瞬間、麻布の上の文字がふっと揺らめいた。
娘は息を止め、目を凝らす。
――動いた。
黒々とした文字が、生き物のように蠢き出し、布を離れて宙に舞う。
それらは光の粒へと変わり、娘の胸へと吸い込まれていった。
心臓の鼓動が、一度、大きく跳ねる。
次の瞬間、娘の口から歌がほとばしった。
それは確かに自分の声だった。
けれど同時に――自分ではない“誰か”の声でもあった。
『時の狭間より、光差しきたれり。彼の縛め、いま砕けよ――』
響いた歌声は、館全体の空気を震わせた。
床の下から、何かが割れるような音がした。
その歌声は、地下にも届いていた。
地下室の扉の前で、ディランはその音を聞いた。
扉が自ら開き、湿った空気と水の滴る音が広がる。
ドナルたちの姿は、まだ戻らない。
ディランは灯りを手に取り、水の仕掛けを外して階段を降りた。
地下の空気は冷たく重く、壁が汗をかくように湿っている。
中央には――砕け散った魔道符。
孔雀色の石は粉々になり、力を失っていた。
結界が、消えている。
――なぜだ。
指先が震えた。まったく予想もしていなかった事態だった。
すぐに階段を駆け上がり、扉を閉ざして壁との隙間にクサビを打ち込む。
これで中からは開かない。
ドナルたちが戻っても、追っては来られないはずだ。
息を整える間もなく、廊下の先から足音が駆けてくる。
ルーイとキアランだ。
「お客さんが……!」
二人の頬は興奮に紅潮していた。
美しい歌声が聞こえたので見に行ったという。
案内されて応接室へ入ると、壁の前で娘が力尽きたように座り込んでいた。
ディランは迷わずその身体を抱き上げ、革張りの長椅子に横たえた。
頬は青白く、指先まで冷たい。
籠の中の小さなグラスに火酒を注ぎ、唇に触れさせる。
娘は激しく咳き込み、目を開けた。
「怪我はないか?」
焦点の合わない目が、徐々に現実を掴んでいく。
自分の身体を使って、誰かが歌った――そんな感覚だけが残っている。
巫女として神に仕えた頃でさえ、こんな神降ろしのようなことは一度もなかった。
それでも、歌の余韻は身体の奥深くに染みつき、意味の断片がかすかに残っている気がする。
「大丈夫です。すみません」
娘が身を起こしたとき、窓の外で霧がゆっくりと晴れ始めていた。
陽がガラスを通り抜け、部屋中を黄金色に染める。
暖かな光が、まるで赦しのように降り注いでいた。
館に来てから初めて見る陽光。霧も、結界も、すでに消えている。
――理由を探るのは後だ。今は、ここを出る。
ディランは椅子にかけてあった毛布を取り、娘へ声をかけた。
「動けるか?」
娘はまだ戸惑いながらも、こくりとうなずく。
「はい」
差し出された手を取り、立ち上がる。
ルーイとキアランが腕にしがみついた。
「何で、そんな格好をしてるんですか?」
「嫌です。どこへ行くんですか?」
「フィオンはどこにいる?」
二人は不安そうに顔を見合わせ、衛兵たちの詰所へ案内した。
詰所には、緊迫した空気が張りつめていた。
出入りする靴音が重なり、焦燥の匂いが漂う。
年長の衛兵がディランを見つけ、声を上げた。
「ディラン様、大変です! 昨日、フォローゼルの侵攻があり、エル・カルドは陥落したそうです! 逃げ出した民が、付近を彷徨っております!」
――早すぎる。
冷たいものが背筋を走った。
娘の話では、国境が開いたのはほんの数日前。
エル・カルドを攻略するには、あまりに早い。
おそらく、内部に手引きした者がいる。
ドナルの顔が脳裏に浮かぶ。
あの怯えは、娘ではなく“侵攻を知っていた”ため――。
「ディラン様、指示を! エル・カルドを取り戻しましょう! 我々は戦います!」
衛兵たちの目は真剣で、希望の光を宿していた。
だが、ディランはその光を静かに摘み取る。
「だめだ。この人数、この装備では何も出来ない」
「しかし、このままでは……!」
焦る声を遮るように、ディランの視線が鋭く走る。
彼らは訓練を受けていない。守備も連携も成り立たない。
無駄な血が流れるだけだ。
いま最も必要なのは、“現状を知ること”だった。
「お前たちはここで、逃げてきた者の救護と現状の把握に努めよ。場合によっては、彼らを連れて逃げろ」
「ディラン様。我々は兵士です。国のために戦います!」
その叫びに、ディランの眉がわずかに動いた。
静かに一歩、前へ出る。
「戦えぬ者を連れて逃げるのは、戦よりも難しい。お前たちに出来るか?」
「…………」
「無謀と勇猛は違う。判断を誤るな。ここにいる者たちの命は――お前たちが守れ」
その声には、かつて騎兵団長であった頃の響きがあった。
衛兵たちは、自分たちが“戦士”ではなく“守り手”と見られていることを悟り、うなだれた。
「ディラン様は、どこへ?」
「まだやることがある。馬を一頭、借りる」
ディランが歩き出すと、ルーイとキアランが腕にしがみつく。
「ルーイ! キアラン! お客様はお帰りです!」
フィオンの声が響いた。
二人は驚いて手を離し、その顔には幼い恐れと理解が入り混じっていた。
フィオンはまっすぐディランの前に立ち、震える声で言った。
「ディラン様、この子たちは、私が必ず守ります。フォローゼルからも……ドナル様からも」
その言葉に、周囲の衛兵たちは息をのんだ。
皆、少年たちの境遇を知っている。
その誓いがどれほどの覚悟かを、痛いほど理解していた。
「そうしてくれ」
短く、それでも確かに響く返答。
その一言だけで、フィオンの目に涙がにじんだ。
馬屋に入ると、藁の香りと湿った土の匂いが立ちこめていた。
ディランは馬の背に毛布を掛け、鞍を付けずに踏み台へ上がる。
しなやかに身を預け、裸馬の背に飛び乗る。
「裸馬に……?」
「ここには一人乗り用の鞍しかない。大丈夫だ。慣れている」
衛兵は驚きの目を向けるが、ディランは娘を見た。
フィオンが震える声で問う。
「あの……またいつか……エル・カルドへ戻ってきていただけますか?」
ディランは一瞬、目を伏せる。
(戻る……そう考えたことは、今まで一度もなかったが……)
「……考えておく」
それだけを残し、娘に手を差し伸べた。
軽く引き上げ、馬の前方に乗せる。
背後から腕を回し、手綱を握る。
娘の髪が頬をかすめ、微かな香がした。
館の方から声が飛ぶ。
フィオンが革袋を抱えて駆け寄り、差し出した。
食料と水。
ディランは短く礼を言い、袋を身体に括りつける。
見送る者たちは、静かに手を振った。
またいつか会えることを願って。
馬の蹄が地を蹴り、森の方へと消えていく。
衛兵たちはルーイとキアランの背を叩いた。
「さあ、坊主たち。けが人がいる。薬を持ってきてくれ」
泣き顔のまま、二人は鼻をこすり、精いっぱいの声を張る。
「はい!」
小さな背中を、フィオンは目を細めて見送った。
――守らなければ。この場所を。
その頃、ディランはもう遠くを走っていた。
振り返ることはない。
フォローゼルの侵攻は始まった。
娘の仲間を見つけ出すには、一刻を争う。
(……何かを、忘れているような気がするが)
軽く首を振る。
――それを思い出すのは、もう少し後のことになる。
風が頬を打ち、草の影が流れていく。
空には、かすかに春の匂いがあった。
ドナルと老人がずぶ濡れで救出されたのは、その日の昼を過ぎた頃だった。




