064 罠 城外の館⑪
鳥の声が、眠りの底から意識を引き戻した。
霧の向こうで濡れた木々が、朝の光を返している。
美しい――そう思った瞬間、胸の奥でまだ風が鳴った。
――みんなは、どうしているのだろうか。また会うことができるだろうか。
寝台から身を起こし、部屋の中を見回す。
用意された朝食をとり、洗い立ての衣を身にまとう。静かに髪を整え、指先で帯を確かめる指が少し震えた。それでも、娘はそっと部屋の外へ出てみる。
廊下に一歩足を踏み出すと、石床の冷たさが足裏に伝わる。湿り気を帯びた空気が、朝の匂いを含んでいた。
そこへ、ルーイとキアランが姿を見つけ、弾むように駆け寄ってくる。
「こちらのご主人は、いらっしゃる?」
娘が尋ねると、二人は顔を見合わせ、言葉が通じないことを悟ったように困った表情になる。
やがて、何かを思い出したように駆け出し、ほどなくして一人の男を連れて戻ってきた。
ディランは、すでに出立の装いをしていた。
館に来た時と同じ灰色の服を身にまとい、腰には剣を帯び、肩には重たげなマント。
灰のような色合いが、朝の光を受けて冷たく鈍く光る。
それは、この檻から出る準備を終えた人の姿だった。
「少しは休めたか?」
「はい。ありがとうございます」
娘の顔色は見違えるほど良くなっていた。命を狙われた後だというのに、怯える様子もなく、澄んだ目をしている。
ディランは胸の奥で小さく感嘆した。見た目の儚さに似合わぬ、芯の強さがある。
薄い霧を透かす光の中で見る娘の姿は、どこか異国の影を帯びていた。
暁色の艶を含んだ黒髪も、繊細な顔立ちも、彼の知る東国人とは少し違っている。血の混ざりを思わせる柔らかな輪郭があった。
「あの、こちらのご主人はどちらでしょう? お礼を申し上げたいのですが」
「礼は必要ない」
娘は唇を結び、彼の眼差しに言葉を飲んだ。
「あなたを泊めたのは、あの男の都合だ。」
「でも……」
「それより、今日はいつでも出られるように準備しておいてくれ」
「はい。もう、いつでも出られます」
娘は帯の結びを確かめ、懐に忍ばせた紙包みをそっと押さえた。
その慎ましい仕草に、何かを守るような意志が見えた。
「ちなみに、馬には乗れるか?」
「すみません。乗ったことはありませんが……馬に乗るのですか?」
娘は不安げに眉を寄せ、ディランを見上げた。
彼の視線とぶつかり、一瞬、息を呑む。
「大丈夫だ。何とかなる。それより、廊下は冷える。応接室に居てくれ」
ルーイとキアランに娘を任せると、二人は顔を見合わせ、不思議そうにディランを見つめた。けれどすぐに、競うように娘の手を取り、笑いながら応接室へ向かった。
その背を見送るディランの表情には、ほんの僅かに安堵の色が差していた。
ディランは地下室の入口へと向かう。
ドナルが先ほど中へ入っていくのを見ていた。脱出を試みるなら、今が好機だ。
結界の張られた扉のそばで、以前に見つけた光の差す位置を探る。
地下への扉近くに、小さな隠し扉があった。
開けてみると、腕一本が入るほどの穴が現れ、その奥には白い紐が垂れている。どうやら、地下の老人とドナルが合図に使うためのものらしい。
湿った空気が指にまとわりつく。
ディランは眉を寄せ、部屋に戻って木板を取り出した。
書棚の修理に使われる材で、細い溝が刻まれている。
手早く組み合わせて四角い筒にし、洗い場に仕掛ける。隠し扉へと導くと、水が音を立てて地下室へ流れ込んでいった。
――しかし、しばらく待っても地下から反応はない。
ドナルも老人も、もうそこにはいないようだった。
だが、馬車の音はしなかった。
(……転移魔道か)
予想外ではあるが、策はまだ生きている。
戻ってきた彼らが扉の結界を解いた瞬間、クサビを打ち込み、老人との交渉に持ち込む――それが彼の計画だった。
たとえ拒否されても、冷たい雪解け水が流れ込めば、長くはもつまい。
ディランは木槌を床に置き、息を潜めて待った。
静けさの中で、水音だけが一定のリズムを刻む。
やがて、廊下の向こうから小さな足音が近づいた。
ルーイとキアランが薬箱と毛布を抱え、応接室へ走っていく。
「どうかしたのか?」
「お客さんが、足をケガしてます!」
ディランが応接室へ入ると、娘は暖炉の前の椅子に腰を下ろしていた。
炎の光に頬を染め、少し当惑したように笑っている。
「ケガをしたのか?」
「いえ、大したことは……走っているうちに擦れただけです」
ルーイとキアランは娘の膝に毛布を掛け、得意げに薬を取り出した。
彼らが自分で調合した木蔦の薬だ。ぎこちない手つきで包帯を巻こうとするが、うまくいかず、助けを求めてディランを見上げる。
ディランは黙って膝をつき、娘の足を手に取った。
素足は冷たく、甲の皮が剥けている。小さな切り傷がいくつも走っていた。
「すみません……本当に大したことでは……」
「小さな傷を放置して足を失った者もいる。甘く見ない方がいい。お前たち、よく見つけたな」
短く告げると、手早く包帯を巻いた。
ルーイとキアランは褒められて誇らしげに薬箱を抱え、跳ねるように部屋を出ていく。
娘は二人の背中を微笑ましく見送りながら、ふと尋ねた。
「あの子たちは、お子さんですか?」
暖炉の薪が音を立てて崩れる。
娘は目を瞬かせ言葉を待った。
――ディランは絶句した。
これまで一度も言われたことのない言葉に、思考が止まる。
「!? 違う! あの子たちは使用人だ! あんな大きな子供がいるように見えるのか?」
思わず声が裏返りそうになり、ディランは咳払いをした。
その瞬間、暖炉の火がぱち、と乾いた音を弾いた。
小さな沈黙が落ちる。
娘は慌てて立ち上がり、何度も頭を下げた。
「す、すみません! すみません! この大陸の方は見た目がよくわからなくて……!」
ディランは口元を引きつらせながらも、どこか呆れたようにため息をつく。
「……まあ、私も東国の人の外見のことはよくわからないがな」
少女のように見えるが、その言葉遣いと落ち着きには年輪がある。
自分もまた、母に似た容貌のせいで散々な思いをしてきた。
(お子さん……、か)
ディランは深く息を吐き、立ち上がった。
「ここで待っていてくれ。向こうの様子を見てくる」
そう告げて部屋を出る。
扉を出ると、廊下の空気はひやりとしていた。
暖炉の熱が残る部屋の温度との差が、妙に鮮やかに感じられる。
胸の奥に、先ほどの会話の余韻がまだわずかに残っていた。
だが、立ち止まっている暇はない。
足音を忍ばせ、館の奥へと向かう。
静けさの中、水音だけが館の底で生きていた。




