063 エル・カルド侵攻②
外では雨が降っていた。
篝火のあかりが、濡れた窓をぼんやりと照らしている。
バシリウスとマヌエルは息を殺し、震えるミアータ夫人らの背を追った。
扉が開いた瞬間、匂い消しの花の重い香りが、胸を塞いだ。
アルトは枕に沈み込み、顔をわずかに向けるだけで精一杯だった。
頬はこけ、唇は乾ききっていたが、その瞳の奥にはまだ、誰かを呼び戻そうとする光が、微かに揺れていた。
「人違いですな。やはり、ここにはおらぬかと」
マヌエルは視線を逸らし、袖で鼻と口を覆う。
そして踵を返した。
その背に、弱々しい声が届く。
「待って」
空気が、音もなく凍った。
二人の肩がかすかに揺れる。
共通語だった。
マヌエルが足を止め、バシリウスが眉をわずかに上げる。
「ほう……ここに話せる者がいたか」
二人は再び枕元に寄り、興味深げにアルトを見下ろした。
ミアータ夫人は思わず駆け寄ろうとするが、マイソール卿に肩を押さえられる。
「あなたたちは、フォローゼルの人?」
「こちらの方は、フォローゼルの第一王子バシリウス様だ。軽々しく口をきくな」
「僕を……殺しに来たの?」
アルトの声は、風が擦れるようにか細かった。
「放っておいても朽ちる命に剣を抜くほど我々は暇ではない。バシリウス様、参りましょう」
二人が背を向けた瞬間、アルトが再び口を開いた。
「ディランを……捜してるの?」
「何?」
バシリウスが足を止める。
その名に、部屋の空気が一瞬で沈んだ。
王子の手が、何かを探すように動く。
「彼なら……ここには、もういないよ」
バシリウスはゆっくりと振り向き、低く問う。
「それは、ボドラーク砦の騎兵団長のことか?」
アルトは、わずかに頷いた。
沈黙。
次の瞬間、バシリウスは喉の奥から笑い声を漏らした。
冷たくも澄んだ、鉄の響き。
「そうか。ならば良い。――マヌエル、こやつに褒美をやれ」
「……褒美、ですか?」
「我らに物怖じせず話すなど、勇敢な奴だ。震えてばかりの他のエル・カルドの民とは違う。体が動くなら、良い戦士になったろうに」
寝台の上のアルトを見下ろす目に、一瞬だけ――憐れみのような影がよぎった。
マヌエルはその気配を見て、すぐに視線を逸らす。
その瞳の奥に、確かに“人の色”が宿るのを見てしまいそうで、怖かった。
「では、後で人を遣りましょう」
マヌエルは小さく息を吐く。
主の気まぐれには、もう慣れていた。
だがその“褒美”を受け取ることもなく、アルトの容態はその夜、急変した。
使用人たちは城に移され、ミアータ夫人はアルトの手を握り続けるしかなかった。
やがてアルトは、静かに眠り続ける。
◇ ◇
最近のアルトは、弱った身体とは裏腹に、心だけはどこか穏やかだった。
「ローダインの医者に診てもらいたい」と言い出した時、ミアータ夫人は驚いた。
これまでどれほど説得しても、「どうせ死ぬ」と言って拒み続けていたのに。
その言葉に、夫人は涙ぐみながら、クラウスを通じて帝都エゼルウートの医者を呼ぶ手筈を整えた。
たとえ助からぬとしても――生きるために何かをしようとするその意志が、何より嬉しかった。
◇ ◇
夜更け。
主の眠る寝台脇の椅子から、マヌエルはそっと立ち上がった。
白いシャツに上着を羽織り、窓辺へと歩み寄る。
外は嵐。篝火の明かりが風と雨に千々に裂かれ、兵士たちの影を壁に散らしていた。
マヌエルは窓に手を置き、灯火に照らされた寝台を振り返る。
小さな灯りが、バシリウスの整った顔と顎の古い傷を浮かび上がらせていた。
(あの時も……嵐の夜だった)
ボドラーク砦で見た黒髪の男――孔雀の瞳を持つ悪魔のような剣士。
あの一瞬、主の首が飛ぶと思った。
その恐怖はいまだに骨の奥に残っている。
バシリウスがエル・カルド行きを決めた時、マヌエルは反対した。
だが主は笑いながら言った。
「またお前が守ればよい」と。
彼は誰も信用しない。
食事も眠りも、マヌエル以外の前では決して行わない。
その忠実さが、いつか彼自身を縛り潰すとわかっていても――マヌエルは離れられなかった。
フォローゼルでは、血が混じるほどに毒も濃くなる。
誰が誰を毒したのか、誰も口にしない。
だが、王妃の手の中には確かに“毒の香”があった。
それ以来、主は人を信じなくなった。
――それでも、あの娘だけは別だった。
どこからともなく連れてこられた東国の娘。
王妃の駒にすぎぬはずが、バシリウスは彼女を側に置いた。
同じ食卓につき、彼女の傍らで眠り、視察にも同行させた。
マヌエルは思った。ああ、この人にも“人間の顔”があるのだと。
だが――王妃が娘を側室にしようとしたその時、彼女は突然、使節団と共に国を去った。
そしてバシリウスは、何も言わず、惜しげもなく彼女を送り出した。
あの小動物のような娘の影が、瞼をかすめる。
(……あの小娘、今どこで生きているのか)
扉の外から声がした。
マヌエルは主を起こさぬよう静かに出ていく。
そこには、雨に濡れた兵士が跪いていた。
「どうした。バシリウス様はお休みだ」
「申し訳ありません。お命じの品を運び終えました。雨を避けておりましたので、遅れまして」
「そうか、ご苦労だった。明朝には発つ。今夜は休め」
(ローダインの援軍が来る前に……)
嵐の音に紛れ、マヌエルの胸が早鐘を打つ。
今回の侵攻は、時間との戦いだった。
数ヶ月の策を費やし、いま退く時を迎えている。
部屋に戻ると、バシリウスはすでに身を起こしていた。
寝台の上、冷えた眼差しだけが生きている。
「起こしてしまいましたか。申し訳ありません。魔道書、運び終えたとの報告です」
「そうか」
マヌエルは肩に掛け布を掛けながら、静かに問う。
「……失礼ながら、何故あのような物を? ロクスファントの神官の言葉など、いつもならお聞き流しになるのに」
「大事の前だ。あ奴らは金も人も持っている。恩を売っておいて損はない。それに――あのローダインのペテン師に、一泡吹かせるのも悪くないだろう?」
マヌエルは唇を噛み、喉の奥でその名を呼んだ。
「……皇帝アルドリック」
バシリウスの目の奥に、一瞬、熱が灯る。
「明日、奴に書状を送る。どんな顔をするか、見ものだな」
夜が白むころ、雨は止み、風だけが残った。
風にのって、篝火の燃え残った匂いが運ばれてくる。
そして翌朝――
マヌエルの言葉どおり、フォローゼル軍は静かにエル・カルドを後にした。




