062 エル・カルド侵攻①
進軍は、夕刻に始まった。
西の空は赤く燃え、雲の端が血のように滲んでいた。
風は強く、草原を撫でる音が波のように広がっていく。
遠くで雷鳴がくぐもり、空の底が震えた。
兵たちの影が長く伸び、鎧の継ぎ目が鈍く光を返した。
蹄の響きは規律正しく、だが異様なほど静かだった。
鬨の声もなく、旗も音を立てない。
ただ、風だけが――これから訪れるものを知っているかのように唸り続けていた。
やがて、赤が沈み、夜が来た。
風はさらに強まり、空を押し潰すように雲が流れていく。
白い布を巻いた兵たちが、夜の底から浮かび上がった。
その行列は光も音も拒み、ただ影の群れのように進んだ。
エル・カルドの町は息を潜めていた。
誰も鐘を鳴らせず、扉の向こうで祈るような息が微かに漏れる。
その静寂を裂くように、城の跳ね橋が降ろされた。
潮のように押し寄せる兵。
風が叫びを攫い、道という道が踏み潰されていく。
ボドラーク砦にはローダインがいるはずだった。
誰もがそう信じていた。
だが何の報せもなく、フォローゼルの軍勢は嵐のように城を飲み込んだ。
そしてたった数刻のうちに、エル・カルドは沈黙した。
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夜半、城の大広間に臨時の陣が設けられた。
外では風が唸り、窓の格子が軋んでいる。
厚い石壁の向こうから、嵐の怒声が低く響いていた。
だが室内は、異様なほど静まり返っていた。
篝火がいくつも灯され、炎が冷たい壁を赤く染める。
焦げた油と濡れた革の匂いが、戦の余韻として漂っていた。
その中央に、長身の男が歩み出る。
鎧を脱ぎ、豪奢なマントを肩に掛けたその男は、静かに椅子へと腰を下ろした。
灰金の髪が光を鈍く返し、顎の古傷が焔の明滅に浮かぶ。
――フォローゼル第一王子、バシリウス。
風が遠くで吠えた。
炎がその音に呼応するように揺らめく。
傍らに立つのは、銀糸のような髪の若い男だった。
冬の月を思わせる冷ややかな面差し。
声は甘く、しかし刃のように冷たい。
「バシリウス様。ずいぶんとあっさり城内まで入れましたね。内通者がいると、楽なものです」
マヌエルの微笑は、氷の上を歩くように薄く危うかった。
「くそ面白くもない。エル・カルドの連中は、本気で戦う気がなかったらしい。兵士ですら呆然と突っ立っておった」
王子の声は、焔の底で金属が鳴るように低く響いた。
マヌエルは静かに膝を折り、囁くように言う。
「ボドラーク砦の兵も我々に気づかなかったようです。……実に、お粗末なことです」
「ゼーラーン将軍の頃なら考えられん。ローダインも堕ちたものだ」
あの砦は、かつてローダインがフォローゼルから奪ったもの。
「今なら砦を取り戻すことも容易いでしょうに」
その言葉に、王子は短く息を止めた。
「――あそこはもう良い。それより、エル・カルドの代表はまだか」
「今、決めているところです。なにせ、ここには代表が七人もいるとか」
マヌエルは鼻を鳴らし、炎の赤に照らされる城内を見渡した。
人の気配のない廊下、割れた窓。
その沈黙は、まるで町そのものが息を潜めているかのようだった。
「早く決めさせろ」
「かしこまりました」
マヌエルはマントの裾を払うように立ち去った。
通訳を伴い、七聖家が集まる部屋の重厚な扉を押し開ける。
壁には歴代〈アレスル〉の肖像画が並び、燭台の火が影をゆらす。
その光の中を抜け、円卓の中央へと進む。
「――一体いつまで待たせるつもりだ。時間稼ぎならば、今すぐ終わらせるぞ」
通訳が言葉を継ぐより先に、がっしりとした老貴族が立ち上がった。
「申し訳ない。今、決まった。儂は第六聖家のマイソールだ」
静寂が落ちる。
本来ならアレスルであるドナルが代表となるはずだった。
だが彼は戻らない。
結局、シルヴァを擁する第六聖家がその役を引き受けることになった。
二人は別室に移り、通訳を介して対話が始まる。
「私はマヌエル。フォローゼル王国第一王子、バシリウス様の側仕えだ。
これより王子の前に、城内の者をすべて集めろ」
「……すべて、でございますか?」
「そうだ。安心しろ、殺そうというわけではない」
マイソール卿の胸に、かすかな寒気が走る。
二十五年前、結界が失われた日。
白巾の兵が町を埋め、人々が泣き叫ぶ中で――
あの時現れたのは、フォローゼル国王の妹、イリス将軍だった。
篝火の赤に照らされたバシリウスの顔は獣のように鋭い。
首元から顎にかけて刻まれた古傷が、まるで呪印のように光を返す。
それが戦場を生き抜いた証であり、恐怖そのものだった。
――フォローゼルの王子を取り逃がして。
脳裏に、シルヴァの声が閃く。
ディランがこの男と刃を交えたというのか。
その想像だけで、背筋が氷に縛られた。
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やがて、大広間に住人と使用人がすべて集められた。
外では風が城壁を叩き、屋根を鳴らしている。
その轟音の下で、人々は押し殺した息のまま立ち尽くしていた。
大階段の上、バシリウスとマヌエルが立つ。
側仕えが片手を上げると、ざわめきはすぐに沈黙した。
「エル・カルドの者たち、聞け。
こちらはフォローゼル王国第一王子、バシリウス様である。
今回の侵攻、我らにお前たちを害する意図はない。
もし民を傷つける者がいれば、王子自ら罰を下す。
明日にはここを去るゆえ、無駄な騒ぎは慎め。以上だ」
――去る?
マイソール卿の耳が震えた。
攻め、奪い、それで去るというのか。
その真意が掴めぬまま、群衆の中にざわめきが広がる。
その時だった。
大扉が突風と共に開かれた。
縄で縛られた男が、兵士に引きずられるようにして入ってくる。
泥が跳ね、空気が一瞬で張り詰めた。
「何事だ。騒がしい」
マヌエルの声が冷たく響く。
「この者は町で略奪を働きました」
「バシリウス様、いかがなさいますか」
王子は無言のまま階段を下りた。
刃を抜く。
その光が篝火に弾かれ、赤く走る。
誰も息をしなかった。
一閃。
血が床を染め、誰かの悲鳴が遅れて上がる。
「我が命に背く者など、必要ない」
王子は振り返らずに言った。
血を滴らせた剣を振り払い、赤い飛沫が炎を乱す。
「こやつの首を罪状と共に晒せ。……ここにいる者の言葉でな」
マイソール卿は喉の奥に鉄の味を覚えた。
――これは、見せしめだ。
あの男は、最初から選ばれていた。
血の匂いが広がる中、バシリウスがゆっくりとマイソールを指差す。
通訳が淡々と告げる。
「……バシリウス様が問うておられる。“本当に、これで全員か”と」
なぜ――。
マイソールの背筋が凍りついた。
なぜ、全員でないとわかる?
「邸宅に寝たきりの老人と病の若者が母親とおります。あとは赤子から老人まで、全員ここに」
「――その『若者』のもとへ案内せよ、と仰せだ」
マイソール卿の胸が軋んだ。
王子は、何かを――誰かを探している。
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外は嵐だった。
風が石畳を叩き、雨が鎧を打つ。
空の怒声が城壁を震わせ、篝火は吹き消されそうに身をよじった。
鐘楼の影が揺れ、雷が一度、夜空を裂いた。
王子と側仕えは、一言も発せずにその中を進む。
兵たちは黙して従い、松明の光だけが列を導く。
濡れた火が鈍く揺れ、甲冑の影を歪ませた。
その行軍は、まるで葬列のように重く静かだった。
向かう先は、第一聖家の邸。
石壁の館は嵐に削られ、灯りも細く、息絶え絶えのように見えた。
玄関に立つミアータ夫人は、血と泥に塗れた男たちを見て凍りついた。
鎧の継ぎ目から滴る赤い雫が、石床に暗い円を描く。
それが“人の血”だと気づくのに、時間は要らなかった。
「マイソール……一体、何が……」
夫人の声は嵐にかき消されそうに震えていた。
「落ち着け、ミアータ。彼らは害を加えぬと言っている」
「でも、血が――」
「あれは命に背いたフォローゼル兵のものだ。……彼らはアルトを見たいと言っている」
夫人は首を振った。
瞳の奥に恐怖が渦巻く。
「なぜアルトを? あの子は何もしていない!」
「わかっている。恐らく人違いだ。……すぐに終わる」
マイソール卿の声には掠れが混じっていた。
彼自身、わかっていた。
この男たちは“何か”を探している。
――いや、“誰か”を。
王子は無言で階段を上る。
濡れた靴が絨毯を汚し、滴る雨が軌跡を残す。
マヌエルは手袋を外し、静かに額の水滴を拭った。
「バシリウス様。あの男はここにはおらぬと聞いておりますが」
「マヌエル。お前は内通者の言葉を真に受けるのか?」
「……いえ。ただ、見つけたとして、どうなさるおつもりです?」
王子は足を止めた。
灯が絶えかけた廊下で、二人の影が重なる。
外の稲光が、一瞬、彼の顔を白く照らした。
濡れた髪が頬に貼りつき、古傷がその光を裂くように輝く。
そして、唇の端が静かに吊り上がる。
「別に。もしここにおるのなら、笑ってやろうと思っただけだ。
身一つで、何もできずに歯噛みしているだろうからな。
おらぬのなら、それでいい」
その笑みは、狂気よりも寂寥に近かった。
それは勝者の顔ではなく、何かを喪った者のそれだった。
戦いの果てに、まだ誰かを探しているように。
闇を覗きこむような瞳の奥に、かすかな疲労と憐憫が滲む。
マヌエルは短く一礼し、わずかに視線を逸らした。
その横顔には、言葉にできぬ哀れみの影が走っていた。
外では雷鳴が轟き、雨が窓を叩く。
まるで天が、この王子の名を拒むかのように。
廊下を冷たい風が抜け、燭台の灯がひとつ、ふっと消えた。
その闇の中で、王子はただ前を見つめていた。
探すべき“誰か”の幻を、なおも手放せずに。




