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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十章 外へ!
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061-2 東国の娘 城外の館⑩

 娘との話が終わる頃、フィオンが部屋と湯浴みの支度が整ったと知らせに来た。

 娘は裾をたくし上げ、泥を落とさぬよう裸足のままフィオンのあとをついていく。


 ローダインの令嬢であれば、決して足を晒すことはないだろう。

 所作は帝国のそれとは明らかに異なり、異国の風の名残がまだ漂っているようだった。


 娘の気配が廊下の奥に消えてから、部屋にはしばしの沈黙が落ちた。

 その静けさを背に、ディランが扉を押し開けると、ルーイとキアランが興奮気味に駆け寄ってくる。


「『どうぞ』って言ったら、『ありがとう』って言われました!」

「僕も、僕もです。お話し出来ました!」


 二人は顔を綻ばせ、自分たちの共通語(コムナ・リンガ)が東国の娘に通じたことを、まるで奇跡でも起こしたかのように誇らしげに語る。

 ディランが人差し指を唇に当てると、二人ははっとして口を押さえた。

 共通語(コムナ・リンガ)を習っていることは、ドナルには秘密だった。


 無邪気な笑い声が遠ざかる。フィオンは娘を伴い、浴室へと案内した。


 (……暖かい)


 湯に身を沈めた瞬間、娘は、肌にこびりついた泥と冷えがじわじわと剝がれていくのを感じた。

 温もりは骨の芯まで染み渡る。それでも、胸の奥の寒さだけは、頑なに居座っている。


 湯面には香油が薄く広がり、虹のような渦が光を受けて揺れていた。

 その儚い色を目で追いながらも、心のどこかでは、湯気の向こうに故郷の空を探していた。

 息を整え、娘は湯気の向こうに耳を澄ませる。


 ——静かだ。


 ほんの小さな物音さえ、偽りの安堵を壊しかねない。

 それでも力は抜けていく。抗うことに疲れた体が、湯の底へゆるやかに沈み込む。


 その矢先、帳の向こうで空気がかすかに揺れた。

 湯気の流れが乱れ、首筋を冷たいものが撫でていく。


 ……誰かが、部屋に入ってきた。


 息をひそめ、腕で身を包む。湯気の奥、影の気配だけが揺れていた。

 湯の香りが散らばり、水面が細くさざめく。

 娘はそっと肩まで湯に沈み、瞼を閉じた。持ち物を検められるのは覚悟していた。

 だが今はただ、知らぬふりをするしかない。耳の奥で、自分の鼓動を数えながら。


 今回は、直接身に着けているものに目が向けられることはなかった。

 娘は二の腕の金の腕輪に手をやる。

 その腕輪にはフォローゼルの紋章が繊細に刻まれ、孔雀色の石が嵌められていた。


    ◇      ◇


 同じ頃、ドナルに呼ばれて部屋へ入ると、ディランは椅子に座る男の手がテーブル上で震えているのに気づいた。

 相変わらず小心だが、その震えには怯えではなく、怒りの熱が混じっている。


「あの娘……どうやって、ここへ来た?」


 ドナルは苛立ちを隠せず、拳で卓を叩いた。

 卓上には鈍い光を放つ鞭があり、振動を残して小刻みに揺れている。


「あの娘は結界について何の知識もありませんでした。結界という言葉すら、知らぬ様子です。どうやってここへ入ったのか、本人にも分からぬと」


 ディランは淡々と報告する。


「馬鹿な……偶然など、あり得るか!」


 ドナルは呻き、鞭を握りしめてまた卓を叩く。

 木肌には、同じ箇所を叩き続けた跡が幾筋も残っていた。長年の癖のように。

 ディランはその様子を見て、これ以上は無益と判断し、踵を返した。


「待て……」


 ドナルの声が背に飛ぶ。ディランは聞こえぬふりをして扉へ向かう。


「待て! ……待てと言っている!」


 鞭の風が空気を裂いた。静寂が、一瞬だけ震える。

 叫びとともに背後で鞭が振り上げられた。

 反射よりも先に、抑え込んでいた本能が動いた。

 振り向きざま、ディランの手がその手首を掴み、拳が自然に握られる。

 次の瞬間、みぞおちに沈む衝撃。骨を通して、鈍い熱が伝わった。


 ドナルの息が、喉の奥でひゅっと途切れる。

 絹の裾が足に絡み、拳が止まった。——我に返る。


 ディランが一歩退くと、ドナルの体が音もなく崩れ落ちた。

 部屋の空気はいまだ震えており、鞭の余韻だけが石床に鈍く転がっていた。


 ——思わぬところで、長衣が命を救った。

 あのままでは、素人に致命傷を与えていたかもしれない。

 七聖家の血を殺めるわけにはいかない。その冷たい自覚が、心の底に刻まれた。


 ドナルは腹を押さえ、床にうずくまったまま声を搾り出す。


「この……野蛮人め……」


 ディランは冷ややかに言葉を返した。


「いきなり鞭を振るうのは、野蛮ではないのか」


 扉の方を見ると、フィオンが立ち尽くしていた。

 瞳がわずかに見開かれ、敬意と恐れが、別の何かへと形を変えつつある。


「済まない、フィオン。仕事を増やした」


 ディランは短くそう言い残し、部屋を出た。


 フィオンは慌ててドナルに駆け寄り、背を支える。

 その手は確かに震えていたが、恐れではない。

 自分が今まで恐れていた人間を、嫌悪していた人を、ディランが一撃で退けた——

 その事実が、体の奥に積もっていた恐れを崩していった。


 フィオンは囁く。


「あの娘さんですが、特に変わったものはお持ちではありませんでした」


 命じられて検めた娘の荷には、異国の文字で書かれた書付けが一枚あっただけ。

 紙の手触り、墨の匂い。その中に刻まれた時間の厚みだけが、彼の指に残った。


 ——小胆な人だ、とフィオンは思う。

 恐れが消えたあとに残ったのは、水面のような静けさと、胸の奥の温かな鼓動。

 けれどその奥に、言葉にならぬ何かが芽吹き始めていた。

 それが何であれ、もう恐れではなかった。

 


 ディランは自室へ戻ると、文机の裏に隠した板を確かめた。

 溝を刻んだ数枚の板——それはまだ、フィオンの目には入っていない。


 あの娘と共にここを出れば、あるいは結界を抜けられるかもしれない。

 だが、本人も知らぬ不確かな道に賭けるのは危うい。

 最も確実なのは、あの老人に結界を解かせること——。


 ドナルは今夜、動けまい。

 だが明日には必ず動き出す。

 夜はさらに深く、窓の外では風が低く鳴っていた。


 ——嵐の奥で、何かが確かに動き始めていた。



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