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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十章 外へ!
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061-1 東国の娘 城外の館⑩

「ディラン様。お寛ぎのところ、申し訳ありません」


 扉が叩かれた。

 外気がすっと流れ込み、蝋燭の焔が細く揺れた。

 空気が一瞬、息を止めた。

 その静寂を裂くように、フィオンが駆け込んだ。


 頬は蒼ざめ、息は荒い。

 指先が緊張に震え、声がわずかに掠れている。

 いつもの穏やかさは影もなく、焦りの色が全身に滲んでいた。


 暖炉の炎の音さえ遠のき、部屋の空気が硬質な静けさに沈んだ。


「外に、どなたか見たことのない方が来られていて……共通語(コムナ・リンガ)しか、お話にならないようで。お水を欲しがられているようなのですが、私ではちょっと……」


 (外に……人? この結界の内側に?)


 思考より先に、冷気が頬を刺した。

 ディランは扉へ歩み寄り、音もなくそれを開け放つ。


 闇の向こうに、ひとりの影が立っていた。

 白い息が夜に散り、青ざめた唇が微かに震える。

 肩を抱く細い指は氷のように透き通り、泥を吸った裾が床を濡らしていた。

 滴が落ち、石の上でかすかな音を立てる。


 その顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 ――東国の民。

 外の世界を知らぬこの地で、その面差しを見るとは。


 娘はしばし唇を結び、やがて震える声を洩らした。


「……あの……申し訳ありませんが……お水を、一杯……いただけませんか」


 その声が響いた瞬間、空気がわずかに震えた。

 言葉は共通語コムナ・リンガ

 だがその調べは、祈りの欠片のように淡く――

 渇きではなく、もっと深いところから漏れ出た、ひと筋の声だった。


 背後でドナルの足音が近づいた。

 重い沈黙が流れる。

 彼の視線が娘をなぞるたび、部屋の温度が下がっていくようだった。


「かわいらしいお嬢さんじゃないか。中へ入れてやりなさい。そのままでは凍えてしまう」


 努めて穏やかに言った声。

 けれどその奥に潜む硬さを、ディランは見抜いていた。

 その声の温もりは、恐れを包み隠すためのものだった。


 娘は小さく頭を下げたが、足を踏み入れることをためらっている。

 「泥だらけですから」と呟く声が震え、白い息がこぼれた。


 ディランはためらわず歩み寄り、そっとその体を抱き上げた。

 触れた指先に、命の温かさが走り、胸の奥がわずかに波立った。


 彼は何も言わず、娘を抱えたまま館の奥へ進んだ。

 暖炉のある応接室。

 橙の光が二人を包み、焦げた薪の匂いがかすかに漂う。


 娘はこわばったまま、椅子に座らせるとようやく力を抜いた。

 もう抗う余力もないようだった。

 炎がぱちりと弾け、その音に合わせるように外で風が唸る。

 雨が硝子を叩き、夜がいっそう深く閉じていく。


 ◇


 館の中が、急に息を吹き返した。

 フィオンが暖炉に火を入れると、ルーイは桶に湯を汲み、キアランが台所からスープを運ぶ。

 声と足音、湯の音、金属の響き、薪の爆ぜる音が次々と交じり合っていく。

 さっきまでの静寂が、まるで幻だったかのようだった。


 外では雨が強くなり、風が硝子を叩いた。

 まるで娘の震えに呼応するように、夜の気配が館を包み込んでいく。

 橙の光が揺れ、壁の影がゆっくりと伸びた。


 ルーイとキアランは、東国の娘に興味津々で覗き込んでいた。

 けれどフィオンにたしなめられ、名残惜しげに部屋を出ていく。

 残ったのは、まだ顔を強ばらせたままのドナルだった。


「外は嵐だ。その娘には、今日はここに泊まっていくよう伝えなさい」


 短く告げる声。

 その音の奥に、わずかな震えがあった。

 慈しみを装ってはいるが――それは“理解を越えたもの”への恐れの滲み。

 ディランは黙って頷いた。


 暖炉の火がぱちりと鳴り、娘の息がゆるやかに整っていく。

 その光景を見届けたあと、ドナルは踵を返し、長い廊下を進んだ。

 背に、扉が静かに閉まる。


 ◇


 石の階段を降りるたび、空気が変わった。

 温度がひとつ下がるごとに、湿り気が肌を這い、息が重くなる。

 蝋燭の灯が壁に滲み、煤の匂いが鼻を刺す。

 上階のぬくもりが、もう遠い幻のようだった。


 ドナルの足音が硬く響く。

 その音が壁に反響し、重なって返ってくる。

 胸の内では、恐怖が理性を静かに削っていった。


「……いったいどういうことだ。結界を越えるなど、あり得ん……!」


 声が石壁にぶつかって震える。

 怒りではない。怯えが形を変えただけの叫びだった。


 机の向こうで古びた書をめくっていた老人は、ゆっくりと顔を上げた。

 瞼の下に影が沈み、口元にかすかな笑みが浮かぶ。


「結界に異常は見られませぬ。昔まれに、外の者が入り込んだ記録もございます。“ほころび”というものがあるのかもしれません」


「偶然だと?」

 ドナルは拳で壁を打った。

 蝋燭の炎がびりびりと震え、煤が宙を舞う。


「……あと一日。あと一日だけ、何とかしろ!」


「落ち着きなされ」

 老人は視線を落としたまま、頁を指で撫でた。

「その娘ひとりで計画は揺らぎませぬ。むしろ――エル・カルドは、今頃大騒ぎでございましょう」


 その声には人の情が欠片もなかった。

 冷たい微笑が、蝋燭の影を長く引きずる。

 ローブの裾が静かに揺れ、壁に映る影がひとりでに伸び上がる。

 地下の空気が低く鳴り、まるで生き物のように脈打った。


 上階の暖炉の灯と、地の底の蝋の光――

 その二つの光が、ひとつの夜の中で決して交わることはなかった。


 ◇


 暖炉の火は穏やかに揺れ続けていた。

 外の雨音は遠く、硝子を伝う雫がときおり光を引く。

 娘の頬に血の色が戻り、濡れた黒髪が肩に貼りついて艶めく。

 部屋の空気は温く、静けさの中に薪の香が満ちていた。


 ディランは椅子を引き寄せ、炎を挟んで彼女と向き合った。

 火の光が二人の間に揺らめく壁を作る。

 その向こうで、娘の指が膝の上でかすかに動いた。


「少し、話をしてもいいか」


 娘ははっと顔を上げた。

 その瞳に映ったのは、想像していた“大陸の男”ではなかった。

 淡い髪色でも、短い髪でもない。祖国と同じ長い黒髪。

 そのことだけで、張りつめていた心がわずかにほどけた。


 彼女は指を組み、震えを押さえるように息をついた。

 声は細かったが、澄んでいた。


「私は仲間と森を馬車で進んでいました。誰かに襲われて……逃げなさいと言われて、走って……気づいたら、ここに」


「それで、どうやってここまで来た?」

「走って……歩いて……」


 炎がぱちりと弾け、影が二人の顔に交錯する。

 ディランはわずかに息を呑んだ。


「いや……ここには結界が張られている。どうやって入れたのか」


「ケッカイ……?」

 娘は小さく首を傾げた。

 その仕草は小動物のように慎ましく、それでいて気品があった。


「この館に外から入れぬようにする、見えぬ仕掛けのようなものだ」


「では、私は……入ってはいけない所に……?

 申し訳ありません、すぐに出ます」


 娘は慌てて立ち上がろうとした。

 桶の湯がざぶりと跳ね、炎が赤く揺れた。


「いや」

 ディランは静かに手を上げた。

「館の主人が、今夜は泊まるようにと言っている」


「でも、ご迷惑では……」

「外は嵐だ。それに……なぜ森にいた? まだ雪が残っていただろう」


 娘は湯のこぼれぬように、そっと腰を下ろした。

 吐息に疲れが滲む。

 炎が頬を照らし、その影が瞳に揺れた。


「フォローゼルの国境が開きましたので……

 私たちは東国から大陸諸国を巡る使節団の一行です」


「フォローゼルの――? あそこにいたのか」

「はい。この間までフォローゼルの宮廷に滞在しておりました。

 この後は商業自治州へ向かう予定で……」


 その名を聞いた瞬間、胸の奥がざらりと軋んだ。

 あの夜、コンラッドが言った言葉が甦る。


 『フォローゼルの王子が、東国の娘を側に置いている』


 だが、目の前の娘はその噂とは違っていた。

 飾り気もなく、仕える者のように静けさをまとっている。


「フォローゼルの宮廷に、他の東国の女性もいたのか?」

「いえ。私の知る限り、他には……」


 ――本人だ。


 思考が一瞬止まる。

 娘の瞳が不安げに揺れた。


「あの……バシリウス様は、東国に興味を持たれていただけですので」


 (バシリウス……!)

 久しく忘れていた名が、胸の奥を叩いた。

 取り逃がしたあの男。

 ――そして今、その鍵が目の前に座っている。


 一瞬、彼の中に小さな声が生まれた。

 逃がしてやれ、と。

 だが次の瞬間、別の声が囁く。

 この娘は、一人で逃げられるのか?


 炎が弾け、沈黙が降りた。

 ためらいが形を変え、決意となる。

 男の名が、灰色の夜に火を点けた。


「……あの。ケッカイというものがあるのなら、私は……外へ出られるのでしょうか?

 仲間が、まだ……森に残っているかもしれません」


 その声はかすかだったが、芯があった。

 恐怖に呑まれまいとする意志の光が、瞳の奥に宿っている。


 ディランは娘に身を寄せた。

 炎が彼の影を長く伸ばし、二人の距離をゆっくりと埋めていく。


「私と一緒に、ここを出ないか」


「一緒に……?」


 娘のまつげが揺れた。

 この人もまた、ここの者ではないのか――そんな気づきが胸をかすめる。


「ここの者たちは、結界を越える人間を恐れている。

 理由がわかるまで、おそらく出す気はない。

 理由がわかれば……生きては帰れぬ」


 娘はうつむき、長衣の裾を握り締めた。

 せっかく賊から逃れたと思えば、今度は怪異の中に迷い込んだ。


 静寂が降りる。

 火がぱちりと弾け、橙の光が娘の頬を撫でた。


「ここを出たら、行きたい所まで連れていこう。

 私もここを出るつもりだ」


「でも……私はケッカイのことなど……」

「心配はいらない。すでに手は打ってある。

 一緒に来てくれればいい」


 娘はしばらく黙っていた。

 やがて、小さくうなずいた。

 その表情に、決意と不安が同居する。


「……ところで、ここは、どこですか?」


「エル・カルドの第二聖家、ドナル殿の館だ」


「エル・カルド……」

 その名を繰り返し、娘はようやく気づいた。

 目の前の男の瞳――それは孔雀の羽のような色をしていた。

 炎を映して、静かに、かすかに揺らめいている。


 窓の外で、風が遠く森を撫でた。

 夜はまだ、何も知らぬ顔で息づいている。



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