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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第十章 外へ!
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060 春の嵐 城外の館⑨

 その使節団の馬車は、深い森の奥を進んでいた。


 ――いったい、どこまで行けばよいのだろう。


 数日前にようやく開かれたばかりのフォローゼル北の国境を抜け、辺境の荒原を越え、いまは西へと大森林を渡っている。

 木々は背を競うように伸び、枝葉は重なり合って昼なお薄暗い。

 車輪が湿った土を噛むたびに、ぬかるみの音が鈍く響く。

 その音に驚いたのか、鳥の群れがいっせいに羽ばたき、黒い影のように木々の上を旋回した。

 ざわめきが、森の奥へと吸い込まれていく。


 伝説の地――エル・カルドの近くを通ると聞かされていた。けれど立ち寄ることはないらしい。

 あの国の人々は異国の者を嫌うという。ましてや、これまで滞在していたフォローゼルとは決して良好な関係ではない。

 そう聞かされていた娘は、納得するように小さく息を吐いた。


 雪はもう終わったと聞いていた。だが、辺境の風はまだ刺すように冷たく、息を吐けば白く曇る。

 フォローゼルよりずっと北、まだ冬の名残が支配する土地。

 遠くまで来たのだという実感が、胸の奥にわずかな寂しさを連れてくる。


 娘は東国の出だった。

 長く艶やかな黒髪は、木々の隙間から射す光に暁色の輝きを返す。

 理知的な面差しは、ともすれば少年のようにも見えた。

 東国の織物で仕立てた上衣を帯で締め、その下にはフォローゼル風の長衣を重ねていたが、足元の軽いサンダルでは、この寒気には心もとない。

 それでも馬車の中にいれば、まだ堪えられた。


「風が出てきましたな。このあたりは春が近づくと、強い風が吹き、嵐になるそうですぞ。――ユーシャス殿、……ユーシャス殿!」


 娘は、目の前に座る老武人の声にハッとして顔を上げた。


「ごめんなさい、ツアク。ぼんやりしてしまって。本当、嵐になりそうね」


 二人の言葉は〈共通語(コムナ・リンガ)〉とはまるで違う、東国の響きを持っていた。


「ユーシャス殿は神殿での生活が長うござるから、フォローゼルの宮廷のような場は、お疲れになられたでしょう」

「そうね。でも、もう巫女ではないのだから、慣れないと」

「フォローゼルでの滞在は、予想外に長くなりましたな」

「でも、待遇は悪くなかったでしょう?」

「ええ、それはもう」


 ツアクは腰をひねり、後方の小窓から外を覗いた。

 使節団の荷馬車が続き、その上にはフォローゼルから贈られた物資が山のように積まれている。

 これから大陸を巡る旅に備えるには、十分すぎる量だ。

 今、彼らが乗るこの馬車さえも、フォローゼルの王から下賜されたものであった。


 娘の国からの使節団はこれが初めてではない。だが、ここまでの厚遇は前例がない。

 同行者たちはみな驚き、同時に喜んでいた。――祖国で“お荷物”のように押しつけられたこの娘が、思いがけず大きな働きをしたと。


 ツアクの頬が緩みかけた瞬間、肌にひりつくような感覚が走った。


 ――何か、おかしい。


 空がざわめいた。先ほどの鳥たちが、再び森を裂くように飛び立った。


 だが、その感覚も娘の声に霧散した。


「ツアク、ごめんなさいね。こんな遠いところまで……」

「何をおっしゃいます。私は妻も子も失いました。多くの人を斬ってきた報いです。あなたをお守りすることが償いになるのです。どうか、お気遣いなく」


「でも、海を越えて、こんな……」


 娘は手を握りしめ、視線を落とした。その指先は白く、かすかに震えていた。

 ツアクは穏やかな声で言った。


「よろしいですか。祖国での件、ユーシャス殿に落ち度はございません。あれは謀叛を企てた者どもの自業自得。ほとぼりが冷めれば、必ず帰れます。それまで、私もお傍に」


「私はもう、帰ることは諦めているから。ほとぼりが冷めても、私を恨む人は残るわ。……それより、大陸で生きていけるように、仕事を探さないと。使節団の人たちと、いつまでも一緒にはいられないし」


「仕事……ですか?」

「おかしい? 私にできること、何かあるかしら」


 老武人は娘を哀れむように見た。

 男であれば異国でも働き口はある。だが、血筋もツテもないこの小柄な異国の娘に、何ができるというのか。


「そのようなことは……。あの、失礼ながら、フォローゼルからの申し出は?」

「側室の話? あれは王妃様の早とちりよ。あの方がそれを望んでいないことくらい、あなたも知っているでしょう? 仮にそうだったとしても、もう権力争いはこりごりなの」


 娘の瞳に、怯えの色が走る。ツアクは静かにうなずいた。

 ――この娘は、ただ手紙を届けただけだった。

 それが謀叛の告発状だったなど、知る由もない。

 だが、告発された側にとって彼女は恨みの象徴。ゆえに国外へ逃がすため、この使節団に同行させたのだ。

 だが、大陸もまた、権謀の巣である。


「左様ですな。後宮など、身分が低ければ命の保証もない。……しばらくは使節団に留まり、どこかの神殿で仕事を探されますか?」

「そうね。この人たちのこともあるし……」


 娘は懐の包みをそっと押さえた。

 ツアクの表情がわずかに引き締まる。


「そうでしたな。そちらもいずれ――」


 その時、馬が甲高くいななき、馬車が激しく揺れた。

 すぐに止まり、外から怒声と剣戟の音が響く。

 ツアクの顔が一瞬で戦士のものに戻った。


「ユーシャス殿、私が様子を見てまいります。貴女は馬車の下に隠れなさい。危険だと思ったら、迷わず逃げなされ」


 老武人は刀の柄に手をかけ、短く頭を垂れた。


「後ろを振り返ってはなりませぬ。生きなさい。生きていれば、また会える」


 その顔には、覚悟と哀しみが交錯していた。

 娘はただごとではないと悟り、静かに馬車の下へ潜り込む。


 服が泥に汚れるのも構わず、湿った土の上に身を伏せた。

 息を殺し、耳を澄ます。


 ――剣のぶつかる音。悲鳴。肉を断つ音。


 ツアクの声が途切れた瞬間、娘は走り出していた。


 音が消えた。世界の色まで、いっしょに凍った気がした。


 『生きなさい』――その言葉だけを胸に。


「女はどこだ!」


 〈共通語〉の怒声。女はこの隊にひとり、自分しかいない。狙われているのは自分だ。

 胸の奥に、冷たい針が刺さるような罪悪感が広がる。

 本来、使節団が襲われる理由などない。――自分以外は。


「いないぞ! 捜せ! 腕輪をつけた女だ!」


 娘は振り返らずに走った。足がもつれそうになっても、ただ前へ。

 やがて森を抜け、風の荒ぶ荒野に出る。誰も追ってこない。

 振り返る誘惑をかみ殺し、ツアクの言葉通りに進んだ。


 どれほど歩いただろう。陽は落ち、風はますます強まっている。

 雪解けの荒野はぬかるみ、足を取られ、泥に沈む。

 冷え切った足はもう感覚を失い、喉はからからに乾いた。

 泣きたくなる。けれど泣けば、歩く力を失ってしまう。

 歯を食いしばり、風の中を進んだ。


 風の音ばかりが耳を打ち、目の前の景色が滲んでいく。


 そのとき――遠くに光が見えた。


 薄闇の中、孔雀の羽のように青と緑が溶ける、不思議な輝き。

 熱を奪う風の中、誰かの声が聞こえる気がした。


 ――おいで。


 風の音に、別の何かが混じっていた。人の声に似て――。

 夢か幻かもわからない。けれど娘は引き寄せられるように歩を進めた。


 何かを抜けた瞬間、視界が開けた。

 今度は本物の灯りが見える。

 石造りの大きな建物。あかりの灯った屋敷の壮麗な姿が、夜気の中に浮かんでいた。


 泥にまみれた自分の格好に、一瞬ためらいがよぎる。

 けれど、もう他に道はなかった。


 娘は震える手で扉を叩いた。

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