059 帰るべき道 二人の行方⑪
夜の名残を抱いた風が、霜を孕んだ草葉を撫でていった。
かすかな軋みが、山の静けさに紛れる。
空は青白く、東の端で金の滲みが広がる。
吐く息が細く凍り、すぐに空気に溶けた。
――その光が、夜の終わりを告げていた。
その朝――流刑地からの脱出の日が、静かに訪れた。
シルヴァとウィラードは、白い息を確かめながら老人たちの家を訪ねた。
戸口の灯がまだかすかに揺れ、煙の匂いが空気に残っている。
誰かの手が触れていた温もりだけが、そこに留まっていた。
「悪いな、じいさんたち。でかいこと言っといて、結局、連れて出る方法が見つからなかった。一人ずつ担いで降りりゃいいんだが、時間がかかりすぎる。一旦エル・カルドに戻って、何か方法を考える」
「いや。儂らもやっぱり、ここを離れることはできん。ありがたい申し出じゃが……」
「儂らにとっては、ここが故郷なんじゃ。お前さんらにゃ流刑地でもな」
薄明が窓を透かし、皺の刻まれた頬を柔らかく照らした。
その光の中で、老人たちの目は静かに細まり、諦めでも悲しみでもない、奇妙な温もりを宿す。
その穏やかさが、逆に胸に刺さった。
「そうか。でもまた、俺たちはここに来る。だから――しばらくは二人で頑張ってくれ」
暖炉の灰がぱち、と鳴り、火の粉がひとつ舞い上がった。
その光が消えたあと、静けさだけが残った。
彼らは、長いあいだ光らぬ坑を見つめ続けていた。
いつか誰かが現れると信じて。
その坑口に光が差した夜、倒れていたシルヴァたちを見つけ、駆け寄ったのだ。
まるで――待ち人がようやく帰ってきたかのように。
ウィラードは無言で立っていた。
背に聖剣を負いながら、その目の焦点はどこか遠くを彷徨っている。
まぶたの奥で、何かを見ているようだった。
夜ごとのうなされ声がまだ胸に残っていた。
言葉にはならない何かが、喉の奥で凍りついていた。
「それからこれ……本当に俺が持って行っていいのか?」
シルヴァは首から下げた細い棒状の鍵を摘み上げた。
孔雀石の欠片が、かすかに光を返す。
「儂らも、いつ死ぬかわからん。七聖家の人間が持っていた方がいいじゃろう」
「あの書蔵庫は、もともと七聖家のものじゃ」
鍵を胸に戻し、シルヴァはふと笑った。
「そういや、じいさんたちの名前を聞いてなかったな」
「名前? ……そういえば儂らも、お互い“おい”としか呼んどらんかったな。――儂はセアン」
「儂はダラじゃ」
「セアン、ダラ。ここで一旦お別れだ。元気で」
「気をつけて行け」
名を呼び合った一瞬、室内に温かさが戻る。
外では雪解けの水が滴り、山肌を流れる音がした。
その音はまるで、遠い春の兆しのように柔らかかった。
――そして二人は、扉を後にした。
◇ ◇ ◇
山道はぬかるみ、靴底が重く沈んだ。
肌を刺す冷たさがやわらぐにつれ、空がわずかに明るんでいく。
坑道の入口は息を呑むほど静かで、岩壁から落ちる水滴の音だけが、まるで時間を刻むように響いていた。
シルヴァは手を止めて振り返った。
山の空気を胸いっぱいに吸い込む。
冷たさの奥に、鉄と土の混じった匂いがあった。
背後のウィラードは、聖剣の重みに耐えきれず、肩を落としている。
目は霞み、息は浅かった。
夢と現が溶け合い、意識が曖昧なままだ。
――まぶたの裏に、何かが棘のように刺さっている。そんな顔だった。
やがて坑道を抜けると、崖が姿を現した。
眼下には森が続き、陽光が白く散っている。
――もう、後戻りはできない。
シルヴァは地面に置いた縄を手に取った。
油を染み込ませて撚り合わせた縄は、湿りを帯びて重く、冷たい。
岩肌に手を当て、目星をつけた位置へ金属のクサビを打ち込む。
乾いた音が山に跳ね返り、ウィラードがわずかに肩をすくめた。
二箇所にクサビを打ち、二本の縄を結わえる。
片端を輪にして崖下へ放り投げた。
風が唸り、縄が揺れる。影が岩の表面を滑っていく。
「……行くぞ、ウィル」
短い言葉。
それだけで十分だった。
縄を捻り、ウィラードの体に輪をかける。
シルヴァは彼を背負い、岩肌に足をかけた。
靴底がざらりと滑る。
風が鳴る。
吐く息が白く散る。
冷たい。
縄が皮膚を削る。
掌が痺れる。
血が引く。
それでも止まれない。
一手ずつ、確かめるように降りていく。
背の温もりだけが、現実の印のようだった。
――怖い、とは言えなかった。
ふと、音が止んだ。
その静けさの中で、ウィラードの体が震えた。
「ウィル? ……どうした?」
次の瞬間、その体が突然、もがき出す。
「危ない、止めろ!」
縄が悲鳴を上げた。
シルヴァは全力で掴み、足場を探す。
岩の張り出しを見つけ、息を呑んで跳んだ。
衝撃。
全身に鉄の杭を打ち込まれたような痛み。
ウィラードは暴れ、腕が首を締めつけた。
喉が焼け、視界が白く弾ける。
吸えない。空気が入らない。
――殺される。
反射的に背を岩へ打ちつけた。
何度も、何度も。
鈍い音が響き、砂が舞い散る。
「ウィル! 目を覚ませ!!」
叫びが反響し、風に散った。
ウィラードの体がびくりと震える。
シルヴァは背後の頭を掴み、無理やり下を向かせた。
「ウィル! 下を見ろ!」
足元の光景を覗いた瞬間、ウィラードの体が硬直した。
もう一度、岩に押しつける。
「痛っ!」
その声を聞いた瞬間、シルヴァの肩の力が抜けた。
喉を通る空気が焼けるように痛い。
それでも、ようやく呼吸を取り戻した。
「気がついたか?」
ウィラードは荒い息を吐き、シルヴァの背に体を預けていた。
顔色は血の気を失い、瞳はまだ焦点を結ばない。
胸が上下するたび、冷たい空気が音を立てて抜ける。
「……シルヴァ……僕、何かした?」
シルヴァは喉を撫で、かすかに笑った。
首筋が赤くなっている。
「急に暴れて、首を締めた。おかげで死ぬかと思ったぞ」
「……ごめん。夢を、見てたんだ」
木々の間を風が駆け抜け、木立が海のように波立った。
「夢?」
「……うん。いろんな人の……いろんな夢。
人間も、神様も……それから、よくわからないものも。
怖くて、逃げたくて――でも、目を閉じられなかった」
言葉の途切れた間に、遠くの岩がぽたりと雫を落とした。
その音が、どこまでも冷たく響いた。
「……俺にはよくわからねぇが、今いるのは崖の途中だ。落ちたら死ぬぞ」
「……うん。ごめん」
鳥が羽音も立てず、滑らかに空を舞う。
鳴き声が笛の音のように鳴り響く。
砂が舞い、陽光がちらりと岩肌を照らす。
ウィラードはまぶたを閉じかけ、また開いた。
夢に引きずられまいと、指先に力をこめる。
シルヴァは立ち上がり、縄を握り直した。
手のひらに血が滲んでいる。
風が強まり、崖の草がざわめいた。
「行くぞ」
短く、それだけを言った。
ウィラードはその背で、ただ目を開け続けた。
――現を、手放さないように。
◇ ◇ ◇
ようやく二人が地上に降り立ったとき、陽はすでに高かった。
森を抜ける風が、まだ冷たく頬を撫でていく。
枝葉がざわめき、遠くで水音が返った。
ウィラードは足元を見つめ、しばらく動かなかった。
シルヴァの背から降ろされた手が、まだ空を掴んでいる。
握り締めた指先を開くと、血と岩粉が乾いて、黒ずんだ筋を描いていた。
シルヴァは短く息を吐いた。
背に残る温もりがようやく離れていく。
その重みがなくなった瞬間、少しだけ寒く感じた。
振り返れば、雲が山腹を流れていた。
光を呑んだ雪解けの水が、白い線となって尾を引く。
崖の上はもう見えない。
あの小さな灯も、煙の匂いも、遥かな空へと消えていた。
「……行くか」
シルヴァの声は低く、湿った地を踏む音に紛れた。
ウィラードは黙って頷く。
二人はエル・カルドの方角へと歩き出した。
足跡が軟らかな泥に沈み、靴底に水が滲む。
森の奥で、風がざわめきを集めた。
枝葉が触れ合い、低く鳴る。
その音は、嵐の前の森が息を吸うようだった。
そのざわめきは、まだ見ぬ嵐の息づかいだった。




