058 騒動の結末 ローダインにて⑫
数日後。
コンラッドは、いつものように緑に包まれたジーンの執務室を訪れていた。
窓辺を覆う蔦と草花が淡い陽光を受け、葉の縁を透かして輝く。
部屋の奥では、紙と本と金属の道具が複雑に積み重なり、机の上は相変わらず要塞のようだった。その隙間に腰を据え、ジーンは眉間に皺を寄せながら、いくつもの書類を交互に見比べている。
長椅子にはアルドリックが寝そべり、片手に葡萄酒を掲げていた。火の落ちた暖炉の灰の中で、赤紫の液体が光を受けてわずかに揺らめく。午後の陽が差し込み、ガラス越しの光がその表面を金色に縁取っていた。
先日捕らえられた者たちは、いま牢で尋問を受けているらしい。
だが、その内容がコンラッドに伝えられることはない。
沈黙の中で、紙をめくる音だけが細く響く。
「結局、トーマのことも、よくわかりませんでしたね」
控えめに口を開いたコンラッドに、ジーンが顔を上げる。
一瞬だけ、翠の瞳が彼に焦点を合わせた。
「バルドが墓まで持っていった秘密だ。他人の私たちが暴いていいものかどうか。本人が知りたいというなら手は貸すけどね。……そういえば、トーマは旅に出たんだって?」
「はい。一度は屋敷へ戻ってきたのですが、今朝、旅に……」
コンラッドは窓の外を見た。
まるで使命を思い出したような、あの少年の瞳が瞼に浮かぶ。
冬の名残を含む空は薄く霞み、遠くの屋根に陽が滲んでいる。
「妹も私もずいぶん引き止めたんですけれど……もう春になりますし、声変わりも終わって、これ以上は留まる理由がないと。祖父と母は、冬になったら戻って来るように言いました。バルドも毎年そうしていたからと」
「そうかい。アラナ夫人は何かおっしゃっていた?」
「長く引き留めて悪かったと仰っていたそうです。妹の話では、ずっと本当の親子のように過ごされていたとか――」
ジーンはそっと目を閉じ、書類を机に置いた。
顎に手を添えたまま、思索の底を覗くように沈黙する。
外で小鳥が鳴き、枝葉が風に揺れた。羽音が、遠ざかっていく。
「……あのさ、コンラッド。あくまで仮説なんだけどね。ウィラード殿下とトーマが――双子だった、という可能性はないかな?」
空気が震えた。
コンラッドの喉がひくりと鳴り、指先の血が一気に引く。
「ウィラード殿下と……トーマが? 似ていないと思いますが」
エル・カルドの血を濃く引くウィラード。
対して、ローダインの面影を宿すトーマ。
似ているどころか、まるで別の系譜に見えた。
ジーンの突飛な発想には慣れていたが、今回は慎重さを要する、とコンラッドは思う。
「双子だからといって、全員が似ているわけじゃないだろう? もしそうなら、アラナ夫人の行動も、バルドの振る舞いも、多少は筋が通る。証拠なんて何もないけどね」
長椅子のアルドリックが眉をひそめ、のそりと体を起こした。
「仮に双子だとして、なぜアラナがバルドに赤子を預けるんだ?」
ジーンは椅子にもたれ、頬杖をつく。
背に光を受け、表情は影に沈んだ。
「ローダインでも大昔は双子は忌み子とされ、殺されることが珍しくなかったそうですよ。十五年前といえば、エル・カルドが開国して十年ほど。古い因習が残っていても不思議じゃありません」
その目は、遠い時代を透かすように細められた。
「……双子だと言い出せない、理由があったのかもしれませんね」
風が止む。部屋が凪ぐ。
時間までもが呼吸をやめたようだった。
沈黙が重くのしかかり、コンラッドは思わず息を漏らす。
「もしそれが事実なら、大変なことです。どうすれば――」
「一旦、忘れよう」
「え?」
驚きに目を見開くコンラッドへ、ジーンは静かに言葉を継いだ。
「コンラッド。私たちの仕事は覚えることだけじゃない。時には、忘れることも必要だ。アラナ夫人が沈黙を選んでいるのなら、私たちが真実に触れる術はない。忘れよう。――それでいいですね、陛下」
促されて、アルドリックがグラスを傾ける。
「そうだな。幻の甥っ子、か。せっかく自由にいられるんだ。わざわざこんな窮屈な所に戻る必要もない。……で、ジーン。俺はいつになったら自由になれるんだ?」
「一生、無理じゃないですか?」
顔を上げずに、さらりと言い放つ。
「……え? 一生?」
アルドリックが目を剥く。
「まあ、ボケたら誰かが皇帝の座から引きずり降ろしてくれますよ」
「…………酷い」
空のグラスを胸に抱いたまま、アルドリックは屍のように長椅子へ沈んだ。
ジーンはくすりと笑い――次の瞬間、表情を引き締めた。
「……コンラッド。君は親友に“死んでこい”と言えるかい?」
「え? 急にどうしたんですか?」
唐突な問いに、コンラッドは手を握り締める。
ジーンはその反応を確かめるように、短く息を整えた。
「陛下は、時にそれを言わねばならない立場だ。昔、君の父君に言ったようにね。そして私たちの役目は、その判断を支えること。武勲とは無縁。むしろ邪魔だ」
緑の瞳が、氷のように冴え渡る。
「君の立場も、才能も、血筋も――戦場なら輝くだろう。だが、ここでは埋もれる。それでもやる覚悟はあるかい?」
空気が張り詰めた。
「ジーン。わたしはその覚悟でボドラーク砦でもやってきたつもりです」
「影響は君だけじゃない。家族にも及ぶよ。オーレリア夫人がそうであったように」
「……家族は受け入れてくれるでしょう。ここは――父がいた場所ですから」
コンラッドは部屋を見渡した。
古い木の匂い。乾いた紙の音。
記憶にない父が、確かに存在した場所。
外では、鳥の声が柔らかく春を告げていた。
「……今回の一連のことは、表には出ない。いいね」
「承知しています」
ジーンは深く息を吸い、声を張る。
「さあ! いつまで屍になってるんですか! 謁見の人が待ってます! さっさと仕事に戻ってください!」
「……嫌だ。仕事したくない」
アルドリックは長椅子にしがみつき、哀れな声を上げた。
コンラッドが退出したあと、静寂が戻る。
部屋の空気は緑の香に満たされ、時間だけがゆっくりと流れはじめた。
アルドリックは寝転がったまま、天井を見つめる。
「……で、本当のところはどうなんだ?」
「何がです?」
「お前さんが、この状況を放っておくはずがないだろう?」
ジーンは手を止め、赤髪をほどいた。
光を受けたそれは、火のように揺れた。
山積みの荷の中から小さな陶器瓶を取り出し、戸棚からグラスを二つ。
琥珀色の液を注ぎ、片方をアルドリックに差し出す。
「……トーマには、すでに人をつけています。当時の産婆も捜しているところです」
火酒の香が立つ。アルドリックはゆっくりと喉を鳴らした。
「コンラッドは、知っているのか?」
「……いいえ」
ジーンは首を振り、グラスを一気にあおった。
強い酒が喉を焼き、瞳の奥に熱が宿る。
「彼は信用できないのか?」
「まさか。そうじゃありませんよ。……私が迷っているんです。彼をここで使うことにね。――彼は本来、陽の下を歩くべき人間ですから」
窓の外で、風が再び枝を揺らした。
春の気配が、緑の部屋に静かに戻ってきた。




