057-2 急転直下 ローダインにて⑪
白い門の向こう、邸宅の影がゆっくりと浮かび上がる。木々は闇に沈み、夜の気配を帯びた風が舞った――その静寂を、鋭い叫び声が裂いた。
「侵入者、複数!」
風が一瞬止まり、空気がざらりと震える。ニケと衛兵たちは即座に動いた。訓練された足音が石畳を駆け、門前の静けさは一瞬で戦の匂いに変わる。しかし、その機敏さをもってしても、数人の影はすでにアラナ夫人の屋敷内へ滑り込んでいた。侵入者たちは、どこまでの人数なら対応できるかを熟知している――まるで事前に図面でも手にしていたようだった。
屋敷は瞬く間に混乱に包まれ、奥の方からは悲鳴と家具の倒れる音が響く。アルドリックは思わず歯を食いしばり、声を張った。
「やられた! 先手を打たれた!」
コンラッドとジルが命を受け、躊躇なく屋敷へ駆け込む。玄関の奥に散った足跡、油の焦げたような匂い。侵入者たちは町人のような粗末な上着に身を包んでいたが、その動きには明らかな意図があった。
「ジル! できるだけ殺さずに!」
短くうなずくジル。コンラッドのその言葉が、慈悲ではなく“利用価値の維持”を意味することを理解している。
生かしておくのは、口を割らせるため――それだけだ。
そして、話を聞き出すために待つ運命は、死よりもなお残酷なものだと、彼は知っている。
(いくら貰ったか知らんが……バカな連中だ。“トカゲの尻尾”になるだけだ)
廊下に満ちる緊張を切り裂くように、ジルは一歩踏み出した。
空気がわずかに沈黙する。
うろつく男を見つけると、音もなく背後へ回り、襟首を掴んで石床へ叩きつける。肉のぶつかる鈍い音が石床を伝い、空気が短く震えた。腕をねじり上げると、骨の軋む音が空気を裂いた。
男の悲鳴が石壁に反響する。ジルの呼吸は乱れず、ただのたうち回る男を見下ろした。そのまま振り返りもせず、コンラッドの背を追った。
途中、廊下に倒れた別の侵入者を見かけたが、視線だけを落とし、足を止めなかった。
奥の部屋――重い扉の向こうから、金属が激しくぶつかり合う音。
扉を開くと、コンラッドが書棚の前で剣を構え、ひとりの男と対峙していた。
その男は他の者とは違った。立ち姿が違う。重心の置き方が、呼吸が、まるで戦場の兵だ。
剣を交えるたびに、火花が散り、空気が切り裂かれる。
強い。そう言っていい。だが、コンラッドの眼は怯まない。むしろ深く静まり、獣のような集中で間合いを詰めていく。
わずか数合ののち、男は押し倒され、剣を弾かれた。
(強い……)
ジルは息を詰めて見ていた。静かな構え、淀みのない動き――そして呼吸が乱れない。
その姿に、かつて見た上官の影を重ねる。
体格で勝る分、実戦ではコンラッドの方が上かもしれない。
この人は、ゼーラーン将軍の孫。幼少から、刃と共に生きることを叩き込まれた者。
衛兵たちが捕らえた男を引きずって出ていく。その足音と入れ替わるように、アルドリックが駆け込んできた。
部屋の奥――書棚の方を見て、声を掛ける。
「アラナ。もう大丈夫だ。出ておいで」
沈黙ののち、書棚の脇の隠し扉が軋みを上げて開いた。
アラナ夫人がトーマを伴って姿を現す。淡い灯がその頬を照らし、まだ怯えの残る瞳がアルドリックを捉えた。
「陛下……」
「良かった。二人とも、怪我はないね」
その時、奥からエディシュの声がした。
「お兄ちゃん、手伝って!」
コンラッドが飛び込むと、隠し部屋の床で女官を押さえつけているエディシュの姿があった。
「こいつ、アラナ夫人を殺そうとした!」
床には転がる短剣。女官はアルドリックの姿を見るなり、観念したように力を抜き、泣き崩れる。
「申し訳ありません……仕方がなかったのです。脅されて……お慈悲を……」
その声は、風に散るようにか細かった。
彼女は引きずられるように、衛兵に連れられ行った。
「よくやったね」
アルドリックの言葉に、エディシュは静かにドレスの裾をつまみ上げた。
久しぶりに、自分が誰かを守れた。胸の奥に、小さな火がともる。
けれどそれは、過ぎ去った日々の光にも似ていた。
トーマはアラナ夫人の側を離れ、静かに歩み出た。かつて無邪気に笑っていた面影が、もうそこにはない。その立ち姿は吟遊詩人というより――王族のようだった。
――もう、あの頃のように頭を撫で回すことはできない。
エディシュの胸に、淡い寂しさが沈む。
「エディシュさん。ありがとうございました。あなたがいなければ、ここまで逃げられませんでした」
「いいのよ。みんな無事でよかったわ。……それより、トーマ、声がもう大人ね」
トーマは喉に手を当て、少し照れたように笑った。
その仕草に、アラナ夫人はそっと目を細め、慈しむような視線を向けた。
やがて、アラナ夫人はアルドリックに連れられ、トーマはコンラッドたちと共にゼーラーン家へ戻ることになった。
焦げた匂いと、壊れた家具の影だけが残る。
夜風がそれらを撫で、すべてを遠い出来事へと変えていった。
静けさの中、誰の息遣いも、もうなかった。




