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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第九章 迫りくる影
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057-1 急転直下 ローダインにて⑪

 コンラッドとジルは、アルドリックの執務室へ向かっていた。

 歩き慣れた中庭を横切るたび、土を踏みしめる音が夕風に混じって消えていく。古い石畳には、昼の温かさがまだかすかに残っていた。だが風は春の気配を押し戻すように冷たかった。


 日の傾きかけた回廊には、光と影が帯のように交錯し、柱の列が深い呼吸をしているようだった。


「ジル。誰かに喋りたくて仕方ないって顔をしてるよ」


 どこか憂いを含んだ声に、ジルは慌てて顔を引き締めた。しかし口の端の震えはどうにも止まらない。息がこぼれそうになるたび、手のひらで口を押さえる。


「す、すいません。そんなつもりは……」


「変な話を聞かせたね」


「いえ。コンラッドさんは、エディシュさんとディランさんが一緒になってくれればって、思ってたんですか?」


 歩みがわずかに緩み、コンラッドは苦笑を浮かべた。

 肩を落とす仕草はどこか疲れて見えた。胸の奥で古い希望の欠片が、まだ燻っているようにも感じられた。


「以前はね。無理だとはわかってた。でも、エディシュもどこか納得していないようで、少しだけ期待したんだ……まさか、あそこまで拒絶されるとはね」


「ディランさんの方は――」


「なーんか君たち、楽しそうな話してるね」


 アルドリックが柱の陰からひょっこりと顔を出した。

 その隣に、あきれ顔で腕を組むジーンがいる。二人の顔に、長い会議の影がまだ落ちていた。


「盗み聞きはおやめなさい、陛下。はしたないですよ」


 ジーンの声は静かで、冷ややかだ。

 アルドリックは虚ろな目で宙を見つめながらぼやいた。


「今日はずっと会議で、おっさんたちに虐められてばっかりだったから……潤いが欲しい」


「なぜ会議で干涸らびるんですか。さっさと執務室へ行ってください」


 そのやり取りに、コンラッドは思わず肩をすくめる。

 皇帝へのあまりに雑な扱いに、ジルは驚いて目を見開いた。


 ジーンに叱られたアルドリックは、少年のように口をとがらせながら歩き出す。


「じゃあ、コンラッドさん。俺は中庭で待ってます」


 その場を離れようとしたジルの腕を、アルドリックが素早く掴む。

 その動きは、皇帝とは思えない身の軽さだった。


「いやいや、君もいい加減、俺に慣れてくれよ。もう何度も顔を合わせてるだろう? そんな風に邪険にされると傷つくんだけど」


「いえ……俺は、ただの傭兵ですから」


「俺だって、ただの皇帝だよ。さあ行こう。そして楽しい話を聞かせてくれ」


 コンラッドとジルは、引きずられるようにして執務室へと連れて行かれた。


         ◇ ◇ ◇


 アルドリックの執務室には、暖炉の残り火の匂いと葡萄酒の甘い香りが、静かに空気の底を満たしていた。窓辺には、夕陽の名残がかすかに滲んでいる。

 

 四人は革張りの長椅子に向かい合って座ると小姓が音も立てずにグラスを配る。アルドリックは子供のように目を輝かせてコンラッドとジルを見つめた。


 観念したように、コンラッドはエディシュとのやり取りを語り始めた。

 話が進むにつれ、アルドリックの顔がどんどん崩れていき、やがて腹を抱えて笑い出した。


「そうか、そうか。エディシュはそんなことを言ってたか。確かに、あの頃のディランはセクア殿そっくりの美少女だったな」


 笑い転げる皇帝を、ジーンは葡萄酒を口にしながら冷ややかに見下ろす。


「あの時は、結構な騒ぎでしたね。セクア様の“息子”が帝都に来るって話なのに、なぜみんな“息子”の部分を忘れるんでしょうね。人の頭って、都合よくできてるもんです」


 アルドリックは涙を拭きながら、まだ笑いの余韻を残してグラスを持ち上げた。


「ディランも驚いただろうな。帝都に来ていきなりそんな騒動じゃ」


「いえ、手紙や花束は母が『まだ早い』といって、すぐに回収していました。本人は何が起きたか、よくわかっていなかったかと」


「オーレリアらしいな。まあ、そんなのは一時のことだ。今じゃ立派な指揮官だ。それでもエディシュは、昔のことを気にしているのかな?」


「年頃の女の子は繊細なんですよ」


 ジーンが静かにグラスを回す。

 葡萄酒の紅が、灯の下で深く揺れた。


「そんなの、男だって同じさ。端から見れば笑い話でも、当人にとっちゃ勝手に騒がれてたまったもんじゃない。……で、ディランの方はどうなんだ? やっぱりエディシュは駄目か?」


「駄目というか……“無理”と」


 短い言葉に、部屋の空気が微かに重くなった。

 アルドリックはグラスの縁を指で叩きながら、眉を寄せる。


「うん? 近すぎて家族みたいだからか?」


「いえ……あの、エディシュが私に似ているので“無理”と。それが、どういう意味なのか……」


 沈黙。

 やがてアルドリックが、遠くを見ながらぽつりと呟いた。


「……ああ、それ、わかる」


「陛下?」


「昔ね、結構な美女と知り合って、彼女の家に行ったんだ。そしたら親父さんが出てきてね――これが見事にハゲてんの」


 アルドリックは頭を指差し、重々しくうなずいた。

 その真顔が逆におかしくて、ジルは噴き出しそうになるのをこらえる。


「で、親子なだけあって、やっぱり似てるんだよ。そうするともう、美女を見ても親父さんのハゲ頭がチラついて、気持ちが萎えるというか……」


 会議の鬱憤を晴らすように、アルドリックは饒舌だった。

 コンラッドもジルも、もはや表情を保てず、無心で話を聞き流すしかなかった。


「いやぁ~まさかディランと気が合うとは。帰ってきたら一緒に酒でも――」


「そういう年寄りの昔話は、若い人が嫌がりますよ」


 ジーンの乾いた声が、笑いに釘を刺した。


「と、年寄り? 俺、まだ五十だよ」


「もう五十だと言ったり、まだ五十だと言ったり。都合のいい頭ですね。それにその話、レダ様の耳に入っていいんですか?」


 アルドリックの視線が宙を泳ぐ。

 その沈黙に、場の空気がひと呼吸だけ柔らいだ。


「……はい、もう充分潤ったでしょう。コンラッド、放っておいていいから。何か気になることがあるんだろう?」


 促され、コンラッドは姿勢を正し、ジルの集めた噂話を伝えた。

 


「――そうか、噂になってるか。隠し子騒動」


 だがアルドリックの口元には、どこか楽しげな笑みが残っていた。


「この際、隠し子騒動はどうでもいいでしょう。それよりアラナ夫人への中傷が、これ以上酷くならないようにしないと」


 ジーンの目の奥に、氷のような光が走る。

 笑いの余韻が消えると同時に、アルドリックの瞳が鋭さを取り戻した。

 

 皇帝としての貌が、静かに浮かび上がる。

 


「噂ってのは、人をとんでもない行動に駆り立てるからね」


 コンラッドは拳を握りしめた。


「トーマを引き揚げたいのですが。――できればアラナ夫人も避難を」


「わかった。今からアラナの所へ行こう」


「今からですか?」


 グラスを置く音が、静寂を切り裂く。

 アルドリックの表情が引き締まり、皇帝の貌に戻る。


「侵入を試みる者がいるなら、早い方がいい。アラナもしばらくレダの所に行かせた方がよさそうだ」


 こういう時のアルドリックは、迷わない。

 その即断に、コンラッドは胸の奥で安堵を覚えた。

 この人はやはり、経験という名の重みを持っている。


 アルドリックは先触れも出さず、コンラッドとジルを伴って、皇弟夫妻の邸宅へと向かった。

 夜気が回廊を渡り、扉が静かに閉まる。

 そのあとも、葡萄酒の甘い香りだけが、残っていた。

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