056 エディシュの選択 ローダインにて⑩
次の日、コンラッドはジルを伴い、アラナ夫人の邸宅を訪れた。
白い鉄門を押し開けると、春先の風がふわりと頬を撫でる。
芝の向こうでは、白と薄紅の花が咲き競い、まだ冷たい空気に、土と緑の匂いが混じっていた。
ひと冬を越えた屋敷は静かで、どこか眠たげな光に包まれている。
遠くで小鳥の声がして、それさえも春の目覚めを告げているようだった。
応接室の扉を開けると、エディシュとニケが待っていた。
昼の光がレース越しに射し込み、ニケの銀髪を淡く透かしている。
花瓶の中で白い花弁が光を受け、ゆっくりと揺れた。
「アラナ夫人とトーマの様子は、どうだい?」
コンラッドが腰を下ろしながら尋ねると、エディシュは小さく肩をすくめた。
「相変わらずね。トーマもすっかり、ここに馴染んでる」
隣の部屋から、クラリッツァの柔らかな音が流れてくる。
弦の震えが空気を渡り、花の香りと一緒に漂ってきた。――トーマが弾いているのだろう。
その音が、午後の光をやわらかく撫でていた。
「ただ、夕べちょっと……」
エディシュの目がわずかに曇り、ニケへと向けられる。
ニケは膝の上で手を組み、慎重に言葉を選んだ。
「昨夜、柵を乗り越えようとする輩がおりました。こちらの顔を見るなり、逃げていきましたが……」
「柵を……?」
コンラッドの胸に、ぞくりと冷たいものが走る。
脳裏の奥で、何かが警鐘を鳴らした。
――ただの好奇心ではない。試している。こちらの出方を。
「どんなやつらだった?」
「町人の格好でしたが、暗くてはっきりとは……」
ニケがかすかに首を振る。
コンラッドは前のめりになり、低く声を落とした。
「……アラナ夫人も、ここにいると危険かもしれない。別の場所に移ってもらえるよう、陛下に相談してみるよ」
「トーマじゃなくて、アラナ夫人が?」
エディシュの声が一段高くなる。
コンラッドは人差し指を立てて制した。
――誰かが、この混乱を利用して、アラナ夫人を排除しようとしている。
その予感が、背骨の奥で鋭く疼いた。
「ニケ、もう少しの間、頼んだよ」
「お任せ下さい」
ニケが深く頭を下げる。
張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。
窓の外で風が庭の花を揺らす。
春の光が、少し穏やかに差し込んだ。
危険の話題が去ると同時に、別の重さが胸にのしかかる。――エディシュの婚約のことだ。
コンラッドは表情を引き締め、母からの伝言をエディシュに伝えた。
「先方との顔合わせは、ここが落ち着いてからにするって」
「……そう」
エディシュは短く返し、目を伏せた。
カーテンの影が頬をなぞり、沈黙がふわりと間に落ちた。
気乗りのしないその反応に、コンラッドは少しの逡巡のあと、思い切って口を開く。
「エディシュ。もし今回の結婚が嫌なら――」
「嫌なわけじゃないって! そうじゃないの!」
声が鋭く跳ねた。
エディシュの胸の奥で、もやのようなものが弾ける。
それが何なのか、自分でも掴めない。掴めないまま言葉にされることが、ひどく癇に障った。
「エディシュさん。もしかして、他に気になる人がいます?」
ジルが半ば冗談めかして言う。その軽さが余計に刺さった。
「……いないし。そんな人」
短く切り捨てるように言うと、コンラッドが眉を寄せた。
彼にはただ、妹の気まぐれな不満にしか見えなかった。
「本当に? お相手が気に入らないなら……例えば……ディランとか……駄目かな?」
心臓が跳ねた。
ほんの一瞬、息が詰まる。
胸の奥の古傷を、誰かに踏まれたようだった。
よりによって、なぜその名前なのか。
エディシュの中で、少女の自分が目を覚ます。
次の瞬間、椅子を蹴るように立ち上がった。
頬がぱっと紅潮し、怒りの熱が一気に昇る。
窓の外の光さえ白くにじんだ。
「はあ!? ディラン!? なんであいつの名前が出てくるのよ! お兄ちゃん、それ一番ないから!」
その気迫に、三人は息をのんだ。
空気が凍りつく。花の香りさえ遠のいた。
ニケが少し眉を動かし、穏やかな声で言う。
「エディシュ殿。そんなに嫌がるようなことでしょうか? お互い子供の頃から、よくご存知の仲でしょう」
「そうですよ。別に、おかしくは……」
ジルも気まずそうに肩をすくめる。
重苦しい空気が、部屋を沈黙で満たした。
背を向けたまま、エディシュが小さくつぶやく。
「……ジル、ニケ。あんたたちは、昔のディランを知らないから……」
うつむいた横顔の影が、絨毯に落ちる。
拳が膝の上で震えていた。
「昔……といいますと?」
ニケの声が静かに響く。
エディシュの喉がひくりと動いた。
「ディランが、帝都に……うちに来た頃!」 「何か、あったんですか?」
ニケとジルが身を乗り出す。
エディシュは唇を噛み、やがて吐き出すように言った。
「あの頃……あいつは、あたしより小さくて……絵に描いたような美少女だった!」
二人の表情が止まる。――理解が追いつかない。
視線がコンラッドへと向かう。
兄は苦笑いしながらうなずいた。
「勘違いした奴らが毎日のように、うちに手紙や花束を届けてきてな。お母様と執事が、誤解を解いて回るのが日課になってた」
エディシュの口はもう止まらない。
「中には、“もう男でもいいから渡してくれ”って言って、手紙を預けてくるやつまでいて――」
言葉が途切れる。
二人はもう理解を放棄し、ただ静かに頷いた。
エディシュは拳をぎゅっと握り締め、唇を震わせる。
「あんまり腹が立つから、その手紙を持って、そいつの親にチクってやったの。――そしたら、そいつ……いつの間にか帝都からいなくなってた」
「……ひ、酷い。俺がそんなことされたら、一生部屋から出ないかも」
ジルは両手で顔を覆った。
エディシュは勢いよく振り返り、詰め寄る。
「酷いのはどっちよ! あたしだって、一通くらい手紙もらいたかった! 花束や手紙が目の前を素通りしていくたび、どれだけ惨めだったかわかる? あいつと一緒にいたら、一生こんな思いをするのよ。絶対に嫌!」
言葉の余韻が、部屋に長く残った。
春の光が揺れ、風がレースを鳴らす。
そのきらめきの向こうで、誰もが黙った。
「それじゃあ……」
コンラッドがおそるおそる言葉を探す。
「ちゃんと会うから心配しないでって。お母様にそう伝えて」
エディシュは顔を背けたまま、短く返す。
「わかったよ」
コンラッドはジルを連れ、静かに部屋を出た。
扉が閉まる音が、妙に遠く聞こえた。
残された空気が、しばらく震えもせずに漂っていた。
花の香りがかすかに残り、春の気配が遠のいていくようだった。
外の世界は、もう次の季節へ歩き出している。
残されたエディシュは、胸の奥に残る重たいもやを抱えたまま、息を吐いた。
兄は仕事はできるが、女性の心には鈍い。……いや、男たちはみんなそうだ。
だが、この不透明な気持ちは、結婚のせいだけではない。
結婚が嫌なわけでもない。子供だって、いずれは欲しい。
なのに、心の奥で何かが引っかかっている。
――兄やジルの言葉が、まだ胸に残っている。
けれど、それ以上に心を締めつけるものがある。
(子供……)
ふと、エル・カルドで見た孤児院の子供たちの姿が脳裏をよぎった。
雪の中で頬を赤らめ、笑い合う少女たち。
吐く息が白く、光に溶けて消えていく。
(そうだ、孤児院……)
あの時、無理を言ってでもシルヴァに頼んで見ておけばよかった。
結婚してしまえば、もう行けないかもしれない。
〈聖剣の儀〉が終わったらまた連れて行ってもらおう――そう思っていたのに、突然の離任でそれも叶わなかった。
(お父様の作ろうとした孤児院を、この目で見たかった。
ううん、孤児院だけじゃない。エル・カルドという国を、人を、もっともっと見たかった。
お父様が命懸けで守ろうとしたものを……)
エディシュは、ようやく霧の向こうにある自分の想いの輪郭に、そっと触れた気がした。
胸の奥が、静かに熱くなる。
それは、あの日の雪の光にも似ていた。




