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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第九章 迫りくる影
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055 現実となる懸念 ローダインにて⑨

 帝都の空は、鉛を溶かしたような灰に沈んでいた。

 冬はまだ居座り、風は頬を刺すほど冷たい。吐く息は白く、すぐに空へ溶けて消える。

 けれど枝先には、わずかに芽がふくらみ、薄い皮の下で春がかすかに脈を打っていた。


 曇った窓の外を一瞥してから、コンラッドは机上の書類へ視線を戻す。

 ジーンの執務室には、いつもの静謐があった。

 皇帝の補佐官の机には、帝国各地から届く報告が積み重ねられ、それらを読み解き、見解をまとめることが彼の日課である。


 室内を満たすのは、紙の擦れる音と、薪の爆ぜる乾いた響きだけ。

 灰色の外気をそのまま閉じ込めたような静けさの中、ジーンは背もたれに身を預け、届いたばかりの報告書を手にしていた。

 机の上では崩れかけた書類の山が影を落とす。

 だが、その乱れを前にしても、横顔には焦りの影ひとつない。


 火の粉が短く舞い、壁を照らす光が揺れる。

 その明滅に合わせるように、ジーンが静かに息をついた。


「腑に落ちないねえ」


 柔らかな声が、室内の静寂をわずかに震わせる。


「何がでしょうか?」


 コンラッドは顔を上げる。

 ジーンは崩れかけた書類の山を片手で押さえ、もう一方の手で一枚の報告書を差し出した。


 ――トーマに関する報告書。


「バルドの行動だよ」


 ジーンは紙を指先で軽く叩く。

 その仕草が、言葉よりも重い疑問符のように見えた。


「トーマを預けていた家を調べさせたんだけどね。家の者は、何も話さなかったそうだ」


 コンラッドは報告書を受け取る。

 まだ新しいインクの匂いが漂った。

 ざらりとした繊維の感触が、指先に残る。


 ジーンは再び背もたれに身を預け、炎の奥を見つめた。


「預けられた先は、それなりに裕福な家らしい。

 なのに養子にしたわけでもなく、年頃になるとバルドが引き取っている。

 礼儀、語学、音楽、旅の心得――ありとあらゆることを、手ずから教え込んだようだね」


 その声の底には、火のような熱が潜んでいた。

 ぱちり、と薪が弾け、二人の影が壁に揺れる。

 疑念そのものが、空気の中で形を変えていく。


 コンラッドは報告書の行を追う。

 滲む文字の隙間に、少年の姿が浮かぶ。

 礼節をわきまえ、旋律を奏でる穏やかな瞳。

 ――偶然では育たない、品と静けさ。


「拾った子供というのなら、養子に出せばよかった。けれどバルドはそうしなかった」


 ジーンの声が沈み、空気が一段引き締まる。


 沈黙の中で、遠く鐘の音が響いた。

 

 ――『黄昏の神の鐘』。


「彼はトーマを“拾った”んじゃない。おそらく、“誰かから預かった”んだよ」


 静寂が、音もなく崩れ落ちた。

 コンラッドの喉が鳴り、指に力がこもる。

 暖炉の火が揺れ、紙の端が淡く光を吸う。


「“誰か”……というのは」


 掠れた声が、息と共に滲む。


 ジーンの口元がわずかに持ち上がる。

 炎の揺れが、その影を深くした。


「誰だろうねえ。少なくとも、陛下じゃないことは確かだけど」


 火が爆ぜ、灰が一片宙に舞う。

 揺らめく光の中、コンラッドの胸に重いものが落ちた。

 知ってしまった痛みと、まだ知らぬ恐れ――

 その両方が同じ形をして、彼の中で重なっていた。


 ジーンは報告書を取り、暖炉へ投げ入れる。

 紙が翻り、炎に飲まれていく。

 一瞬、焔が羽ばたくように広がり、壁を照らした。

 光が沈むと、灰の匂いだけが残った。


「まあ、憶測に過ぎないけどね。――今のところは」


 淡々とした声。

 けれど、その眼差しは遠い過去を見ていた。

 燃え残る灰が、赤く脈打つように光を宿す。


「さしあたっては、陛下の潔白を証明するために、昔の記録を当たってみるとしよう。

 その頃どこにいたのか、誰と接触していたのか――そこからだね」


 炎の中で、灰が音もなく崩れ落ちた。

 火はなお穏やかに燃え続けている。


「しょうもない仕事だと思うかい?」


 ジーンが振り返る。

 光を背にしたその顔は、影の中に沈んでいた。


「でも、放っておくと国を揺るがすことにもなりかねないんだよ」


「……私は、何をすれば」


 沈黙。

 薪の崩れる音だけが、時間を刻んだ。


「コンラッド」


 名を呼ぶ声は穏やかで、それでいて拒絶の響きを帯びていた。


「この件について、君の手を煩わすことはないよ」


 一拍。炎の光が、ジーンの瞳に淡く映った気がした。


「――それより君の友人からは、まだ何も言ってこないのかい?」


「はい」


 コンラッドは視線を落とす。

 ディランから便りがないのは、潜入が成功した証だと自分に言い聞かせていた。

 “大丈夫”――その言葉を繰り返すたび、体の奥で沈んでいく音を、自分だけが聞いているようだった。


「……行く先は、結界に閉ざされていると言っていました。そんな所へ送り込んで、良かったのでしょうか」


 ジーンは薪を一本、炎へ放り込んだ。


「いいも悪いもないさ。ほかの誰にも務まらない。彼に頑張ってもらうしかないだろう。

 彼も血筋としては七聖家の一員だ。――滅多なことは起きないはずだよ」


 火が弾け、橙の光がふっと広がる。

 燃えかけの木が形を保てず、ぱらりと崩れた。

 その音が、やけに遠くに聞こえた。


     ◇   ◇   ◇


 部屋を出ると、廊下の石が冷たく響いた。

 外では霧が灯をぼやかし、夜が街を飲み込もうとしている。

 暖炉の熱がまだ肌に残っていて、その落差が妙に現実的だった。


 コンラッドは馬車に乗った。

 暗い車内で座席に沈み込む。

 御者の掛け声が黄昏の空に響いた。


 同じ報告書を手にしても、導き出される考えは雲泥の差だった。

 ジーンの圧倒的な知に触れ、静けさの底で何かが軋んだ。


 帰るつもりで出した馬車を、別の方向へ向ける。

 ジルたちと以前行った安酒場――

 「あなたのような人が来る場所じゃない」と笑われた店だが、同じ身分の者がいないというだけで、心は軽くなる。


 脂の煙が立ちこめる店内は、外気よりも温かく、濁っている。

 笑い声と怒鳴り声が渦を巻き、床を打つ皿の音がそれを煽った。

 人の声と酒の匂いが絡み合い、現実の重さを取り戻していく。


 給仕の娘にエールと食事を頼む。目の前にエールの杯と表面が焦げた肉の皿が置かれた。舌に残る肉の苦さをエールで流し込んだ。


 ほどなくして、ジルが現れた。

 彼は馴染みの給仕に手を上げ、垂れ布のかかった小部屋を指す。

 二人は向かい合って腰を下ろした。


 垂れ布の向こうでは嬌声が響き渡る。コンラッドには、それが遠い場所でのことのように聞こえた。


 ジルはすっかり帝都の生活に馴染んでいた。若いせいか、辺境との違いも苦にしていない。むしろ、生き生きとしている。

 彼が大きな体を揺すると、古びた椅子は悲鳴を上げた。

 コンラッドは杯を傾ける。


「噂話くらい拾おうかと思ったんだけど……やっぱり君に任せた方がいいみたいだね」


 垂れ布を開け、給仕が杯を置く。泡がこぼれ、テーブルを濡らした。蝋燭が大きく揺れ、ジルの赤い髪を照らす。


「こんな場末の噂話なら俺に任せてください。でも、お偉いさんの会合は無理ですよ」


 ジルは笑い、声を落とす。


「……それより、ちょっと気になる話があって」


 コンラッドは身を乗り出した。

 ジルは街の酒場や浴場を渡り歩き、噂を拾うのが日課だ。

 二人がこうして話すのも、最近は外ばかり。自宅では話しづらいことも多かったのだ。


「……アラナ様のこと、噂になってきてますね」


 その言葉に、コンラッドは小さく息をつく。

 懸念していたことが、現実になりつつある。


「アルドリック陛下の隠し子騒動まで混ざってますよ。中には、トーマが陛下とアラナ様の子供じゃないかって話まで」


「それでは、ウィラード殿下の立場が……」


「噂なんて、事実より面白さですから」


 ジルは自嘲気味に笑い、杯を傾ける。


「――そろそろ潮時かな」


 コンラッドは呟いた。

 アラナ夫人のもとからトーマを引き上げる時が来た。

 放っておけば、火の粉がどこへ飛ぶか分からない。


「中には、アラナ様は皇弟殿下の妃に相応しくない、と言う者までいます」


 ジルの声が低くなる。


 体の内側が、すっと冷えた。


 帝国は四つの大国が手を結んで築かれた――ローダイン、サントフェルド、ルッカ、ベラノーシュ。

 どこかの糸が切れれば、均衡は容易く崩れる。


 アルドリックはローダインの、正妃レダはベラノーシュの出身。

 皇弟サディアスの妃には、サントフェルドかルッカから迎えるはずだった。

 だが、彼は突然エル・カルドから花嫁を選んだ。

 その瞬間から、綻びは静かに始まっていたのだろう。


 アラナ夫人の存在は、帝国の均衡を密やかに揺らした。

 微笑みと礼節で立場を保ってきた彼女が、

 今はまるで何かを覆い隠すように、あの少年に執着している。


 ジルの言葉が、酒の熱を奪うように胸に残る。

 噂の形をした刃は、静かに人の心を裂いていく。

 コンラッドはジルの赤い髪を見ながら、

 暖炉の火の残像――ゆらめく橙の光を、ふと思い描いた。


 霧の夜が、街の灯をひとつずつ飲み込んでいた。

 


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