054 夜の訪問者 城外の館⑧
馬車の車輪が、泥を噛んだ。
御者の鞭が一度鳴った。
鈍い音が、霧の底でくぐもる。
館は白く沈み、冬の名残がまだ息をしていた。
その日、ドナルの歩みは、ソリを離れた。
凍てた季節が、静かにほどけていった。
曇った窓の向こう、霧に溶ける木の枝が黒く伸びている。
おぼろげな白い光が、空気の粒を漂わせた。
まるで雪あかりの残響のように。
厚い扉の前で、フィオンは一度、息を整えた。
呼ばれた理由は分からない。胸の奥で、悪い予感だけが冷たく蠢く。
指先の熱を、廊下の空気があっさり奪っていった。
――ドナルの部屋。
その名を思うだけで、背筋に硬い冷気が走る。
ノックの音がやけに重く響き、返事の代わりに扉がゆっくりと開いた。
「……入れ」
低く抑えた声。
その冷たさは、外の霧よりも澄んでいた。
部屋は暗く、書き物机の上だけが白い光に撫でられている。
淡く青ざめた光の中で、ドナルは書簡を閉じ、拳で卓を軽く叩いた。
乾いた音が、壁際へ二度、滲むように広がる。
「彼の様子は、どうかね」
「はい。特にお変わりはありません。穏やかにお過ごしです。
もう結界を調べに出られることもなく、時々、書斎に籠もられるくらいです」
――鳥籠の鷹は、羽ばたくことすら忘れている。
ドナルの口の端が緩やかに持ち上がる。
視線がすっと、フィオンの右手に滑り込んだ。潰れたマメ。
その手を取ると、窓の光が指の節を青白く浮かび上がらせた。
「剣を習っているのか。ずいぶんと目をかけられているようだな」
冷たい声音に、フィオンは息を呑む。
叱責を覚悟して手を引くが、強くは止められない。
「誰かに教えを受けるのは悪いことではない」
意外な言葉に、体の緊張がわずかにほどける。
数年仕えても、この主がどんなことで怒るのか――まだ掴めない。
「だが、自分の役目を忘れてもらっては困る。お前の役目は?」
問いの刃が、空気を切った。
フィオンは唇を噛み、視線を落とす。
「ディラン様が……ここから逃げないよう、見張ることです」
「その通りだ」
短い沈黙。
ドナルは無意識に拳で再び卓を叩き、視線を宙にさまよわせる。
手元の鞭が鈍く光り、薄い静けさが部屋を覆った。
音が止む。
「あの男は、静かすぎる。裏で何を考えているか……」
その呟きとともに、彼は机の引き出しを開けた。
深い青の陶器の小瓶を取り出す。
白い光が瓶の曲面を撫で、指先に冷たい色を落とした。
青は空よりも澄み、底で金の粒が星のように瞬いた。
――この部屋には似つかわしくない、清らかさ。
「これは?」
息が詰まる。
フィオンの指先が怖じ気づく。それでも、ドナルの視線に押されるように瓶を受け取った。
「酒に混ぜて飲ませなさい」
低い声が、光を震わせた。
「すぐに効く。飲んでも気づかれはしない。
今夜は大切なお客様がある。彼にうろつかれては困る。――念のためだよ」
フィオンの喉が、ひくりと震えた。
小瓶を握る指が汗で滑る。
卓上の鞭が視界の端で光る。
言葉のひとつひとつが、鞭の音に似ていた。
「……飲んで、大丈夫なものでしょうか」
「大丈夫だ。少し眠るだけだ。いつも通りに振る舞いなさい」
それ以上、何も言えなかった。
フィオンは深く頭を下げ、逃げるように部屋を出る。
冷たい空気が扉の隙間から廊下へ流れ、足音だけが遠ざかった。
◇
夕方になり、厨房にはスープの匂いが漂っていた。
盆の上に葡萄酒の杯を置き、震える手で小瓶の栓を抜く。
――かすかな青い香り。
冷たい霧のように鼻を掠めた。
考えてはいけない。
一匙。
液体が酒に触れる。
それでも、胸の奥で何かが叫ぶ。
音はしない。
けれど空気が変わる。
見えない冷気が、肌の表面を撫でていった。
「フィオン?」
背後の声に振り向く。ルーイだった。
フィオンは肩をすくめ、笑顔を作る。唇の端がひきつる。
「これをお願い」
盆を持ち上げる手が、かすかに震えている。
光が酒面に揺れ、青の残滓が一瞬だけきらめいた。
(僕がやらなければ、この子たちは――)
胸の奥がざらつく。
喉の奥で何かが軋む。
冷たい指を膝の上で握りしめると、潰れたマメが痛んだ。
手のひらを開く。滲む血が、罪を測るように光る。
(これでいい。命じられた通りに動いただけ)
言い聞かせるたび、小瓶の音が頭の奥で鳴った。
やがて、ルーイが食器を下げる。
何も残っていない。
フィオンの心は不自然なほど静まり返っていた。
灯を手に暗くなった廊下を進む。
扉の隙間から漏れる細い光、寝台の影。
「ディラン様……」
そっと声をかけて扉を押す。
寝台の脇に沈んだ影を見つけ、駆け寄った。
腕を抱くと、温もりがあった。息がある。
――生きている。
安堵が喉を震わせる。
すぐに胸が締めつけられた。
寝台に寄せ上げ、掛け布を整え、黒髪を撫でる。
薄闇の中、白い顔が瞼を閉じ眠っている。
(ごめんなさい……ごめんなさい)
唇の裏で、声にならない言葉が擦れた。
◇
明け方。
霧はまだ重く、空の端がわずかに白んでいる。
手にした灯の光が、もう頼りなく見えた。
垂れ布の向こう、かすかな寝息。
確かめるように膝をつき、頬に触れる。
柔らかな肌の下で呼吸が動いた――その瞬間。
腕を掴まれた。
白みはじめた闇の中で、孔雀石の瞳がひらかれた。
その鋭い光に、息が止まる。
「……誰が来た?」
低い声。
鼓膜の奥で震え、思考が白く弾けた。
「あ、あの……」
「フォローゼル兵か?」
畳みかける声。
恐怖よりも先に、体が凍る。
「い、いいえ。フォローゼルの神官の方が……」
振りほどけないほど強く掴まれているのに、痛みすら感じない。
その瞳が、心の奥を覗くように射抜く。
「名前は?」
「ドナル様は……ネイリウス卿と呼んでおられました。
私は……飲み物を出しただけで……」
言ってはいけないとわかっていても、言葉が零れた。
指が離れ、力が抜ける。
「ああ、それで充分だ」
その声に、救いと恐れが同時に滲んだ。
「あの……お体は……」
「思ったより、後に残るな」
“思ったより”
その響きに、背の芯が冷える。
「……もしかして、わかっていて……」
「お前が、それを知る必要はない」
灯火が揺れ、頬の影が深く沈む。
「フィオン。騙し騙されは、お互い様だ」
その言葉に、胸が強く打つ。
「お前が罪悪感を持つ必要はない。
お前は私を利用し、私もお前を利用する。それだけだ」
冷たいのに、不思議と優しい。
だが『利用』という音が、胸の奥で軋んだ。
「ディラン様、私は……」
「ドナルは計画通りに事が運び、ご満悦だろう。
――それでいい」
背が、薄闇に沈んでいく。
布が静かに揺れ、灯だけが残った。
「もう寝る」
それだけを残し、声は途絶えた。
膝が震え、床に手をついて立ち上がる。
石の冷たさが足元から這い上がる。
開いたままの扉の向こうから、冷たい空気が流れ込んだ。
灯りを置き忘れたことにも気づかず、ただ壁を頼りに廊下を進む。
背後で、扉が静かに閉まる音がした。
――その音は、まるで彼の意志のようだった。
沈黙だけが戻る。
◇
霧はまだ地を這い、空の白みが少しずつ濃くなっていく。
薄い光が部屋に流れ込み、影を細く伸ばした。
ディランはゆっくりと身を起こした。
瞳は眠っていない。孔雀石のように冴えている。
葡萄酒の香りがまだ残っていた。
いつもと変わらぬ味、変わらぬ香り。
だが口の中に、わずかな違い。
水差しを手に取り、窓辺へ向かう。
明け方の光が霧に溶け、水差しの白にほのかな影を作る。
中身を外へと捨てた。
溶け残った雪が薄紫に染まり、草の中へ消えた。
(やはり、そういうことか)
口元がわずかに歪む。
寝台に戻り、空の水差しを置く。
背筋を伸ばし、思考を研いだ。
――必要なことは、知った。
ここを出て、コンラッドに伝えればすべて終わる。
この結界がどれほど厄介でも、所詮は人の作った檻。
(閉じられた扉なら、開けさせればいい。
開かぬなら、壊せばいい)
胸の奥で、静かに刃が光る。
外の光が、薄くその横顔を撫でた。
――夜が終わる。
そう思うと同時に、ディランはフィオンの残した灯を吹き消した。
闇はすでに力を失い、風が壁を撫でる。
遠くで鳥の声がかすかに響いた。
ディランは小さく息を吐き、目を細めた。
窓の外の霧が朝日に黄金色に染まる。
音が戻る中、彼はひとり、次の手を描いていた。




