053 王族の務め 二人の行方⑩
脱出用の縄が、ようやく完成した。
シルヴァは煤けた手のひらを軽く払うと、次の準備に取りかかった。
崖の下を見たときの印象では、エル・カルドまでは歩いて二日。崖を降りるのに半日として、三日分の食料が必要だ。
干し肉を袋に詰めながら、心の中でそっと計算を繰り返す。
だが、その指先の動きはどこか落ち着きを欠いていた。最近のウィラードの様子が、どうしても頭を離れない。
崖を降りるためのクサビは、鉱山の瓦礫の中から拾い集めたものだ。
手作りの装備には、どこか頼りなさが残る。それでも、やらねばならない。
最後に、ウィラードが聖剣を背負えるよう、鞘に革のベルトを通した。
火の明かりで影が揺れ、太い針が赤く光る。
「ウィル。これでどうだ?」
暖炉の前に腰を下ろしたまま、シルヴァは革の匂いの残る鞘を手渡した。
「ありがとう。シルヴァ」
ウィラードは静かに頷き、置いてあった聖剣を鞘に収める。その手は少し震えていた。
背中に背負ってみると、革のきしむ音がわずかに響く。長さはぴったりだった。
その様子を見ながら、シルヴァは胸の奥に小さな安堵を覚える。
だが、ウィラードの顔にはそれが浮かんでいなかった。
あの日──何かの影を見たと言って小屋に駆け込んできたあの日から、少年の目には眠気というものが消えている。
一晩に何度も目を覚まし、夢に落ちたかと思えば、すぐに息を詰めて目を開ける。
まるで、夜そのものが眠りを拒んでいるようだった。
青白く疲れ切った頬に、火の明かりが赤く反射する。
ウィラードは剣を背負ったまま、ぽつりとつぶやいた。
「僕は、本当に〈アレスル〉なのかな」
「何言ってんだ。ウィルは、ちゃんと剣を抜いたじゃないか」
シルヴァは笑って、散らかった道具を片付ける。
だが、背中で聞こえる声は弱々しく、外の風に消えそうだった。
「……ちゃんと……かな。なぜ、僕は剣を抜いたんだろう。僕には、抜けないはずなのに」
その言葉に、シルヴァの手が止まる。
火のはぜる音が、静かな部屋に広がった。
「……どういう事だ?」
ウィラードは虚ろな瞳で、少し俯いたまま語る。
「母様は、僕がエル・カルドへ来る前に『あなたは、〈アレスル〉にはならない』って言っていた」
シルヴァは息を呑んだ。
暖炉の火が揺れ、天井の影が波のように動く。
「アラナ夫人が? 何で、そんな事を……」
ウィラードが〈聖剣の儀〉で剣が抜けなければ、ローダインへ帰す。
その条件を出したのは、他でもないアラナ夫人自身。
だが、ウィラードの言い方では──まるで彼女は最初から、息子がアレスルになれないと知っていたかのようだ。シルヴァの胸にざわめきが広がる。
「僕にも、わからない。聞いても、教えてもらえなかった。でも……それで僕は、そのうちローダインへ帰るんだって思っていた。〈聖剣の儀〉も、形だけだと思っていた」
唇が震え、言葉が喉に詰まる。
それでも彼は、無理やり声を押し出した。
「……なのに……僕はもう、ローダインへは帰れないの? 母様は、僕をエル・カルドへ行かせるために、嘘をついたの?」
涙がぽろぽろと頬を伝い、膝の上に落ちる。
火の音が、彼の震えを包み込むようにぱちぱちと鳴った。
この大陸では、王族の子が他国で幼少期を過ごすことは珍しくない。
人質として、あるいは絆の証として。そこに本人の意思など存在しない。
それが、王族の務めだった。
「……もしかして、ウィルはエル・カルドへは来たくなかったのか?」
「……僕がどう思っても、決まった通りに物事は動く」
ウィラードは涙の飛び散るのも構わず、激しく首を振った。
「俺は、ウィルが来てくれて良かったと思っている。エル・カルドがこの先、生き残るためには、新しい考え方を持った人間が必要だ」
「僕に、そんな力はないよ。僕なんか……例えアレスルになれたって、みんな心の底では厄介者だと思っている。僕は、シルヴァとは違う! 望まれてエル・カルドにいる訳じゃない!」
十五歳の少年の声には、鋭い真実が混じっていた。
その若さで、彼は大人たちの計算や裏の思惑を感じ取っていたのだ。
シルヴァは張り詰めていた肩の力を抜いた。
「……ウィル。……嫌なら、ローダインへ帰ってもいいんだぜ」
「え?」
ウィラードは驚いて、涙の残る目でシルヴァを見上げた。
「俺も、偉そうな事を言えた義理じゃない。実際、俺は逃げた。外の世界を見たいとか言ってたけど──本当はアレスルでいるのが怖くて逃げたんだ」
シルヴァは、力の抜けた笑みを浮かべる。
火の明かりが、彼の頬の影を深くした。
「だって、アレスルってだけで、十五の子供が権限を持つんだぜ。昔の、結界に閉じられたエル・カルドなら、それでもよかったのかもしれない。でも今は……」
帝国の庇護の下にあるとはいえ、エル・カルドは脆かった。
風が小屋の隙間を鳴らし、冷たい夜気が壁を撫でていく。
「もし、ウィルがローダインへ帰りたいというなら、そうすればいい。他の奴らには、俺が話をする」
「でも、アルドリック陛下だって……」
「陛下とも話をする。あの人は、そこまで話のわからない人じゃないだろう?」
「……みんな……がっかりする。……母様だって……悪く言われる。エル・カルド人は、何のために王族がいるのか、わかっていないって。……王族の役目を理解していない、覚悟がないって……」
「がっかりさせておけ。ローダインとエル・カルドを結ぶのは、ウィルだけじゃない。それにもう十分、王族の役目は果たしただろう? 十歳から五年、頑張ったじゃないか」
ウィラードは唇を震わせ、喉の奥で声を押し殺した。
火がぱちりと弾け、二人の影が壁に揺れる。
二人の間に静寂が降りてくる。
「何にせよ、すぐに決める必要はない。そういう道もあるってことだ。俺は、アラナ夫人が嘘をついたとは思えない。きっと、理由があるんだろう。一度、ローダインへ戻って、話をしてくるのもいいんじゃないか? 後のことは、大人に任せればいい」
「……うん」
ウィラードの返事は、小さく、どこにでもいる十五歳の少年の声だった。
その一言に、シルヴァは息を詰めた。
結局、ウィラードにエル・カルドへ残ってほしいと願っていたのは、シルヴァだけだった。
本人が望んでいない以上、引き留めるのは酷だ。
他人に託して何とかしようという考えが、最初から間違っていたのかもしれない。
(そろそろ俺も、腹をくくるか……)
暖炉の光が消えかけ、赤い残火がゆっくりと灰の奥に沈む。
静けさの中、外から吹き込む風が、まるで遠い鐘の音のように微かに鳴った。
七聖家の宿命が、静かに、しかし確実にシルヴァの胸を締め付けていた。




