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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第九章 迫りくる影
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053 王族の務め 二人の行方⑩

 脱出用の縄が、ようやく完成した。

 シルヴァは煤けた手のひらを軽く払うと、次の準備に取りかかった。


 崖の下を見たときの印象では、エル・カルドまでは歩いて二日。崖を降りるのに半日として、三日分の食料が必要だ。

 干し肉を袋に詰めながら、心の中でそっと計算を繰り返す。

 だが、その指先の動きはどこか落ち着きを欠いていた。最近のウィラードの様子が、どうしても頭を離れない。


 崖を降りるためのクサビは、鉱山の瓦礫の中から拾い集めたものだ。

 手作りの装備には、どこか頼りなさが残る。それでも、やらねばならない。


 最後に、ウィラードが聖剣を背負えるよう、鞘に革のベルトを通した。

 火の明かりで影が揺れ、太い針が赤く光る。


「ウィル。これでどうだ?」


 暖炉の前に腰を下ろしたまま、シルヴァは革の匂いの残る鞘を手渡した。


「ありがとう。シルヴァ」


 ウィラードは静かに頷き、置いてあった聖剣を鞘に収める。その手は少し震えていた。

 背中に背負ってみると、革のきしむ音がわずかに響く。長さはぴったりだった。


 その様子を見ながら、シルヴァは胸の奥に小さな安堵を覚える。

 だが、ウィラードの顔にはそれが浮かんでいなかった。

 あの日──何かの影を見たと言って小屋に駆け込んできたあの日から、少年の目には眠気というものが消えている。


 一晩に何度も目を覚まし、夢に落ちたかと思えば、すぐに息を詰めて目を開ける。

 まるで、夜そのものが眠りを拒んでいるようだった。


 青白く疲れ切った頬に、火の明かりが赤く反射する。

 ウィラードは剣を背負ったまま、ぽつりとつぶやいた。


「僕は、本当に〈アレスル(選ばれし者)〉なのかな」


「何言ってんだ。ウィルは、ちゃんと剣を抜いたじゃないか」


 シルヴァは笑って、散らかった道具を片付ける。

 だが、背中で聞こえる声は弱々しく、外の風に消えそうだった。


「……ちゃんと……かな。なぜ、僕は剣を抜いたんだろう。僕には、抜けないはずなのに」


 その言葉に、シルヴァの手が止まる。

 火のはぜる音が、静かな部屋に広がった。


「……どういう事だ?」


 ウィラードは虚ろな瞳で、少し俯いたまま語る。


「母様は、僕がエル・カルドへ来る前に『あなたは、〈アレスル〉にはならない』って言っていた」


 シルヴァは息を呑んだ。

 暖炉の火が揺れ、天井の影が波のように動く。


「アラナ夫人が? 何で、そんな事を……」


 ウィラードが〈聖剣の儀〉で剣が抜けなければ、ローダインへ帰す。

 その条件を出したのは、他でもないアラナ夫人自身。

 だが、ウィラードの言い方では──まるで彼女は最初から、息子がアレスルになれないと知っていたかのようだ。シルヴァの胸にざわめきが広がる。


「僕にも、わからない。聞いても、教えてもらえなかった。でも……それで僕は、そのうちローダインへ帰るんだって思っていた。〈聖剣の儀〉も、形だけだと思っていた」


 唇が震え、言葉が喉に詰まる。

 それでも彼は、無理やり声を押し出した。


「……なのに……僕はもう、ローダインへは帰れないの? 母様は、僕をエル・カルドへ行かせるために、嘘をついたの?」


 涙がぽろぽろと頬を伝い、膝の上に落ちる。

 火の音が、彼の震えを包み込むようにぱちぱちと鳴った。


 この大陸では、王族の子が他国で幼少期を過ごすことは珍しくない。

 人質として、あるいは絆の証として。そこに本人の意思など存在しない。

 それが、王族の務めだった。


「……もしかして、ウィルはエル・カルドへは来たくなかったのか?」


「……僕がどう思っても、決まった通りに物事は動く」


 ウィラードは涙の飛び散るのも構わず、激しく首を振った。


「俺は、ウィルが来てくれて良かったと思っている。エル・カルドがこの先、生き残るためには、新しい考え方を持った人間が必要だ」


「僕に、そんな力はないよ。僕なんか……例えアレスルになれたって、みんな心の底では厄介者だと思っている。僕は、シルヴァとは違う! 望まれてエル・カルドにいる訳じゃない!」


 十五歳の少年の声には、鋭い真実が混じっていた。

 その若さで、彼は大人たちの計算や裏の思惑を感じ取っていたのだ。


 シルヴァは張り詰めていた肩の力を抜いた。


「……ウィル。……嫌なら、ローダインへ帰ってもいいんだぜ」


「え?」


 ウィラードは驚いて、涙の残る目でシルヴァを見上げた。


「俺も、偉そうな事を言えた義理じゃない。実際、俺は逃げた。外の世界を見たいとか言ってたけど──本当はアレスルでいるのが怖くて逃げたんだ」


 シルヴァは、力の抜けた笑みを浮かべる。

 火の明かりが、彼の頬の影を深くした。


「だって、アレスルってだけで、十五の子供が権限を持つんだぜ。昔の、結界に閉じられたエル・カルドなら、それでもよかったのかもしれない。でも今は……」


 帝国の庇護の下にあるとはいえ、エル・カルドは脆かった。

 風が小屋の隙間を鳴らし、冷たい夜気が壁を撫でていく。


「もし、ウィルがローダインへ帰りたいというなら、そうすればいい。他の奴らには、俺が話をする」


「でも、アルドリック陛下だって……」


「陛下とも話をする。あの人は、そこまで話のわからない人じゃないだろう?」


「……みんな……がっかりする。……母様だって……悪く言われる。エル・カルド人は、何のために王族がいるのか、わかっていないって。……王族の役目を理解していない、覚悟がないって……」


「がっかりさせておけ。ローダインとエル・カルドを結ぶのは、ウィルだけじゃない。それにもう十分、王族の役目は果たしただろう? 十歳から五年、頑張ったじゃないか」


 ウィラードは唇を震わせ、喉の奥で声を押し殺した。

 火がぱちりと弾け、二人の影が壁に揺れる。

 二人の間に静寂が降りてくる。


「何にせよ、すぐに決める必要はない。そういう道もあるってことだ。俺は、アラナ夫人が嘘をついたとは思えない。きっと、理由があるんだろう。一度、ローダインへ戻って、話をしてくるのもいいんじゃないか? 後のことは、大人に任せればいい」


「……うん」


 ウィラードの返事は、小さく、どこにでもいる十五歳の少年の声だった。

 その一言に、シルヴァは息を詰めた。


 結局、ウィラードにエル・カルドへ残ってほしいと願っていたのは、シルヴァだけだった。

 本人が望んでいない以上、引き留めるのは酷だ。

 他人に託して何とかしようという考えが、最初から間違っていたのかもしれない。


 (そろそろ俺も、腹をくくるか……)


 暖炉の光が消えかけ、赤い残火がゆっくりと灰の奥に沈む。

 静けさの中、外から吹き込む風が、まるで遠い鐘の音のように微かに鳴った。

 七聖家の宿命が、静かに、しかし確実にシルヴァの胸を締め付けていた。


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