052 黒い影 二人の行方⑨
ウィラードは、水辺でひたすら葦を刈っていた。シルヴァの言う通り、大変な仕事だった。腰は痛み、手は傷だらけになった。だが――自分がやると言わなければ、シルヴァはこれを一人でやるつもりだったのだ。
葦刈りの手を止め、ウィラードはゆっくりと腰を伸ばした。冷たい風が頬を撫で、湿った匂いが鼻をくすぐる。手のひらを見つめる。ひび割れ、擦り傷だらけの手は、まるで力仕事を生業とする人間のもののようだった。
ここへ来た当初は、鎌の握り方すら知らなかったことを思うと、信じられない気持ちになる。
だが――この手は確かに、自分が何かを“した”証だった。
働けば働くほど、生活が少しずつ豊かになっていく。
流刑地での暮らしは、意外にも悪くなかった。
だが、いつまでもここに留まるわけにはいかない。
エル・カルドへ戻ったとして、自分は――何をすればいいのだろう。
本当に〈アレスル〉なのか。
なぜ、自分は剣を抜いたのか。
――そんなはずは、ない。
腰の革袋から荒縄を取り出し、刈り取った葦の束をくるりと結んだ。
それを肩に担いで草むらに放り、葦束を枕にそのまま寝転ぶ。草地のひんやりした湿り気が背中を這い上がり、冬の残り香を運んでくる。
灰色の空から、ふわりと雪が舞い落ちる。
目を細めると、視界が白に染まり、めまいのような感覚が訪れた。
なぜか――無性にトーマに会いたくなった。
同じ年頃の子と他愛ない話をすることは、ほとんどなかった。
アルトの病が重くなってからは、ミアータ夫人は二人を会わせようともしなくなった。
だから、トーマと過ごした夜は、ひときわ鮮明だった。
あの夜、二人で奏でたクラリッツァの音。
不思議なほど息が合った。
あとで知ったことだが、ウィラードに教えた楽士の師は、宮廷に出入りしていたバルドだった。
人と人とは、意外なところで繋がっているのだと思った。
「眠れ、眠れ、時の中で、再び会うは、終わりの時……」
声が雪の空へ吸い込まれていく。
音も、風も、白に溶けていった。
まつ毛に触れた雪片が、溶けては消える。
世界のすべてが息を潜めている。
音のない時間が、胸の奥まで染み込んでくる。
「眠れ、眠れ、夢の中で、私の歌が、聴こえたなら……」
歌は不思議だ。誰かが決めたわけでもないのに、人の口を渡って生き続ける。
その起源を辿れば、どこかで“始まりの声”に行き着くのだろう。
「眠れ、眠れ、あなたの、いましめが、解き放たれる、その時まで……」
一番初めにこの歌を歌ったのは――誰だったのだろう。
その問いが、雪の静けさに沈んでいった。
……誰が?
雪の降り方が変わる。白が揺らぎ、輪郭が遠のく。
風が息をひそめ、空気の奥で何かが“目覚める”気配。
ウィラードは、そっと目を閉じた。
流刑地の静寂。
皇弟子でも、アレスルでもない、ただの自分。
その小さな存在を思うと、胸の奥に不安がじわりと染みていく。
――その時。
背に、草の湿り気とは違う冷たさが走った。
息を止める。
風がやみ、雪の音すら消える。
空気の奥で、何かが「立ち上がる」。
「ア……ア…………」
子供のような声が、静寂を裂いた。
ウィラードは弾かれたように飛び起きる。
目の前に――黒い影が立っていた。
いつも感じていた“あの気配”。
それが、今は形を持っている。
霧が息をするように集まり、人の輪郭を描く。
小さな子供の姿。
その顔のようなものが、ウィラードを見た。
そして――黒い手を、ゆっくりと差し伸べてくる。
「うわ!」
鎌も葦も投げ出し、雪を蹴って走った。
息が切れ、胸が焼ける。
振り返る勇気もない。ただ、あの影が追ってこないことを祈って。
小屋の扉を勢いよく開け放つ。
暖炉の前で縄を綯うシルヴァが、顔を上げた。
薪の爆ぜる音と荒い息だけが、小屋を満たす。
「ウィル、どうした? 顔が真っ青だ」
「変な影が……子供の形で……手を……」
ウィラードは切れ切れに言葉を搾り出した。
「落ち着け、ウィル」
シルヴァはウィラードを中に入れると外を覗いた。
見慣れた、何もない風景。
聞こえるのは、風が草をなでる音だけ。
「大丈夫だ。何もいない」
ウィラードは床に座り込み、歯を鳴らして震えていた。
異常なほどの怯え。
目は見開かれ、どこか遠くを見ている。
「ウィル。今日はもう終わりにしよう」
遠くで鳥がけたたましく鳴いた。
風が小屋を揺らしだす。
シルヴァは縄を置き、彼を老人たちのもとへ連れていった。
暖炉の光が小屋の壁を赤く染め――その影が、ウィラードの肩を包むように重なった。
スープがことことと音を立てて煮えている。
だが、ウィラードは何も反応しない。
その夜は、ただ静かに眠らせるしかなかった。
何かがこの流刑地に潜んでいる。
――この地で生き、死んでいった者たちか。
報われぬ思いを残した魂が、もしここにいるのだとしても、不思議ではない。
雪解月が近い。春が来る。
シルヴァは脱出の用意を急ぐことにした。
苦しげに眠るウィラードの寝顔を見つめながら、崖を降りる方法を考え続けた。
その夜、ウィラードは夢を見た。
母に別れ、クラウスと共にエル・カルドへ来た日の夢。
伯父アルドリックの言葉、ミアータ夫人の冷たい視線、弱っていくアルトの体。
逃げ出した自分を拾ってくれた砦の騎士たち。
そのすべてが、懐かしくも痛かった。
気がつくと、頬が濡れていた。
翌朝。
ウィラードはまたシルヴァと共に水辺へ向かった。
昨日放り出した鎌は、雪をかぶってそこにあった。
葦も変わらず風に揺れている。
幾日もかけてようやく、必要な縄の本数が揃った。
シルヴァは決めた。今回は自分がウィラードを背負って降りる。
それからも、ウィラードの表情は晴れなかった。
夜は浅く、様々な夢を見た。
その夢の中で、自分はウィラードではなかった。
言葉も違う。
けれど確かに、誰かの別れと旅の記憶があった。
草原、町、市場、村。
そして、海。
波打ち際で目を覚ます。
その白い光の眩しさに――雪原の残像が重なった。
頬が――また濡れていた。
あれは、ただの夢だろうか。
……それとも、誰かの記憶。




