051 憧れの人 ローダインにて⑧
トーマは、ジーンに昔住んでいた村の話を聞かれてから、養父母のことを思い出していた。
優しい人たちで、本当の子供のように接してくれた。
――今の、アラナ夫人のように。
一度だけ、村の子供たちの真似をして『お父さん、お母さん』と呼んでみたことがある。
すると二人は、悲しそうな顔で『ごめんなさいね』といって、小さなトーマを抱きしめた。
その時の痛みは、今も心の底に沈んでいる。冬の夜に灯が消えたあと、息を潜めて泣くときのような痛み。もう、一生誰にも『お父さん、お母さん』と呼ぶことはないのだと気づいたのだった。
◇ ◇
帝都の空は、薄く凍りついたように白く曇っていた。
トーマの警護を任されたエディシュは、宮殿の奥へと続く石の廊下を歩き、レダ妃のもとを訪ねた。
レダ妃は『最近の娘はドレスの話しかしない』とよく顔をしかめていたが、
子供の頃から馬と剣を好み、戦場に立ったエディシュを殊のほか気に入っていた。
レダ妃の髪は冬の光を受けて淡くきらめき、氷のような瞳は冷ややかに射抜く。
その身を包む水色のドレスは、凍てついた湖の静寂を纏っているかのようだった。そのドレスの裾が動くたび、夜香花の薫りが仄かに漂う。
手には皇妃の儀仗があり、光の中で鈍く光っている。
エディシュもまた、この妃を敬愛していた。
彼女は、子供の頃からの憧れの人――剣を捨ててもなお、強く美しい人だった。
「ご無沙汰しております。帰国してすぐに参上せず、失礼をいたしました」
「よい。コンラッドからは、宮殿に着てこられる服がなかったと聞いている」
――頬に熱が昇った。
唇を噛み、手を握り締める。恥ずかしさに体が縛られたかのようにこわばった。
それ以上に、そんなことをレダ妃に報告する兄が腹立たしかった。
だが、砦での暮らしの中で母から幾度も「帝都に戻る準備をしておきなさい」と手紙をもらっていたのを、放置していたのは自分だ。
砦にも仕立て屋は来たが、男服ばかりを扱っていた。
ドレスのことなど忘れて久しく、自分の身体が変わっていたことにも気づいていなかった。
「申し訳ございません。準備が不十分で」
「気にせず、男服のまま来れば良かったのに」
その一言に、エディシュは思わず微笑んだ。やはりこの妃が好きだと思った。
「いえ、それだけは駄目だと、母にきつく止められていますので」
「そうか、オーレリアは相変わらずだな。だが、お前のことを思えば、オーレリアの言う事の方が正しいのだろう」
今のレダ妃も、もう鎧姿で城を歩くことはない。
かつて宮殿の中では、血が流れることさえ珍しくなかったが、今は違う。
アルドリックの治世が穏やかであることを示すため、彼女は鎧を脱いだ。
――それも命を懸けた決断だったはずだ。
エディシュは、体の芯に静かな敬意が灯るのを感じた。
その決意を、自分の気儘で汚してはいけない。
「とはいえ、我らのような女にとっては、窮屈な世の中になったな」
二人は笑いながら肩をすくめた。
窓の外では、薄い雪が静かに舞っていた。
「エディシュ、厄介をかけて悪かったな。うちのバカのせいで」
レダ妃は疲れたように息をつき、肘掛けのある椅子にゆっくりと腰を下ろした。
くだらない噂が広まって以来、アルドリックは姿を隠し、公務のほとんどが彼女の肩にのしかかっている。
その姿に、エディシュは小さな痛みを覚えた。
――かつて戦場で剣を並べた女が、今は噂の後始末に追われている。
「いえ、元はといえば、うちの兄がトーマを宮殿に連れて行ったことが始まりですから」
「それを要望したのも、うちのバカだ。コンラッドに非はない」
二人の吐息が重なり、冬の空気に溶けていった。
「トーマは、それほど陛下と似ているのでしょうか? 昔の肖像画を拝見した限り、さほど似ているようには思いませんでしたが」
「私はまだ、その少年には会っていないので何ともいえないが……。似ていると言われるのは顔形だけではない。雰囲気や声、そういうものかもしれん。どちらにせよ、そのような噂が立つ時点で、陛下が信じられていない証拠だ」
レダ妃は、手にした儀仗の柄で自分の掌をぴしゃりと打った。
乾いた音が広い部屋の空気を震わせる。
怒りが滲んでいたが、それでも感情に溺れることはない。
――剣を置いてもなお、この人は戦っている。
エディシュは静かに視線を落とした。
「エディシュ。そなた、結婚の話を先延ばしにしているそうだな。私からも先方に謝罪をしておこう。相手は誰だ?」
「え? いえ、レダ様にそのようなことをしていただくわけには……それに、相手……誰だっけ」
ぽつりと出た言葉に、レダ妃の瞳が驚きに見開かれた。
「知らぬのか?」
「あ、いえ。聞いたような……聞かなかったような」
レダ妃は呆れたように肩をすくめた。氷のような瞳が、少しだけ和らぐ。
「エディシュ。いくら結婚に興味が無いとはいえ、その態度は相手にも失礼であろう」
「いえ、決して興味が無いわけでは」
「では、その結婚が気に入らぬか?」
「そんなことはありません。ただ、相手の事を先に知ってしまうと、ふんぎりがつかなくなりそうで……。できるだけ、知らないまま会った方がいいかと思いまして……」
言いながら、エディシュは小さく笑った。
けれど、その笑みの奥で心が静かに沈んだ。
雪解け前の大地のように、内側が硬く冷えていた。
「だからといって、名前くらい……」
「名前を聞くと、どうしても噂が耳に入ってきます」
しばし、レダ妃は無言のままエディシュを見つめた。
その瞳の奥には、叱責ではなく心配の色がある。
戦場に立ってきたこの娘が、なぜ結婚を恐れるのか――かつての自分を見るようだった。
「しかし、エディシュ。周りの決めた話が全てではないぞ。自分に合った相手を探すことも、考えていいのではないか? お前は、どんな相手と結婚したいのだ?」
「私は、選ぶ立場にはありません。もう適齢期を過ぎてますし、戦場に出てる女なんか、誰も相手にしません。特に……美人でもありませんし……」
声が次第に細くなり、最後の言葉は風に溶けた。
レダ妃は眉をひそめたが、叱るような気配はない。
「エディシュ。私も戦場に出ていたぞ。それにお前は美しい。何を卑下することがある。お前の周りの男どもは、何をしている」
その声には、かつて戦友を叱咤した将の力強さが宿っていた。
エディシュは喉の奥が熱くなり、言葉を返せなかった。
遠い憧れの人に、そんな風に言われるとは思ってもいなかったのだ。
「まあよい。お前の思う通りにするがよい。私が口を出すことではなかったな」
衣擦れの音を残し、レダ妃は静かに立ち上がった。
その背を見送りながら、エディシュは深く頭を下げ、部屋をあとにした。
宮殿の廊下は薄暗く、窓から差し込む光は冷たい。
すれ違う衛兵たちは一様に壁際へ身を寄せた。一人で歩く令嬢が珍しいのか、小声で何かを囁いている。
外では灰色の雲の下、雪がひとひら、音もなく落ちた。
(周りにいる男ども、か……)
エディシュは息を吐いた。吐息が白く散る。
(うまくいきそうな人がいるなら、とっくに結婚してるよ)
アラナ夫人の邸に戻ると、門前でニケが見回りをしていた。
エディシュの顔を見るなり、彼女は表情を緩めた。
「エディシュ殿。何かありましたか?」
「あ、うん。ちょっとね。レダ様に……結婚に興味がないのかって言われちゃった。そんなつもりはなかったんだけど、端からはそう見えるのかな」
エディシュは、ドレスが汚れるのも構わず花壇の縁に腰を下ろした。
石の冷たさが背筋を伝っていく。
「エディシュ殿は、結婚に不安がおありなのではありませんか? 結婚前の女性には、よくあることと聞きますが」
ニケも腰の剣を外し、杖のように立ててから隣に腰を下ろした。
雪を含んだ風が、二人の髪をそっと揺らす。
「嫌なわけじゃないの。あたしだって結婚の話は、これが初めてじゃないのよ。一応、婚約者もいて……でも、言い合いになって切れちゃって……また上手くいかなかったらって、考えてるかも」
エディシュは首元の金の首飾りを指でなぞった。
母が結婚のために用意してくれたものだ。
触れるたび、あの頃のぬくもりが微かに蘇る。
「……うん、いいや。考えたってしょうがない。今度は、何も考えずに大人しくしてる」
空を見上げる。
雲の切れ間から白い光がにじみ、雪片が頬に触れて溶けていく。
世界が一瞬だけ、音を失い、光だけが残った。
「私は、身分ある方の結婚についてはよくわかりませんが、今のうちに考えられた方が良い。世の中には、いろんな男性がおられます。結婚しても、今のままのエディシュ殿が良いと言われる方も、いらっしゃるかもしれませんよ」
「そんな人、いないよ」
子供のように口を曲げるエディシュに、ニケは小さく笑った。
その笑みは、雪のように柔らかだった。
「よくお考えなさい。意外と、身近にいらっしゃるかもしれませんよ」
身近な人――。
その言葉が胸に残る。思い浮かぶ顔はなかった。
けれど、心の奥で、名も知らぬ熱が静かに芽吹いていた。
その正体を、エディシュはまだ知らなかった。




