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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第九章 迫りくる影
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051 憧れの人 ローダインにて⑧

 トーマは、ジーンに昔住んでいた村の話を聞かれてから、養父母のことを思い出していた。

 優しい人たちで、本当の子供のように接してくれた。

 ――今の、アラナ夫人のように。


 一度だけ、村の子供たちの真似をして『お父さん、お母さん』と呼んでみたことがある。

 すると二人は、悲しそうな顔で『ごめんなさいね』といって、小さなトーマを抱きしめた。

 その時の痛みは、今も心の底に沈んでいる。冬の夜に灯が消えたあと、息を潜めて泣くときのような痛み。もう、一生誰にも『お父さん、お母さん』と呼ぶことはないのだと気づいたのだった。


   ◇      ◇   


 帝都の空は、薄く凍りついたように白く曇っていた。

 トーマの警護を任されたエディシュは、宮殿の奥へと続く石の廊下を歩き、レダ妃のもとを訪ねた。


 レダ妃は『最近の娘はドレスの話しかしない』とよく顔をしかめていたが、

 子供の頃から馬と剣を好み、戦場に立ったエディシュを殊のほか気に入っていた。


 レダ妃の髪は冬の光を受けて淡くきらめき、氷のような瞳は冷ややかに射抜く。

 その身を包む水色のドレスは、凍てついた湖の静寂を纏っているかのようだった。そのドレスの裾が動くたび、夜香花の薫りが仄かに漂う。

 手には皇妃の儀仗があり、光の中で鈍く光っている。


 エディシュもまた、この妃を敬愛していた。

 彼女は、子供の頃からの憧れの人――剣を捨ててもなお、強く美しい人だった。


「ご無沙汰しております。帰国してすぐに参上せず、失礼をいたしました」

「よい。コンラッドからは、宮殿に着てこられる服がなかったと聞いている」


 ――頬に熱が昇った。

 唇を噛み、手を握り締める。恥ずかしさに体が縛られたかのようにこわばった。

   それ以上に、そんなことをレダ妃に報告する兄が腹立たしかった。

 だが、砦での暮らしの中で母から幾度も「帝都に戻る準備をしておきなさい」と手紙をもらっていたのを、放置していたのは自分だ。


 砦にも仕立て屋は来たが、男服ばかりを扱っていた。

 ドレスのことなど忘れて久しく、自分の身体が変わっていたことにも気づいていなかった。


「申し訳ございません。準備が不十分で」

「気にせず、男服のまま来れば良かったのに」


 その一言に、エディシュは思わず微笑んだ。やはりこの妃が好きだと思った。


「いえ、それだけは駄目だと、母にきつく止められていますので」

「そうか、オーレリアは相変わらずだな。だが、お前のことを思えば、オーレリアの言う事の方が正しいのだろう」


 今のレダ妃も、もう鎧姿で城を歩くことはない。

 かつて宮殿の中では、血が流れることさえ珍しくなかったが、今は違う。

 アルドリックの治世が穏やかであることを示すため、彼女は鎧を脱いだ。

 ――それも命を懸けた決断だったはずだ。


 エディシュは、体の芯に静かな敬意が灯るのを感じた。

 その決意を、自分の気儘で汚してはいけない。


「とはいえ、我らのような女にとっては、窮屈な世の中になったな」


 二人は笑いながら肩をすくめた。

 窓の外では、薄い雪が静かに舞っていた。


「エディシュ、厄介をかけて悪かったな。うちのバカのせいで」


 レダ妃は疲れたように息をつき、肘掛けのある椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 くだらない噂が広まって以来、アルドリックは姿を隠し、公務のほとんどが彼女の肩にのしかかっている。

 その姿に、エディシュは小さな痛みを覚えた。

 ――かつて戦場で剣を並べた女が、今は噂の後始末に追われている。


「いえ、元はといえば、うちの兄がトーマを宮殿に連れて行ったことが始まりですから」

「それを要望したのも、うちのバカだ。コンラッドに非はない」


 二人の吐息が重なり、冬の空気に溶けていった。


「トーマは、それほど陛下と似ているのでしょうか? 昔の肖像画を拝見した限り、さほど似ているようには思いませんでしたが」


「私はまだ、その少年には会っていないので何ともいえないが……。似ていると言われるのは顔形だけではない。雰囲気や声、そういうものかもしれん。どちらにせよ、そのような噂が立つ時点で、陛下が信じられていない証拠だ」


 レダ妃は、手にした儀仗の柄で自分の掌をぴしゃりと打った。

 乾いた音が広い部屋の空気を震わせる。

 怒りが滲んでいたが、それでも感情に溺れることはない。

 ――剣を置いてもなお、この人は戦っている。

 エディシュは静かに視線を落とした。


「エディシュ。そなた、結婚の話を先延ばしにしているそうだな。私からも先方に謝罪をしておこう。相手は誰だ?」


「え? いえ、レダ様にそのようなことをしていただくわけには……それに、相手……誰だっけ」


 ぽつりと出た言葉に、レダ妃の瞳が驚きに見開かれた。

「知らぬのか?」

「あ、いえ。聞いたような……聞かなかったような」


 レダ妃は呆れたように肩をすくめた。氷のような瞳が、少しだけ和らぐ。


「エディシュ。いくら結婚に興味が無いとはいえ、その態度は相手にも失礼であろう」

「いえ、決して興味が無いわけでは」

「では、その結婚が気に入らぬか?」


「そんなことはありません。ただ、相手の事を先に知ってしまうと、ふんぎりがつかなくなりそうで……。できるだけ、知らないまま会った方がいいかと思いまして……」


 言いながら、エディシュは小さく笑った。

 けれど、その笑みの奥で心が静かに沈んだ。

 雪解け前の大地のように、内側が硬く冷えていた。


「だからといって、名前くらい……」

「名前を聞くと、どうしても噂が耳に入ってきます」


 しばし、レダ妃は無言のままエディシュを見つめた。

 その瞳の奥には、叱責ではなく心配の色がある。

 戦場に立ってきたこの娘が、なぜ結婚を恐れるのか――かつての自分を見るようだった。


「しかし、エディシュ。周りの決めた話が全てではないぞ。自分に合った相手を探すことも、考えていいのではないか? お前は、どんな相手と結婚したいのだ?」


「私は、選ぶ立場にはありません。もう適齢期を過ぎてますし、戦場に出てる女なんか、誰も相手にしません。特に……美人でもありませんし……」


 声が次第に細くなり、最後の言葉は風に溶けた。

 レダ妃は眉をひそめたが、叱るような気配はない。


「エディシュ。私も戦場に出ていたぞ。それにお前は美しい。何を卑下することがある。お前の周りの男どもは、何をしている」


 その声には、かつて戦友を叱咤した将の力強さが宿っていた。

 エディシュは喉の奥が熱くなり、言葉を返せなかった。

 遠い憧れの人に、そんな風に言われるとは思ってもいなかったのだ。


「まあよい。お前の思う通りにするがよい。私が口を出すことではなかったな」


 衣擦れの音を残し、レダ妃は静かに立ち上がった。

 その背を見送りながら、エディシュは深く頭を下げ、部屋をあとにした。


 宮殿の廊下は薄暗く、窓から差し込む光は冷たい。

 すれ違う衛兵たちは一様に壁際へ身を寄せた。一人で歩く令嬢が珍しいのか、小声で何かを囁いている。

 外では灰色の雲の下、雪がひとひら、音もなく落ちた。


(周りにいる男ども、か……)


 エディシュは息を吐いた。吐息が白く散る。

(うまくいきそうな人がいるなら、とっくに結婚してるよ)


 アラナ夫人の邸に戻ると、門前でニケが見回りをしていた。

 エディシュの顔を見るなり、彼女は表情を緩めた。


「エディシュ殿。何かありましたか?」

「あ、うん。ちょっとね。レダ様に……結婚に興味がないのかって言われちゃった。そんなつもりはなかったんだけど、端からはそう見えるのかな」


 エディシュは、ドレスが汚れるのも構わず花壇の縁に腰を下ろした。

 石の冷たさが背筋を伝っていく。


「エディシュ殿は、結婚に不安がおありなのではありませんか? 結婚前の女性には、よくあることと聞きますが」


 ニケも腰の剣を外し、杖のように立ててから隣に腰を下ろした。

 雪を含んだ風が、二人の髪をそっと揺らす。


「嫌なわけじゃないの。あたしだって結婚の話は、これが初めてじゃないのよ。一応、婚約者もいて……でも、言い合いになって切れちゃって……また上手くいかなかったらって、考えてるかも」


 エディシュは首元の金の首飾りを指でなぞった。

 母が結婚のために用意してくれたものだ。

 触れるたび、あの頃のぬくもりが微かに蘇る。


「……うん、いいや。考えたってしょうがない。今度は、何も考えずに大人しくしてる」


 空を見上げる。

 雲の切れ間から白い光がにじみ、雪片が頬に触れて溶けていく。

 世界が一瞬だけ、音を失い、光だけが残った。


「私は、身分ある方の結婚についてはよくわかりませんが、今のうちに考えられた方が良い。世の中には、いろんな男性がおられます。結婚しても、今のままのエディシュ殿が良いと言われる方も、いらっしゃるかもしれませんよ」


「そんな人、いないよ」


 子供のように口を曲げるエディシュに、ニケは小さく笑った。

 その笑みは、雪のように柔らかだった。


「よくお考えなさい。意外と、身近にいらっしゃるかもしれませんよ」


 身近な人――。

 その言葉が胸に残る。思い浮かぶ顔はなかった。

 けれど、心の奥で、名も知らぬ熱が静かに芽吹いていた。


 その正体を、エディシュはまだ知らなかった。


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