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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第九章 迫りくる影
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050 宮廷の噂話 ローダインにて⑦

 トーマをアラナ夫人のもとへ預けて、いくばくかの時が流れたある朝。

 コンラッドは、ジーンからの呼び出しを受けた。


 だが、使者はいつもの執務室ではなく――

 封を施した小さな地図を差し出し、「こちらへ」とだけ言い残して去っていった。


 地図に示された先は、宮殿の裏門を抜けたさらに奥。

 陽の届かぬ一角に、古い塔がひっそりとそびえている。

 人の出入りも久しく絶え、苔むした石段には冷えた露が滲んでいた。


 風が抜ける音が、鈍く耳を刺す。

 足を踏み入れた瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。


 番人に通され、厚い扉を押し開ける。

 そこには――椅子に沈み込み、頭を抱えたアルドリック。そして、その隣に控えるジーンの姿があった。


 コンラッドを見つけるなり、ジーンが顔を上げた。


「あ、来た来た。コンラッド」

「どうかなさいましたか? こんなところで」


 アルドリックは茫然としたまま、虚空を見つめていた。

 その姿に、空気の重さが一層増す。


「どうかされました、じゃないよ。コンラッド」


 アルドリックが眉をひそめ、低く言った。


「あの子、トーマだっけ? あの子……誰?」


 耳を疑うような言葉だった。

 コンラッドの思考が一瞬止まり、塔の冷気が胸の奥まで入り込んでくる。


 ジーンが、手招きして声を落とす。


「ここのところね、トーマを見たご老人たちが変な噂をしてて」

「ご老人たち……ですか?」

「うん。あのね、トーマが陛下の若い頃にそっくりだって。――隠し子じゃないかって」

「は? 隠し子……ですか?」


 声が上ずった。

 その瞬間、アルドリックとジーンが同時に指を唇に当て、制する。

 息が詰まり、空気がぴんと張り詰めた。


「そんなに似ているんでしょうか……?」


「私も陛下の少年時代は知らないけどね。御老体たちが口を揃えて言ってるらしい」

「そういえば、うちのじいさまもトーマを見て、変な顔をしていました」


 沈黙を裂くように、アルドリックが立ち上がった。

 その手が、コンラッドの肩を掴み、激しく揺さぶる。


「なあ、コンラッド。あの子の母親は誰だ? それがわかれば潔白の手掛かりに……!」


「わかりません」


 コンラッドは、視線を落とした。

 心の奥に、鈍い痛みが走る。


「わからないって……どういうことだ?」


 アルドリックの額を汗がつたう。


「赤子の時に捨てられていたのを、バルドが拾ったと……。

 歳も途中でわからなくなったらしく、たぶん十四、五かと」


 アルドリックの肩が力なく落ちた。

 冷えた風が塔の中を巡り、蝋燭の火を震わせる。


 重い沈黙。時間が凍りついたようだった。


「バ、バルド……なあジーン。その頃、俺はどこで何をしていた?」

「知りませんよ。そんなこと」


 ジーンはため息をつき、椅子に背を預ける。


「何で御自分には関係がないと、はっきり言えないんです? 日頃の行いが悪いからです」


 その声に、苛立ちと疲れが滲む。

 アルドリックは、縋るような目でコンラッドを見た。

 けれどコンラッドは、視線を逸らした。――見てはいけないもののような気がした。


「とりあえず、昔の陛下の記録を調べましょうか?」


「いい。君がやらなくてもいい」


 ジーンの声が塔の石壁にこだました。

 しばらくして、静かながらも鋭い響きが続く。


「陛下に関する記録は膨大だ。まずは期間を絞らないと。――あの子が小さい頃、預けられていた家があるだろう? そこに人を遣るよ」


「預けられていた家……?」


「まさかバルドが赤子を育てたと思うかい? どこの村か、名前ぐらいは覚えてるはずだ」


 ジーンの瞳に光が宿る。その一閃が、空気を切り裂いた。


「それよりも、トーマの身の安全を確保しよう。噂を信じて、おかしな真似をする者が出ないとも限らない」


 塔の外で、風がひゅうと鳴いた。

 その音が、まるで遠い叫びのように響いた。


「アラナ夫人の所から、帰すことは出来ませんか?」


 アルドリックは、深く首を振る。

 その仕草に、疲弊と哀れみが滲んでいた。


「トーマのことが、すっかり気に入ってしまったようでね。ウィラードの件で気落ちしているから、強くも言えない」


 静寂が降りる。

 塔の壁が冷たく息を潜め、外の風音だけが虚ろに響く。


「それでは、うちの妹をアラナ夫人の所へ行かせてもよろしいでしょうか?」

「それはいいな。エディシュだっけ。俺から話を通しておくよ」

「もう一人、腕の立つ女性を一緒に行かせたいのですが」

「わかったよ。――あれ? 彼女、結婚がどうとか言ってなかったか?」


「はい。これから日を決めて先方と会う予定ですが……」


 アルドリックは、椅子に沈み込み、顔を覆った。

 手の隙間から漏れる声が、やけに弱々しい。


「うう……これじゃオーレリアに怒られる」

「先にレダ様に怒られることを心配されたらどうでしょうか」


 ジーンの声は冷ややかに響いた。

 レダ――アルドリックの妃であり、少年の頃からの戦友でもある。

 誰よりも彼を叱れる女だった。


「レダの耳に入らないようにできない?」

「無理でしょうね」


 ジーンの即答に、コンラッドは苦笑もできず、ただ立ち尽くした。

 逃げ出したいほどの居たたまれなさを、胸の奥で押し殺しながら。


   ◇      ◇


 宮殿を辞したコンラッドは、灰色の空を見上げた。

 風がまだ冷たい。春の兆しは遠く、胸の奥の不安ばかりが膨らんでいく。


 家へ戻ると、案の定――


「何を言っているのですか、コンラッド! そんな話、すぐにお断りなさい!」


 母オーレリアの怒声が、部屋の壁を震わせた。


「しかし母上、陛下からのご依頼で……」

「先方とは数日中にお会いできればという話になっているのに!」

「もう少しだけ、延ばせませんか?」


 オーレリアの眉が、ぴくりと跳ね上がる。


「延ばすですって? エディシュはもう二十五よ。十七、八で嫁ぐのが普通なのに。あなたの話だって進めにくいのよ、あの子が決まらないと!」


「わかっています。母上。この件が終われば、必ず私もお詫びに参ります」


 その真摯な声に、オーレリアは一度大きく息を吐き、静かに折れた。


「陛下のご依頼なら仕方ないわ。ただし――雪解月の頃までには、何とかしてちょうだい」


   ◇      ◇


 思いがけぬ仕事に、エディシュは目を輝かせた。

 ニケも報酬の額を聞くや否や、迷いなく頷く。

 そして――一番喜んだのは、トーマだった。


 エディシュとニケは新調したドレスをまとい、髪を美しく結い上げ、アラナ夫人の邸へ向かった。

 白い門をくぐると、明るい光が眩く石畳に反射する。


「エディシュさん、ニケさん! お久しぶりです」


 トーマが駆け寄り、笑顔を弾けさせる。


「エディシュさんのドレス姿、初めて見ました。綺麗ですね」


 エディシュは、思わずトーマの頭を抱き込み、ぐりぐりと撫でた。

「ありがとう、トーマ。そんなこと言ってくれるの、あんただけよ」


 髪を整えながら、声を落とす。


「元気そうでよかった。変な噂が立ってるって聞いて心配してたの。宮廷の暮らしはどう?」


 トーマの笑みが、ふと翳る。


「とてもお優しくしていただいてます。ウィラード殿下のことで、お寂しいんでしょうか……僕は親がいませんから、うれしいのですけど」


 エディシュは、そっと息をのんだ。

 その胸の奥に、ほんのり痛みが滲む。

 アラナ夫人の心の闇――それに触れることは、彼女の役目ではない。

 今はただ、トーマを守ること。それだけが使命だった。


 こうして、二人の任務が始まった。

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