050 宮廷の噂話 ローダインにて⑦
トーマをアラナ夫人のもとへ預けて、いくばくかの時が流れたある朝。
コンラッドは、ジーンからの呼び出しを受けた。
だが、使者はいつもの執務室ではなく――
封を施した小さな地図を差し出し、「こちらへ」とだけ言い残して去っていった。
地図に示された先は、宮殿の裏門を抜けたさらに奥。
陽の届かぬ一角に、古い塔がひっそりとそびえている。
人の出入りも久しく絶え、苔むした石段には冷えた露が滲んでいた。
風が抜ける音が、鈍く耳を刺す。
足を踏み入れた瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
番人に通され、厚い扉を押し開ける。
そこには――椅子に沈み込み、頭を抱えたアルドリック。そして、その隣に控えるジーンの姿があった。
コンラッドを見つけるなり、ジーンが顔を上げた。
「あ、来た来た。コンラッド」
「どうかなさいましたか? こんなところで」
アルドリックは茫然としたまま、虚空を見つめていた。
その姿に、空気の重さが一層増す。
「どうかされました、じゃないよ。コンラッド」
アルドリックが眉をひそめ、低く言った。
「あの子、トーマだっけ? あの子……誰?」
耳を疑うような言葉だった。
コンラッドの思考が一瞬止まり、塔の冷気が胸の奥まで入り込んでくる。
ジーンが、手招きして声を落とす。
「ここのところね、トーマを見たご老人たちが変な噂をしてて」
「ご老人たち……ですか?」
「うん。あのね、トーマが陛下の若い頃にそっくりだって。――隠し子じゃないかって」
「は? 隠し子……ですか?」
声が上ずった。
その瞬間、アルドリックとジーンが同時に指を唇に当て、制する。
息が詰まり、空気がぴんと張り詰めた。
「そんなに似ているんでしょうか……?」
「私も陛下の少年時代は知らないけどね。御老体たちが口を揃えて言ってるらしい」
「そういえば、うちのじいさまもトーマを見て、変な顔をしていました」
沈黙を裂くように、アルドリックが立ち上がった。
その手が、コンラッドの肩を掴み、激しく揺さぶる。
「なあ、コンラッド。あの子の母親は誰だ? それがわかれば潔白の手掛かりに……!」
「わかりません」
コンラッドは、視線を落とした。
心の奥に、鈍い痛みが走る。
「わからないって……どういうことだ?」
アルドリックの額を汗がつたう。
「赤子の時に捨てられていたのを、バルドが拾ったと……。
歳も途中でわからなくなったらしく、たぶん十四、五かと」
アルドリックの肩が力なく落ちた。
冷えた風が塔の中を巡り、蝋燭の火を震わせる。
重い沈黙。時間が凍りついたようだった。
「バ、バルド……なあジーン。その頃、俺はどこで何をしていた?」
「知りませんよ。そんなこと」
ジーンはため息をつき、椅子に背を預ける。
「何で御自分には関係がないと、はっきり言えないんです? 日頃の行いが悪いからです」
その声に、苛立ちと疲れが滲む。
アルドリックは、縋るような目でコンラッドを見た。
けれどコンラッドは、視線を逸らした。――見てはいけないもののような気がした。
「とりあえず、昔の陛下の記録を調べましょうか?」
「いい。君がやらなくてもいい」
ジーンの声が塔の石壁にこだました。
しばらくして、静かながらも鋭い響きが続く。
「陛下に関する記録は膨大だ。まずは期間を絞らないと。――あの子が小さい頃、預けられていた家があるだろう? そこに人を遣るよ」
「預けられていた家……?」
「まさかバルドが赤子を育てたと思うかい? どこの村か、名前ぐらいは覚えてるはずだ」
ジーンの瞳に光が宿る。その一閃が、空気を切り裂いた。
「それよりも、トーマの身の安全を確保しよう。噂を信じて、おかしな真似をする者が出ないとも限らない」
塔の外で、風がひゅうと鳴いた。
その音が、まるで遠い叫びのように響いた。
「アラナ夫人の所から、帰すことは出来ませんか?」
アルドリックは、深く首を振る。
その仕草に、疲弊と哀れみが滲んでいた。
「トーマのことが、すっかり気に入ってしまったようでね。ウィラードの件で気落ちしているから、強くも言えない」
静寂が降りる。
塔の壁が冷たく息を潜め、外の風音だけが虚ろに響く。
「それでは、うちの妹をアラナ夫人の所へ行かせてもよろしいでしょうか?」
「それはいいな。エディシュだっけ。俺から話を通しておくよ」
「もう一人、腕の立つ女性を一緒に行かせたいのですが」
「わかったよ。――あれ? 彼女、結婚がどうとか言ってなかったか?」
「はい。これから日を決めて先方と会う予定ですが……」
アルドリックは、椅子に沈み込み、顔を覆った。
手の隙間から漏れる声が、やけに弱々しい。
「うう……これじゃオーレリアに怒られる」
「先にレダ様に怒られることを心配されたらどうでしょうか」
ジーンの声は冷ややかに響いた。
レダ――アルドリックの妃であり、少年の頃からの戦友でもある。
誰よりも彼を叱れる女だった。
「レダの耳に入らないようにできない?」
「無理でしょうね」
ジーンの即答に、コンラッドは苦笑もできず、ただ立ち尽くした。
逃げ出したいほどの居たたまれなさを、胸の奥で押し殺しながら。
◇ ◇
宮殿を辞したコンラッドは、灰色の空を見上げた。
風がまだ冷たい。春の兆しは遠く、胸の奥の不安ばかりが膨らんでいく。
家へ戻ると、案の定――
「何を言っているのですか、コンラッド! そんな話、すぐにお断りなさい!」
母オーレリアの怒声が、部屋の壁を震わせた。
「しかし母上、陛下からのご依頼で……」
「先方とは数日中にお会いできればという話になっているのに!」
「もう少しだけ、延ばせませんか?」
オーレリアの眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「延ばすですって? エディシュはもう二十五よ。十七、八で嫁ぐのが普通なのに。あなたの話だって進めにくいのよ、あの子が決まらないと!」
「わかっています。母上。この件が終われば、必ず私もお詫びに参ります」
その真摯な声に、オーレリアは一度大きく息を吐き、静かに折れた。
「陛下のご依頼なら仕方ないわ。ただし――雪解月の頃までには、何とかしてちょうだい」
◇ ◇
思いがけぬ仕事に、エディシュは目を輝かせた。
ニケも報酬の額を聞くや否や、迷いなく頷く。
そして――一番喜んだのは、トーマだった。
エディシュとニケは新調したドレスをまとい、髪を美しく結い上げ、アラナ夫人の邸へ向かった。
白い門をくぐると、明るい光が眩く石畳に反射する。
「エディシュさん、ニケさん! お久しぶりです」
トーマが駆け寄り、笑顔を弾けさせる。
「エディシュさんのドレス姿、初めて見ました。綺麗ですね」
エディシュは、思わずトーマの頭を抱き込み、ぐりぐりと撫でた。
「ありがとう、トーマ。そんなこと言ってくれるの、あんただけよ」
髪を整えながら、声を落とす。
「元気そうでよかった。変な噂が立ってるって聞いて心配してたの。宮廷の暮らしはどう?」
トーマの笑みが、ふと翳る。
「とてもお優しくしていただいてます。ウィラード殿下のことで、お寂しいんでしょうか……僕は親がいませんから、うれしいのですけど」
エディシュは、そっと息をのんだ。
その胸の奥に、ほんのり痛みが滲む。
アラナ夫人の心の闇――それに触れることは、彼女の役目ではない。
今はただ、トーマを守ること。それだけが使命だった。
こうして、二人の任務が始まった。




