047 隠れる者達 城外の館⑦
数日続いた吹雪がようやく止み、世界は白の沈黙に包まれていた。
窓の外では、雪が夜のあいだに幾層にも積もり、朝の光を受けて淡く光っている。
屋根の稜線も、木々の枝も、白布のように覆われ、世界が息を潜めていた。
耳を澄ませば、自分の息の音さえ遠くに聞こえる。
その静けさを割るように、遠くで、冬の骨が軋むような音がした。
ディランが窓辺へ歩み寄る。館の周囲の雪は、すでにきれいに退けられている。
「これは、誰が退けたんだ?」
「朝早くに、衛兵の方がされましたよ」
寝台を整えていたフィオンが、振り向きながら答える。
彼の動きはもう痛みに縛られてはいなかった。布を畳む手も軽く、姿勢にも以前のきびきびとした気配が戻っている。
「衛兵? 兵士がいたのか」
「ドナル様が兵士の姿を見るのを嫌がられますので、普段は馬屋の隣の小屋で待機しています。館の裏からしか出入りできません」
ディランは眉を寄せた。
この館に来てから、兵の姿を見たことは一度もなかった。
結界があるとはいえ、警戒の者がいないのは不自然だ。
――まさか、“隠していた”のか。
兵だけではない。調理場の者も、洗い場の者も姿を見ない。
生活の匂いのない館。
その静謐は、美しくも不気味だった。
ドナルは意図的にこの場所を沈黙で覆っている――ディランはそう感じた。
昼下がり。
窓の外では珍しく、淡い光が溢れていた。
白に閉ざされた世界が、ゆっくりと息を吹き返していく。
けれど、フィオンの胸の中はまだ吹雪の中にあった。
彼は文字の練習のためにディランの部屋を訪れていた。
ルーイとキアランも最近は文章まで覚え始めている。
いつもなら、ペンの動きをのぞき込んでいるのに、この日はどこか落ち着かず、指先をぎゅっと握っていた。
「どうしたんだ? まだ、傷が痛むのか?」
ディランは滑らかにペンを走らせたまま、視線を上げない。
カリカリと、静かな音だけが響く。
「いえ……傷は、もう大丈夫です。あの……申し訳ありませんが……その……これからは、ルーイとキアランに、直接、教えてやってもらえないでしょうか?」
ペン先が止まり、インクが滲む。
ディランは顔を上げ、俯くフィオンを見た。
「お前は、もうやめるのか?」
「いえ……違います。でも、あの二人の方が……覚えるのが早くて……」
言葉の途中で息が詰まり、喉が焼けるように痛んだ。
なぜこんなことを言っているのか、自分でも分からなかった。
胸の奥に冷たいものが固まっていく。
焦りでも嫉妬でもない――もっと別の、凍るような感覚。
その冷たさの中に、自分でも知らない痛みがあった。
「小さい子の方が、覚えるのは早いものだ。気にすることはないだろう」
「でも……」
フィオンの声は静けさに吸い込まれた。
沈黙が落ちる。
ディランの指先がわずかに動いた。
それだけで、何かが決まったと感じた。
ディランは立ち上がる。
書きかけの板を横に置き、マントを羽織った。
「その件は保留だ。……ちょっと、衛兵のところへ行ってくる」
「お待ちください。何を……」
ディランは返事もせずに扉を開け、冷たい外気の中へ出た。
その背を見た瞬間、フィオンの体が勝手に動いた。
止めなければ――。
もしドナル様の耳に入ったら、何をされるか分からない。
そう思うより先に、足が雪を踏んでいた。
胸の奥で、恐怖が脈打つ。
小屋に近づくと、酒と汗の混じった匂いが流れ出してきた。
扉を押し開けると、炉の火の向こうで兵士たちが振り向く。
沈黙。
その空気を裂くように、ディランの声が落ちた。
「稽古用の木剣を貸してくれないか」
兵たちは顔を見合わせる。
「木剣ですか?」
「ないのか?」
「ありますが……七聖家の客人が、剣を……?」
その言葉に一瞬、空気が止まった。
七聖家の者が剣を求める――それはありえないことだった。
火がはぜ、誰かが唾を飲む音がした。
どうやら彼らは、ディランの素性を知らされていない。
ディランは壁に掛かった木剣を一振り取り、何も言わず外へ出た。
「お待ち下さい、勝手に持ち出されては――!」
伸ばされた手に、木剣の切っ先が突きつけられる。
雪明かりの中で、ディランの孔雀色の瞳が氷のように光った。
「なら、勝負をしよう。私が勝ったら、これは借りていく」
低い声が空気を震わせた。
次の瞬間、木剣が宙を舞い、乾いた音が響く。
風が裂け、雪が舞い上がる。
兵たちが次々と挑むが、音だけが空しく残った。
ディランだけが、まるで別の時間に生きているように静かだった。
――強さの質が、違う。
最後の一撃が雪に吸い込まれ、沈黙が戻る。
ディランは背を向けた。
「帰るぞ」
短く言い残し、歩き出す。
フィオンは息を詰めたまま、その背を追った。
心臓がまだ速く打っている。
恐怖なのか、別の何かなのか、自分でも分からない。
館に戻ると、廊下の真ん中で木剣を手渡された。
革巻きの柄が手のひらに食い込み、全身が硬直する。
「……え? 私ですか?」
「他に誰がいる。相手をしろ」
「む、無理です。持ち方もわかりません」
「小指、薬指、中指でしっかり持て。人差し指と親指は添える程度だ。構える時は剣を体の真ん中に。楽な形でいい」
ディランは背後に回り、手を添えた。
温かな掌が導くように動く。
息が耳に触れた瞬間、体がびくりと震えた。
けれどその手は、ただ静かに力を貸すだけだった。
「動く時は体の中心を意識しろ。前屈みになるな。足を踏み込みながら剣を振り下ろす」
言葉と同時に、背から軽く押される。
木剣が空気を裂き、腕がしびれる。
何度も、何度も。
息が荒くなり、足がもつれる。
それでも振る。止まれば、もっと怖くなる気がした。
痛みが走り、皮膚が裂けても手を放さなかった。
冷たい空気が沁み、血の匂いがわずかに広がる。
けれどその痛みの奥で、凍っていた何かがかすかに動いた。
「今日は、これで終わりだ」
ディランが剣を下ろす。
フィオンは息を荒げたまま顔を上げた。
「まだ……まだ、出来ます」
震える声。
ディランは首を振る。
「無理をするな。治りが悪くなる。一度にたくさん練習したからといって、上手くなるわけじゃない。それより――気分はどうだ?」
「気分……?」
問われて初めて、胸の中が軽くなっていることに気づく。
冷たかった空気が、柔らかく感じられた。
息をするたび、何かが溶けていく。
ずっと押し潰していた恐怖が、少しずつ形を失っていく。
「まだ、私がルーイとキアランに教えた方がいいと思っているか?」
フィオンは小さく首を振った。
「……いいえ。私が……教えます」
ディランはうなずき、マントの裾を揺らし背を向けた。
「喉が乾いた。部屋に水を持ってきてくれ」
その声は、雪解けのようにやわらいでいた。
「……はい」
洗い場に向かう途中、涙が頬を伝った。
泣いていると気づいたのは、風がその跡を撫でた時だった。
理由は分からない。ただ、胸の奥から何かが溶け出してくるようだった。
翌朝。
ディランの部屋を訪れる者がいた。
現れたのは、衛兵の隊長と思しき壮年の男。
肩の雪を払い、深く頭を下げる。
「……私たちに稽古をつけてください」
「私がか?」
ディランの声に、男は迷わず頭を垂れる。
「自分たちの力の無さを痛感しました。どうか、学ばせてください。今のままでは、この国を守れません」
その声には、寒気よりも静かな熱があった。
どれほど蔑まれようと、剣の必要を知る者の声だった。
ディランは短くうなずく。
「いいだろう。ただし、ドナルのいる時は今まで通りに過ごせ。それから――稽古はフィオンも一緒だ」
名を呼ばれ、フィオンの肩が微かに揺れた。
胸の奥の恐怖が、かすかに疼いた。
けれど、その痛みの奥で、何かが息をした。
「……はい」
驚くほど深く息が吸えた。
その日から、館の光景は変わった。
兵たちは木剣を手に取り、フィオンはぎこちなく構える。
乾いた音がいくつも重なり、時折笑い声が混じる。
その笑いが風に散り、澄んだ光の中に溶けていく。
――凍りついた館の中で、何かが動き出していた。
外では、雪がゆっくりと溶け始めていた。
滴る雫が光をまとい、静けさが春の匂いを孕みはじめていた。




