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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第八章 出口を求めて
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046 木蔦の薬 城外の館⑥

 翌朝、雪のちらつく中、ドナルはエル・カルドへと帰って行った。

 ディランは、寝台を整えるフィオンの動きが、いつもより緩慢であることに気づいた。口元は微笑んでいるが、目には苦痛の色が滲む。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「フィオン、どうした。具合が悪いんじゃないか?」

「いえ、何でもありません」


 だが、体を庇うようなその動きは、明らかに不自然だった。


「何でもない、ということはないだろう。背中をどうした」

「いえ、本当に……」

「フィオン!」


 鋭い声に、フィオンはびくりと肩を震わせた。

 ――この人の目は誤魔化せない。

 観念したように背を向けると、灰色の上着と白いシャツを滑らせて脱いだ。


 白く華奢な背中には、鞭で打たれた赤い痕が幾筋も走っていた。古い傷の跡もいくつか、くっきりと残っている。

 ディランの指先がわずかに震えた。

 それは怒りではなく、刃を抜く直前の静けさに似ていた。

 そのまま息を潜め、ただ視線だけで怒りを封じ込める。

 空気が一瞬にして冷たくなり、フィオンはその沈黙の重みに胸を詰まらせた。


「……ドナルか」

 その声は、氷の刃のように静かだった。

 フィオンは小さく頷いた。


「薬と包帯はどこにある」

「食堂の棚に……でも――」


 言い終わらぬうちに、ディランは部屋を出ていき、薬箱を手に戻ってきた。箱を開け、陶器の小瓶を取り出して中身を確かめる。小麦草の傷薬――見覚えのある品だった。グレインネが作ったものだ。


 ディランはフィオンを椅子に座らせ、薬をそっと塗った。

 フィオンが小さく悲鳴を上げ、身を固くする。清潔な布を当てて、包帯を慣れた手つきで巻き、寝台にうつ伏せに寝かせた。首筋に触れると、熱はなかった。


「なぜ打たれた? 使用人を鞭で打つことは禁じられているはずだ」


 もちろん、それが形ばかりであることはディランも知っている。辺境の砦には、そうした規律の網からこぼれ落ちた人々が多くいた。


「昨日、ルーイが手違いを……。あの子たちは、まだ小さいので……僕が代わりに」

「いつもそうなのか?」

「僕が、そうしてくれと……あの子たちには……こんなことは……」


 フィオンは替えたばかりの敷布を握りしめた。冷たい布の感触が、痛む背中の熱を少し奪う。


「お前たちの親は知っているのか?」


 フィオンは、諦めたように首を振った。

「私どもに親はおりません。皆、孤児院から引き取られて働いているのです」


 “孤児院”という言葉に、シルヴァとマイソール卿の話が脳裏をよぎる。内密の件のようだったので、聞くに聞けなかった。何か関係があるのか――今となっては確かめようもない。


「いえ、ここは……そんなに悪い場所ではありません」

 フィオンはわずかに顔を上げた。笑おうとした唇が、震えていた。

「確かに時々、こんなふうに打たれることもありますが……食べるものも、服も、部屋もあります。癇癪を起こさなければ、ドナル様も……お優しい方です」

 その声には、痛みを塗り隠すような無理な明るさがあった。


 気まぐれに怒りと優しさを交互に見せ、支配する――ドナルのやり口は、まさにそれだった。外から見れば歪でも、時折の優しさがある限り、当人には鎖が見えない。ましてや、親のいない若者ならなおさらだ。


「その癇癪は私のせいか。昨日、あいつを怒らせたからな。……いっそ殴り返しておけばよかったかもしれん」

「そんな、ひどいことを……! それに、もしドナル様を怒らせて孤児院がなくなったら……あの子たちは……」

「彼にどう言われているか知らないが、ドナルにそんな権限はないはずだ」

「……本当……ですか?」


 フィオンの瞳が揺れた。


「七聖家は合議制だ。ドナルが孤児院を潰すなどと言っても、他の家が反対すれば決まらない」

「でも……ドナル様が……」

「ドナルの言葉は忘れろ。孤児院は簡単にはなくならない」


 フィオンは固まったまま、しばらく動けなかった。


「私は書斎に行ってくる。今日は休め」


 ディランが部屋を出ると、廊下でルーイとキアランがフィオンを探していた。


「お前たち。少し頼まれてくれるか?」


 二人は顔を明るくして、館の外へ駆けていった。


 ディランは二階の書斎に入り、鍵を開ける。懐から取り出したのは、この館の見取り図だった。昨日見つけた地下室を描き加え、ほぼ完成している。

 椅子にもたれ、図面を眺めていると、書棚の一冊が目に留まった。エル・カルドの法律書。ぱらぱらとページをめくる。


 ローダインのように複雑な法体系ではなく、エル・カルドの法は驚くほど簡素だった。例外的な事象は、七聖家の会合で多数決によって決められる。

 少数の固定化された民の間では、法よりも慣習が力を持つ――そういう土地柄なのだろう。

 この仕組みでは、自浄など望むべくもない。七聖家の人間が罰せられることなど、よほどのことがなければ起こらない。ドナルが裏切り者であろうと、若い使用人を打とうと。


 しかも今、七聖家の会合に出席する〈アレスル(選ばれし者)〉はドナルだけ――。


 魔道符はあの老人の手によるものと判明した。あとは、フォローゼルの誰と繋がっているのかを探るのみ。

 この館にはまだ客人は来ていない。だが、雪が溶け国境が開けば、往来が再び始まる。その時こそ――。


 ――もうしばらくは、大人しく従っておくしかない。


         ◇   ◇   ◇


 フィオンが目を覚ますと、部屋には誰もいなかった。背中に毛布がかけられ、暖炉は赤々と燃えている。けれど、指先は凍えるほど冷たかった。


(お客様の寝台で……)


 慌てて起き上がり、シャツと上着を身に着ける。昨夜は痛みで眠れなかったとはいえ、あまりの失態だ。

 廊下へ出ると、応接室から賑やかな声が響いてきた。


「ディラン様、これでいいですか?」

「ルーイ、重ねると乾かない。もう少し離せ」

「ディラン様、これも洗ってきます!」

「待て、キアラン。そんなに量をどうする気だ。薬屋でも開くつもりか。半分は捨ててこい」

「嫌です。全部薬にします」


(薬……?)

 フィオンはそっと扉を開けた。


「フィオン!」

 ルーイとキアランが目敏く気づき、駆け寄ってくる。

「ケガ、大丈夫?」

「うん、大丈夫……。ディラン様、申し訳ありません」


「もう動けるのか?」

「はい。……あの、これは?」

 部屋の中は、莚の上にびっしりと葉が並べられていた。

「木蔦の葉だ。薬箱にあったのは小麦草だったが、その傷なら木蔦の方がいい。砦でも兵士に使っていた薬だ」


「これ、全部薬にしてフィオンにあげる!」

 

 キアランが籠いっぱいの葉を抱えて笑う。

 

「だから採りすぎだ。捨ててこい」

「嫌です。たくさん塗って早く治って欲しいんです」

「たくさん塗っても一緒だ」


 キアランはこの世の終わりのような顔をした。


「……洗うのは、今のが乾いてからだ。それでいいな」


 キアランは満足げに籠を部屋の隅に置いた。


「あの……ありがとうござ……」

「もっと筵を取ってきます!」

 ルーイが駆け出す。

「廊下を走るな!」

 ディランの声が飛んだ。


 フィオンは二人のはしゃぐ姿を見て、孤児院にいた頃の元気を取り戻しているのを感じた。

 暖炉の炎を見つめながら、冷えた指先を頬に当てる。

 風が窓を鳴らし始めた。


「吹雪になる。ドナルはしばらく来ないだろう。今のうちに休め」


 その言葉どおり、吹雪は数日続いた。

 白い闇が館を覆い、外界との道をすべて閉ざす。

 だがその静けさの中で、子らの笑い声がときおり廊下を渡り、

 炎の揺らめきが夜を照らした。


 館は雪の帳に守られた小さな世界となり、

 そこには短くも確かな安らぎがあった。

 それは、嵐の狭間に訪れたひとときの光――

 やがて再び、外の世界が動き出すまでの休息だった。

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