046 木蔦の薬 城外の館⑥
翌朝、雪のちらつく中、ドナルはエル・カルドへと帰って行った。
ディランは、寝台を整えるフィオンの動きが、いつもより緩慢であることに気づいた。口元は微笑んでいるが、目には苦痛の色が滲む。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「フィオン、どうした。具合が悪いんじゃないか?」
「いえ、何でもありません」
だが、体を庇うようなその動きは、明らかに不自然だった。
「何でもない、ということはないだろう。背中をどうした」
「いえ、本当に……」
「フィオン!」
鋭い声に、フィオンはびくりと肩を震わせた。
――この人の目は誤魔化せない。
観念したように背を向けると、灰色の上着と白いシャツを滑らせて脱いだ。
白く華奢な背中には、鞭で打たれた赤い痕が幾筋も走っていた。古い傷の跡もいくつか、くっきりと残っている。
ディランの指先がわずかに震えた。
それは怒りではなく、刃を抜く直前の静けさに似ていた。
そのまま息を潜め、ただ視線だけで怒りを封じ込める。
空気が一瞬にして冷たくなり、フィオンはその沈黙の重みに胸を詰まらせた。
「……ドナルか」
その声は、氷の刃のように静かだった。
フィオンは小さく頷いた。
「薬と包帯はどこにある」
「食堂の棚に……でも――」
言い終わらぬうちに、ディランは部屋を出ていき、薬箱を手に戻ってきた。箱を開け、陶器の小瓶を取り出して中身を確かめる。小麦草の傷薬――見覚えのある品だった。グレインネが作ったものだ。
ディランはフィオンを椅子に座らせ、薬をそっと塗った。
フィオンが小さく悲鳴を上げ、身を固くする。清潔な布を当てて、包帯を慣れた手つきで巻き、寝台にうつ伏せに寝かせた。首筋に触れると、熱はなかった。
「なぜ打たれた? 使用人を鞭で打つことは禁じられているはずだ」
もちろん、それが形ばかりであることはディランも知っている。辺境の砦には、そうした規律の網からこぼれ落ちた人々が多くいた。
「昨日、ルーイが手違いを……。あの子たちは、まだ小さいので……僕が代わりに」
「いつもそうなのか?」
「僕が、そうしてくれと……あの子たちには……こんなことは……」
フィオンは替えたばかりの敷布を握りしめた。冷たい布の感触が、痛む背中の熱を少し奪う。
「お前たちの親は知っているのか?」
フィオンは、諦めたように首を振った。
「私どもに親はおりません。皆、孤児院から引き取られて働いているのです」
“孤児院”という言葉に、シルヴァとマイソール卿の話が脳裏をよぎる。内密の件のようだったので、聞くに聞けなかった。何か関係があるのか――今となっては確かめようもない。
「いえ、ここは……そんなに悪い場所ではありません」
フィオンはわずかに顔を上げた。笑おうとした唇が、震えていた。
「確かに時々、こんなふうに打たれることもありますが……食べるものも、服も、部屋もあります。癇癪を起こさなければ、ドナル様も……お優しい方です」
その声には、痛みを塗り隠すような無理な明るさがあった。
気まぐれに怒りと優しさを交互に見せ、支配する――ドナルのやり口は、まさにそれだった。外から見れば歪でも、時折の優しさがある限り、当人には鎖が見えない。ましてや、親のいない若者ならなおさらだ。
「その癇癪は私のせいか。昨日、あいつを怒らせたからな。……いっそ殴り返しておけばよかったかもしれん」
「そんな、ひどいことを……! それに、もしドナル様を怒らせて孤児院がなくなったら……あの子たちは……」
「彼にどう言われているか知らないが、ドナルにそんな権限はないはずだ」
「……本当……ですか?」
フィオンの瞳が揺れた。
「七聖家は合議制だ。ドナルが孤児院を潰すなどと言っても、他の家が反対すれば決まらない」
「でも……ドナル様が……」
「ドナルの言葉は忘れろ。孤児院は簡単にはなくならない」
フィオンは固まったまま、しばらく動けなかった。
「私は書斎に行ってくる。今日は休め」
ディランが部屋を出ると、廊下でルーイとキアランがフィオンを探していた。
「お前たち。少し頼まれてくれるか?」
二人は顔を明るくして、館の外へ駆けていった。
ディランは二階の書斎に入り、鍵を開ける。懐から取り出したのは、この館の見取り図だった。昨日見つけた地下室を描き加え、ほぼ完成している。
椅子にもたれ、図面を眺めていると、書棚の一冊が目に留まった。エル・カルドの法律書。ぱらぱらとページをめくる。
ローダインのように複雑な法体系ではなく、エル・カルドの法は驚くほど簡素だった。例外的な事象は、七聖家の会合で多数決によって決められる。
少数の固定化された民の間では、法よりも慣習が力を持つ――そういう土地柄なのだろう。
この仕組みでは、自浄など望むべくもない。七聖家の人間が罰せられることなど、よほどのことがなければ起こらない。ドナルが裏切り者であろうと、若い使用人を打とうと。
しかも今、七聖家の会合に出席する〈アレスル〉はドナルだけ――。
魔道符はあの老人の手によるものと判明した。あとは、フォローゼルの誰と繋がっているのかを探るのみ。
この館にはまだ客人は来ていない。だが、雪が溶け国境が開けば、往来が再び始まる。その時こそ――。
――もうしばらくは、大人しく従っておくしかない。
◇ ◇ ◇
フィオンが目を覚ますと、部屋には誰もいなかった。背中に毛布がかけられ、暖炉は赤々と燃えている。けれど、指先は凍えるほど冷たかった。
(お客様の寝台で……)
慌てて起き上がり、シャツと上着を身に着ける。昨夜は痛みで眠れなかったとはいえ、あまりの失態だ。
廊下へ出ると、応接室から賑やかな声が響いてきた。
「ディラン様、これでいいですか?」
「ルーイ、重ねると乾かない。もう少し離せ」
「ディラン様、これも洗ってきます!」
「待て、キアラン。そんなに量をどうする気だ。薬屋でも開くつもりか。半分は捨ててこい」
「嫌です。全部薬にします」
(薬……?)
フィオンはそっと扉を開けた。
「フィオン!」
ルーイとキアランが目敏く気づき、駆け寄ってくる。
「ケガ、大丈夫?」
「うん、大丈夫……。ディラン様、申し訳ありません」
「もう動けるのか?」
「はい。……あの、これは?」
部屋の中は、莚の上にびっしりと葉が並べられていた。
「木蔦の葉だ。薬箱にあったのは小麦草だったが、その傷なら木蔦の方がいい。砦でも兵士に使っていた薬だ」
「これ、全部薬にしてフィオンにあげる!」
キアランが籠いっぱいの葉を抱えて笑う。
「だから採りすぎだ。捨ててこい」
「嫌です。たくさん塗って早く治って欲しいんです」
「たくさん塗っても一緒だ」
キアランはこの世の終わりのような顔をした。
「……洗うのは、今のが乾いてからだ。それでいいな」
キアランは満足げに籠を部屋の隅に置いた。
「あの……ありがとうござ……」
「もっと筵を取ってきます!」
ルーイが駆け出す。
「廊下を走るな!」
ディランの声が飛んだ。
フィオンは二人のはしゃぐ姿を見て、孤児院にいた頃の元気を取り戻しているのを感じた。
暖炉の炎を見つめながら、冷えた指先を頬に当てる。
風が窓を鳴らし始めた。
「吹雪になる。ドナルはしばらく来ないだろう。今のうちに休め」
その言葉どおり、吹雪は数日続いた。
白い闇が館を覆い、外界との道をすべて閉ざす。
だがその静けさの中で、子らの笑い声がときおり廊下を渡り、
炎の揺らめきが夜を照らした。
館は雪の帳に守られた小さな世界となり、
そこには短くも確かな安らぎがあった。
それは、嵐の狭間に訪れたひとときの光――
やがて再び、外の世界が動き出すまでの休息だった。




