045 地下室 城外の館⑤
その日、ドナルは上機嫌で帰ってきた。
エル・カルドによるウィラードとシルヴァの捜索は進展せず、原因の調査も行き詰まりを見せている。
今のところ、すべてがドナルの思惑どおりだった。
館へ入るなり、彼は真っ先にディランの部屋を訪れる。与えられた長衣を身につけ、椅子に座るだけのディランの姿を見て、ドナルの口元がゆるんだ。まるで鷹を手なずけた狩人のような笑みだ。
「大人しくしていた見返りに、今日は地下室へ連れて行ってやろう」
ドナルはディランを連れ、石扉を開いた。
地下へ通じる階段の先には、ローブを目深にかぶった小柄な老人が立っていた。
降りるたびに空気は重くなり、湿った石の匂いが肺にまとわりつく。生ぬるい息のような風が足元を這い、時間が止まったような静けさが広がる。
階下の中央には、孔雀石の台座が置かれ、その表面から淡い緑光が滲んでいた。
光の揺らぎの中に、不思議な文字が浮かぶ。――ディランには見覚えがあった。
〈結界の魔道符〉。フォローゼル兵が持っていたものとよく似ている。
「近づくな!」
老人のしわがれ声が響く。
「触れると、弾き飛ばされるぞ」
言い残して老人は、部屋の奥の椅子へ腰を下ろした。机の上には書き物の束と木箱、散乱した器具。紙と埃の匂いが、地下の空気に染みついている。
「あまり脅かすな。触れなければ大丈夫だ」
ドナルは魔道符を避けて回り込み、老人に近づいた。
「古歌を見せてくれないか」
「古歌? そんなものにご興味がおありで?」
「彼がね」
ディランは小さくうなずいておく。
老人は束の中から、地塗りされた麻布を数枚取り出し、手渡す。
「この書は、どこで手に入れたんだ?」
ディランは目を走らせたが、すぐに視線を逸らした。何が書かれているのか、まるでわからない。
「……それは、お前さんの知らぬ場所じゃ」
「〈聖剣の儀〉で唱える詠唱も古歌の一つだと聞いたが、そうなのか?」
その言葉に、老人の目がわずかに光った。
「ほう、その通りじゃ」
声が熱を帯びる。
「――ただ、長い年月の口伝で随分と変わってしまってな。元の音は、もう誰にもわからん。古歌はエル・カルドが結界に閉じこもる以前からあったものらしく、外の世界にも似た歌が残っておる。吟遊詩人が詳しかった」
言葉が止まらなくなる。
老いた指が、空中に旋律を描くように動いた。
「だが外でも口伝えゆえ、別の歌になってしまった。何が正しい音なのか――もう誰にもわからんのじゃ」
「〈聖剣の儀〉では、何かわからない詠唱をずっと唱えているというわけか。ご苦労なことだな」
ディランは、意味も知らず必死で詠唱を覚えていたシルヴァを思い出す。胸の奥がわずかに痛んだ。
だが、同時に疑問が浮かぶ。
トーマの歌った古歌を、シルヴァはそれだと言った。
トーマがバルドから教わった歌が、エル・カルドの古歌なのか――それとも外の世界の残響なのか。
老人はさらに声を落とし、言葉を紡ぐ。
「古歌は、古代の巫子が神々と対話するために歌ったものだとも言われておる。もしその説が真なら、元の音を取り戻せば……魔道を超える術が得られるかもしれん」
「ほう、それは初耳だな」
ドナルの目が細まる。
興味と野心が、その奥に沈んでいた。
「そんなものを手に入れて、どうするつもりだ」
ディランは麻布を返しながら尋ねた。
「別に、どうもせん。老人の探究心じゃよ」
そのとき、机の上の束が崩れ、何かがコロリと床を転がった。
拾い上げると、それは孔雀色の小石。
――フォローゼル兵が持っていた“お守り”と同じもの。
「君は、これが何か知っているようだね」
ディランは答えなかった。
ドナルは指輪をはめた手で、ディランの顎を持ち上げた。
「君はすぐ顔に出る。間諜ごっこには向いていないよ。誰に頼まれてここへ来た? マイソール卿か? そう……君はシルヴァの友人だったね」
ディランは手を振り払い、壁際に退いてにらむ。
「友人でも何でもない。ただの知り合いだ。この石は、フォローゼル兵が同じものを持っていた」
「フォローゼルの……ああ、そうだった。君は彼らと戦っていたんだね。あの魔道符は君には効かなかったようだ。やはり、凡人が使っても大した力はないらしい」
「やはりお前か。目的は何だ。フォローゼルと手を組むつもりか」
「つもりじゃない。もう組んでいる」
一瞬、空気が止まった。
蝋燭の火がわずかに揺れ、油がはじけた音が響く。
ディランは言葉を失う。理解が追いつかない。
「君は、父君がフォローゼルに連れ去られたと言いたいのだろう。だが、私から見れば君の母君もローダインに連れ去られたようなものだ。どちらも同じことだよ」
「……何のために、フォローゼルと」
「エル・カルドをローダインから解放するためさ」
「解放? 馬鹿なことを」
ドナルはディランの首をつかみ、壁に押し付けた。
腕が丸太のように締まり、息が詰まる。
「馬鹿なことだと? このローダインの犬め!」
呼吸が途切れ、視界が白む。
ドナルの怒号が、洞窟のような壁に反響した。
「ローダインが今まで何をしてきた! 国を無理やり開かせ、自分たちの法を押し付け、七聖家に血を混ぜろと命じる。どこまでエル・カルドを貶めれば気が済む! お前もだ、ローダインと並んで戦うなど……誇りはないのか!」
手が離れ、ディランは床に崩れ落ちた。
冷たい石の感触が肘を刺す。
「ローダインからフォローゼルに鞍替えしたところで、同じことだ」
「同じではない。フォローゼルの属国になるつもりはない。エル・カルドは独立する。どの国にも干渉されぬ国となるのだ」
「兵すらろくにいない国が、どうやって守る」
「我々には魔道がある。そして、再び結界を張ることもできる」
「……また閉じこもるつもりか」
ドナルは床に膝をつき、ディランの頬を両手で包んだ。
掌が湿って、熱い。
「エル・カルドは、本来の姿に戻るだけだ。そのためには聖剣をすべて取り戻す必要がある。いずれ君の力も必要になる。逃げ出そうなどと思うな」
その言葉を残し、ドナルは長衣の裾を翻して階段を上がっていった。
蝋燭の炎が一つ、弾けた。
静寂。
ディランは息を吐き、天井を見上げた。
石の継ぎ目から、わずかに光が漏れている。
床に転がる魔道符を拾い上げ、老人を見た。
「じいさん。この魔道符を作ったのは、あんたか?」
「ああ」
老人は視線を逸らし、フードを深くかぶる。
「……お前さん、いつまで寝転がっとる気だ。わざとらしいわ」
ディランはゆっくりと体を起こした。
木箱の隙間に、金属の輪といくつもの魔道符が見えた。
「あんたは、魔道を誰に教わった?」
「魔道など……。儂に出来ることは、魔道符を作ることだけ。まったく、今の七聖家の連中は何も知らんのう」
「昔の七聖家を知っているような口ぶりだ。誰かに雇われていたのか?」
老人の顔色が変わり、声を荒らげた。
「さっさと出ていけ!」
ディランが地下室を出ると、フィオンが不安げに待っていた。
「ディラン様、大丈夫ですか? 何があったんです?」
「ああ、大丈夫だ。大したことはない。どうかしたか?」
首をさすりながら、答える。
「いえ……ドナル様のご様子が少しおかしかったので」
「ちょっと怒らせただけだ。心配するようなことじゃない」
そのとき、階段の上からルーイが駆け降りてきた。
「ドナル様が……」
その目には、うっすらと涙がにじんでいた。
フィオンは胸騒ぎを覚えながら、ドナルのもとへ駆けていった。




