044-2 エル・カルドの歴史 二人の行方⑥
昼下がりの陽が、山の斜面をゆっくりと滑り落ちていた。
冷たい空気に、草の匂いが淡く混じる。
シルヴァは山道を抜け、集落の外を目指して歩いていた。
けれど、歩いても歩いても、いつの間にか同じ場所に戻ってくる。
山歩きに慣れた彼にとって、それはあり得ないことだった。
(これが……結界か)
腰のナイフで蔦を切り取り、歩きながら木々の幹に括りつけていく。
別の場所へ飛ばされるたびにまた蔦を結び、それを繰り返すうち、結界の形がぼんやりと浮かび上がってきた。
そして、シルヴァ自身がその流れ――結界の「力の脈動」のようなものを感じ取り始めていた。
それは〈アレスル〉になって得た感覚ではない。
物心ついた頃から、ずっと感じていた“何か”だった。
言葉にできず、誰にも話さなかっただけで。
日が傾き始めたころ、小屋に戻った二人は、暖炉の火に手をかざしながら、ゆっくりと息を吐いた。
書蔵庫の冷気がまだ肌に残っていた。
凍えた指先がじんと痛み、火の匂いと蜜の香りが混ざり合っていく。
老人たちにもらったリンゴ草のお茶を口にすると、ようやく身体の芯が戻ってきた気がした。
「外の結界はお手上げだな。同じ場所をぐるぐる歩かされたり、急に別の場所に飛ばされたり。ここに戻ってこれたのが奇跡だ。まあ、明日は別のルートを試してみる。ウィルは何か掴めたか?」
シルヴァは蜂蜜の壺に匙を突っ込んだ。
「魔道書はさっぱり。でもね、歴史書の方が気になって……。シルヴァ、エル・カルドの歴史の始まりって覚えてる?」
ウィラードは蜂蜜を落としたお茶をかき混ぜながら、湯気を見つめた。
青りんごと蜜の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
火の光が彼の頬を橙に染め、書蔵庫の冷気がまだどこかに残っていた。
「ああ、『その地に七振りの剣あり』――だったかな」
「うん。『その地に七振りの剣あり。剣に選ばれし者たち、その地を治めたり。乱れし世を捨て、ここに結界を置く』――でもね、違ったんだ」
ウィラードはお茶を一口含み、視線を落とした。
湯気が揺れて、言葉を迷うようにほどけていく。
「……『その地に一人の巫覡あり。その者、良き七人に剣と御技をたまふ』」
小屋の中が静まり返る。
火のはぜる音が、やけに遠くに聞こえた。
シルヴァは聞き慣れない言葉に眉をしかめた。
「……え? 『巫覡』? 『たまふ』? 何だそれ。勘弁してくれ。かいつまんで言ってくれ」
ウィラードは喉の奥で笑いを噛み殺しながら続けた。
「つまり――昔、今のエル・カルドの地に一人の巫子がいた。その人は七人に剣と魔道を授けて、世界を治めるよう命じた。でも世の中は魔道に満ちて乱れた。怒った巫子は七人から力を取り上げようとしたけど、逆に退けられて追われた。そして巫子は言ったんだ。『わたしが再びこの地に現れた時、お前たちは滅ぶのだ』って」
その言葉が落ちた瞬間、火が小さく弾けた。
炎の明滅に合わせて、二人の影が壁に揺れる。
まるで巫子の声が、いまもこの地に残っているかのようだった。
「……歴史というより、神話だな」
「だね。でも続きがある。『巫子の言葉を恐れた七人は、エル・カルドに結界を張り、世界から忘れ去られるだろう』――そんな内容だった」
シルヴァは息を吐き、顔を上げる。
火が瞳に映り、ゆらゆらと赤く光った。
「いやあ、すげぇなウィル。あの短時間でそこまで読んだのか」
「でも、出るためには、魔道書の方を読まなきゃダメなんだろうね」
「今更焦っても仕方ねぇ。出来ることからやるしかないな。しかし、七人が七聖家の始まりってことか」
「たぶんね。でも、それも本当かどうか……今となっては誰もわからない」
「昔の人は本当だと思って、あれを歴史書として残したんじゃないか? でも何で歴史を変える必要があったんだ?」
ウィラードはお茶を飲みかけて、ふと手を止めた。
火が彼の瞳に映り込み、橙の光がゆらめく。
「僕が子どもの頃、アルドリック陛下が言ってた。――国っていうのは、治める側と治められる側に分かれるものだって。その間には、どうしても“差”ができる。だから治める側は、自分たちに正当性を持たせる理由を作るんだ。神の血だとか、年長者の権威だとか、武力とか……。七聖家の人たちも、巫子と争ったなんて歴史は不都合だったんじゃないかな」
薪が崩れ落ちる音がして、火の粉が舞う。
ウィラードは再びお茶を口にした。
蜂蜜の甘さが静かに喉を滑り、書蔵庫の冷えがようやく溶けていく。
「本当の歴史と、見せるための歴史は違うってことか」
「シルヴァ。魔道書は第二聖家の管理って聞いたけど、歴史書は誰が書いてるの?」
「歴史書か? 第七聖家だな。会議の議事録も全部あそこがまとめてる」
「第七聖家の人って、どんな人?」
「正直、よく知らねぇ。大人になってからはエル・カルドにいなかったし。隣の屋敷なのに、どんな生活してるのか全然わからない。存在感が薄いっていうか……。確か、髪の薄い気の弱そうなおっさんだった――」
「僕が初めてエル・カルドへ来た時に、紹介されているはずなんだけど、はっきり憶えてなくて。その後も、話をした記憶がないんだ。〈聖剣の儀〉に出てくれているはずなんだけど、みんなローブを被ってたし……。名前は知ってる?」
「…………シモン……かなんかだったと思うけど、忘れた。はっきり思い出せないな」
シルヴァは頭を掻きながら、天井を見上げた。
煤けた梁に火が反射し、ゆらりと影が揺れる。
「エル・カルドって何で結界が解けたんだろう。今の歴史書には、何て書いてあるのかなと思って」
「親父に聞いた話では、結界が解けた前後に第七聖家のアレスルが、剣を持ったままいなくなっている。結界が解けたことと、何か関係してるんじゃないかとみんな言ってるんだが、わからないままだ」
「その人のことを、捜さないの?」
「結界が解けた直後は、それどころじゃなかったし、今となっては探しようもないだろう。大人が一人、本気になって隠れたら、なかなか見つからないもんだぜ」
「そうなの?」
シルヴァは静かにうなずいた。
暖炉の火がぱちりと弾け、橙の光がゆらゆらと揺れた。
書蔵庫の沈黙とは違う、柔らかな静けさが小屋の中に満ちていく。
外では、風が木立を撫でていた。
昼に見た結界の気配が、まだ山の奥でうごめいている。
それはまるで、遠い昔に封じられた神話の残響のようだった。




