044-1 エル・カルドの歴史 二人の行方⑥
湿った空気が、長い眠りから覚めたように揺れていた。
誰もいないはずの空間なのに、足音を立てるたび、古い紙の匂いがざわめく。
シルヴァは途方に暮れた顔で、ウィラードの方を見た。
「どうする、ウィル? ……これ、読まなくちゃ外に出られないのか?」
ウィラードは書架のほこりを払いながら、本を取り出して開いた。
古びた紙の甘い香りが、ひんやりとした空気に溶けていく。
冷たい石壁に触れると、指先にかすかな湿り気が残った。
息を吸うたびに、埃と紙の匂いが胸の奥で静かに混ざり合う。
「まさか全部読めってことじゃないと思うよ。定期的に書き写してるって言ってたから、同じ内容のものが年代別に並んでるんじゃないかな」
「ああ、そうか。びっくりした。――じゃあ、新しいところだけ読めばいいんだな」
二人は手分けして、一番新しい年代が記された書架を探し始めた。
棚の間を抜けるたび、ほこりがゆるく舞い、光の筋を柔らかく曇らせる。
空気は冷たいが、どこか柔らかく、沈黙が自然に肌に馴染んだ。
「一番最近っていっても、もう三十年くらい前だね」
「読めそうか?」
ウィラードは色の変わった本を注意深く開き、指先で紙の感触を確かめた。
しっとりとまではいかないが、乾ききってもいない――静かに息づくような手触り。
頁をめくる音が、奥の闇に吸い込まれていく。
その闇の奥で、誰かが息を潜めているような気がした。
ただの錯覚だとわかっていても、肩の奥が微かにこわばる。
「うん、なんとか。でもこれは……今の言葉じゃないよ。文字は同じなのに、文が全然違う」
二人は地面に腰を下ろし、ページを追い始めた。
書蔵庫は本を収めるための場所であって、読むための場所ではない。
机も椅子もなく、石の床の冷たさがじわりと伝わる。
空気は動かず、静寂が二人の呼吸を包み込んでいた。
しばらく本に目を走らせていたシルヴァは、やがて書架に本を戻し、熱心に読み続けるウィラードを横目に見つめた。
「ウィル、無理すんな。こんなの、俺でもわからねえ」
ウィラードは顔を上げずに答える。
「大丈夫。僕は、文字で読む分にはエル・カルド語も共通語も変わらないから。会話は共通語の方が楽だけど……。シルヴァはどっちで話す方が楽?」
「俺はどっちでも大して変わらないかな。もともと難しい言葉なんか使わねぇし、伝わればいいって思ってるから」
ふと、ウィラードが文字を追う横顔を見た。
淡い光に照らされたその横顔は、少しだけ儚げだった。
シルヴァの胸の奥に、言葉にならないざらつきが残る。
「まあ、俺はバカだからな。特に何も考えてねぇだけだ」
ちょうど区切りのいいところで、ウィラードはようやく顔を上げた。
「そんなことないよ。さっき思ったけど、シルヴァってけっこう色んなこと考えてるよね」
「うん? そうか?」
シルヴァは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「魔道の話のとき」
ぱさりと頁がめくられる。
静けさが棚の隙間に流れ込み、空気が少し震えた。
その音さえ、書蔵庫の奥に吸い込まれていく。
「ああ、あれか。あれは周りの連中が、エル・カルド人は魔道が使えるのかとか、しょっちゅう聞いてきたから考えただけだ。別に意味はねぇよ」
古い本に手を伸ばしたシルヴァは、紙のもろさに驚き、そっと戻した。
「考えたとしたら……どうやったら俺が〈アレスル〉じゃなくなるか、とかかな」
シルヴァは視線を落とした。
無意識に剣の柄を探しかけて、指先が宙で止まる。
炎の光がその指を照らし、影が小さく震えた。
「そんなこと、考えてたんだ」
ウィラードは、ふと表情を曇らせる。
炎の音だけが残り、胸の奥で何かが軋んだ。
「その辺の奴、適当にひっ捕まえて剣を抜かせたら、案外誰か抜くんじゃないかとか。そうしたら俺はアレスルじゃなくなるのかなって」
ウィラードは言葉を失った。
この人にとって、〈アレスル〉であることはそれほどまでに重いものなのか――。
しばらく書架の間をうろついていたシルヴァは、やがてあくびをしてウィラードに鍵を投げ渡す。
「俺、外の結界がどんなもんか見てくるわ」
それだけ言うと、ふらりと出ていってしまった。
ウィラードは残された書物を次々と引き出し、ひたすら読み続けた。
石板や木板の文字は古すぎて判読できず、粘土板も同じだった。
羊皮紙や紙の本には、歴史書と魔道書が多く並んでいる。
魔道書は難解すぎて手が出ず、歴史書から読み始めたが、それもすぐにつまずいた。
自分が知っているエル・カルドの歴史とは、まるで違っていたのだ。
(どういうことだ……?)
ウィラードは書物を抱えたまま、静かに天を仰いだ。
薄暗い天井の石目が、どこまでも冷たく光っていた。
その光の奥で、何かがゆっくりと目を覚まそうとしているように思えた。




